† 表象文化論 †

表象文化論における「皮膚」のテマティック――谷川渥「芸術の皮膚論」講義を中心にして

(1)【「肉体の美術史―芸術の皮膚論講義―」要約】


「芸術の皮膚論」の五つの方法

①肉体・皮膚・着衣の関係に注目する。
②「皮剥ぎ」の物語から、騙し絵の問題にまで及ぶ。
③「絵画術」を「化粧術」との類比において考える。これは線と色の二元論的問題に関係する。
④ダーマトロジカル・エステティクス(皮膚病理学的美学)を、「皮膚の記号論」として捉え直す。
⑤「聖顔布」や「聖骸布」の伝承を、「版」の問題として捉え直す。



谷川は西洋文明を以下のように大別する。

・ヘレニズム(ギリシア・ローマの思想・芸術)…「裸体の文化」
・ヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)…「布の文化」



 ヘレニズムの芸術、例えばギリシア彫刻では屈強で美しい理想的な裸体像が肉体美として提示されている。他方、ヘブライズムでは創世記に端を発するように、恥部はイチヂクの葉で覆い、着衣した形式が芸術における一般的規則となる。「聖顔布」や「聖骸布」といったテーマも、布の表層に「キリスト」それ自体が顕現するという、高度に表層的なものである。
ヘレニズム的造形の根本原理は、マッス(量塊)とプロポーション(比例)といわれる。マッスの例として、ロダンが《ベルヴェデーレのトルソ》を見て、「断片様式」を開始したという挿話が紹介される。トルソは不完全な形、いわば断片であるが、ギリシア人たちは首、両足両腕がなく胴体だけの彫刻でも「肉体美」の基本的調律は伝わると考えていた。ヘブライズムとヘレニズムの彫刻における融合としては、サンマルティーノ《ヴェールに覆われたキリスト》(1753)、アントニオ・コラディーニ《羞恥》(1752)がある。絵画としては、ティツィアーノの《聖愛と俗愛》(1515頃)が二つの思想系列の融合として紹介されている。「聖愛」が裸体、「俗愛」が着衣した女性として描写されている点が意味深長である。




※「イギリスのエドワード・バローは芸術作品と観者との<心的距離>について、できるだけ接近しつつも、なお一定の距離を置くのが一番良い鑑賞方法だといっています。関心を誘発しながらも最終的には接触させない距離です。距離が離れすぎると作品の鑑賞はできない」(p252)

※ヴェサリウスの『ファブリカ』には、「皮剥ぎされた人」と等価なものとして、「廃墟」が背景に描かれている。解剖学は、谷川美学における「着衣―裸体―皮剥ぎ」のテマティスムにおいて重要である。また、小澤京子の『都市の解剖学』に見受けられるような、「建物」の表層を「皮膚」として把捉する視座とも、谷川美学は明らかに通底している。

※コスメティクス(化粧術)=絵画術という等式は、フィロストラトスや、プラトンの『ゴルギアス』において既に見出される。

※古代ローマのプリニウスが伝える「ゼウクシスとパラシオス」という二人の画家の力量較べの挿話について。

「ゼウクシスは画面に葡萄を描き、それがあまりに真に迫っているので、空を飛ぶ鳥が啄ばみ降りてきます。ゼウクシスはその瞬間勝ったと思います。そこで、パラシオスに、お前の絵を隠しているカーテンを取って絵を見せろという。すると、そのカーテンがパラシオスの絵だった。ゼウクシスは自分が騙されたことに気付いて、鳥を騙した俺より画家である俺を騙したお前の勝ちだ、といって賞を譲ったという。この話は、真理のあり方、剥いだ奥に何か本物があるという考え方を批判することにも関係して、とても面白いと思います。騙し絵には、迫真の葡萄で鳥が来るという<見つめさせる迫真>と、絵画であること自体を転倒させる<見つめさせない迫真>があって、後者が本来の騙し絵というべきです。…本来のあり方は、絵画のイメージを支える物質=メディウムで戯れて、人を束の間騙そうとすることです」(p259)



※バーバラ・スタフォードの「皮膚病理学的美学」については、これはそもそも18世紀に流行した視座であった。Sêmeion(記号)は、「皮膚に現れる病変、症状をさす」。セメイオティケ(診断術)が、セミオティクス(記号論)の由来である。

(2)【ジル・ドゥルーズの「襞」の思考からの発展】

 本書『肉体の迷宮』第七章「ピュグマリオン・コンプレックス」にはベルニーニの「襞」について興味深いテクストが存在する。彼の彫刻における衣服の「襞」は、それ自体で自己目的化して増殖を繰り返している。その上で、《ヴェールを剥がれる真理》(1645-52)という女性像では、衣服が彼女の恥部を隠蔽しているが、外面に表出している衣服の「襞」が、恥部の内部の「襞」を表象=代理していると考えられる。その場合、隠匿されているものが、代理的に外面にしっかり表象されていたことになる。こういった「肉のイリュージョン」についての谷川の以下のテクストは示唆的である。

「ドゥルーズは襞を、非有機的な物質が常に外側あるいは周囲から規定されるところの<外生的襞>と、有機体が固有の諸部分を折り目づけ、また展げるその能力によって規定されるところの<内生的襞>とに区別した。つまり、襞は有機的と非有機的とを、あるいは内と外とを問わず、際限なく生成するのだ。こうした考え方は直接にベルニーニに即して述べられているわけではないが、彼の作品を観る場合に決定的な意味を持つように思われる。聖女テレサやルドヴィカ・アルベルトーニの肉体を覆う外部の襞<外生的襞>は、肉体の内部の襞<内生的襞>に呼応しているのではないか――そういうことを考えさせるのだ」(p198)



 この谷川の思考は輝かしい跳躍を見せており、本章において圧巻である。彼は続ける。

外部の襞は内部の襞の反復なのだといってもいい。ここには、したがって、内部と外部とのア・プリオリな二元論は存在しないということもできる。肉体内部の襞と着衣の襞は、同じものであり、あるいは同じものから同じものへの転移である。これは、まさしくカトリシズムにおける聖餐の化体あるいは実体変化を髣髴させないではいない」(同)



「内生的襞は背後に立ち上がったヴェールに隠喩化し、その化体の有り様は肉体の表面の輝きに顕現するといってもいいほどである。バロックは確かに、ドゥルーズも強調するように、着衣の襞に特権的性格を与えた。それはまた、バロック特有の官能性、エロティシズムに関係すると見ることができよう。しかしバロックは同時に、肉体そのものをいわば生きた衣服=ヴェールとみなす感性を具体化したともいえるように思う。着衣のエロティシズムは、肉の着衣にまで及ぶのだ。だからこそ、そこでは着衣と裸体とが、襞と皮膚とが、それぞれの自立性を確保したまま対等の関係で並ぶのである」(p200)



 このテクストは、明らかにアナトミーを前提にしている。18世紀において興隆した解剖学は、人体の皮膚を切開し、開く。内臓が露わになるわけだが、この時、谷川的に考えると、皮膚は着衣の一様態であるわけだから、内臓こそ(解剖された人体内部)が真の「裸体」となる。最早「ピュグマリオン」のテーマからは大きく逸脱しているが、この部分はユベルマンの『ヴィーナスを開く』の終章で対象化されているクレメンテ・スジーニの《医師たちのヴィーナス》における、「裸体とは何であったか?」という重要な問いと密接に関わっている。
 ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》でも女神は恥部を髪でイチヂクの葉の如く隠蔽しているが、ユベルマンの解釈によれば彼女は「裸体」ではない。この絵のヴィーナスは裸体ではなく「ヌード」である。ヌードと裸体には決定的な差異がある。ヌードは芸術の一ジャンルであり高尚な画題であるのに対し、裸体はもっと通俗的で生々しくどちらかというと卑しいものである。眼前のヌードを前にして、それが「裸体ではない」という時、我々にとって彼女の見えない皮膚の奥に潜む人体領野こそが真の「裸体」となる。皮膚は常に更新され新しく上塗りされていくが、谷川がドゥルーズから敷衍して思考する「内部と外部の根源一体性(折り畳み合い)」は、「皮膚」が果たして「覆うもの」であるのか、「仮面」は果たして「素顔」と何が違うのか、といった刺激的な問いを本源的に誘発する。
 諏訪哲史は『領土』の中で、女性の「顔」には彼女の「性器」に関する全ての特徴が余すところ無く表出していると述べているが、これは谷川に学んだ作家らしい卓越した「内部と外部の根源一体性」を示す証左といえるだろう。

(3)【フランス革命期の建築家ジャン=ジャック・ルクーにおける「建築の皮膚」について】

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by Jean- Jacques Lequeu

18世紀イギリスの芸術理論家ウィリアム・ギルピンは、廃墟の表面を「老いた皮膚」と並置している。ユルスナールもピラネージの廃墟を「裸体画家にとっての屍体解剖」と呼称している。何故、この時代の芸術家たちは建物を身体のアレゴリーとして捉えることができたのか?
バーバラ・スタフォードによれば、この時代の啓蒙主義の基本精神こそが、解剖学だったのである。そこでは、廃墟は「皮膚組織の裏返し」であり、戦火による建物の砲弾痕などは「傷口」となる。この時代の解剖学的な視座に基づけば、ピラネージの廃墟画などは、「建築物の皮剥ぎ」として規定されるのである。重要なことは、これが単なる「形容」ではないことだ。著者の専攻が表象文化論であることを思い起こそう。紛れもなく、建物の朽ちた表象は身体論のトポスとして認識され得るのである。

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by Jean- Jacques Lequeu

Jean-Jacques  Lequeu

by Jean- Jacques Lequeu


その中でも、王立アカデミーで教育を受け、フランス革命後に投獄され、その後文官になったというフランス革命期を生きた建築家ジャン=ジャック・ルクー(Jean-Jacques Lequeu/September 14, 1757 – March 28, 1826 )の作品には、極めて奥深い魔術的なミステリーが宿っている。この作品を初めて観たのが小澤京子の本書であったということは、私にとって非常に幸運であったろう。私は彼の作品を眼にした時、奇妙なことにフランシス・ベーコン、ジェニー・サヴィリーを初めて観た時と同じくらいの衝撃を受けた。彼の作品はこの二人の画家よりも、いっそう静謐でいっそう無機質で、かつ偏執的である。何かルクーの作品には青白く燃える火炎のような冷たさを感じるのである。


「ルクーの建築案集成」

彼の作品集としては、『architecture civile(市民的建築)』、『figures lascives(猥雑な人物像)』、『figures et architecuture(人物と建築)』などがあるようだ。彼の作品を、例えばTACHENなどから刊行していたとしても不思議ではないが、ベーコンすら収録されているのに何故かこの古典的な重要人物について大々的に特集される機会がないのは極めて残念なことである。

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by Jean- Jacques Lequeu

ルクーの視座は、「建築=身体の内部へと通じる開口部へのフェティシズム」であり、いわば「切断立面図」への拘りである。ルクーとはいわば、分断された建築的身体の体現者である。

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by Jean- Jacques Lequeu

ルクーにはヘルメス主義的な建築思想も働いている。それは、「建築が発生する初源的な場」を、「地下空間」として考えるものであり、この秘められた眼には見えない地下は、身体的にいえば「女陰」の奥にある「子宮」に相当する。子宮は象徴的に「洞窟」として表現されるが、ルクーには「胎内回帰願望」があることを指摘する研究者も存在する。これはしかし、母親を知らずに生涯を送ったレオナルドにおける神聖不可侵な女神=母親=聖母のイメージとどこかで通底している。事実このルネサンスの「普遍人」も《岩窟の聖母》という作品を残している。ルクーの思想に基づけば、ヴァギナの奥は「神を祀る場」=「祭壇」にほかならない。
これと類縁的なエピソードとして紹介されているのが、、フロイトの「イルマの注射の夢」の話だ。フロイトは、診察中けして口を開いてくれなかった女性患者イルマの口内を、遂に夢の中で見たのだという。しかし、彼女の口に彼は得体の知れない不気味な異形の肉(ラカンの分析では、これは女性の肉体が持つ秘められた部位の全てを反映しており、口の中にヴァギナの肉が存在していたと解釈することもできる)が蠢いていた……。

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by Jean- Jacques Lequeu

私はこれを読んでいて、キリスト教の図像の神秘的な伝統を想起せずにはいられなかった。ロンギヌスが突き刺した槍によって生成したキリストの傷口は、伝承によれば女性器の形状と瓜二つであったという。これはキリストの受苦の姿勢が神学的な次元では「女性原理」に基いていることを象徴したエピソードとして重要だ。
我々は創世記でどのようにエヴァが創造されたのかも想起すべきである。というのは、アダムの脇腹の肋骨から神は女を創造したわけだが、この時の脇腹の位置は、正確にロンギヌスが突き刺したあの部位と一致すると解釈する学者も存在する。すなわち、肉体において現前していない全ての部位は、目には見えない(隠匿されている)がゆえに、神聖な次元に達するのである。例えば、少年のまだ包皮に覆われた桃色の亀頭、一度も男に抱かれたことのない乙女の処女膜、或いは司祭の腹部下を這い回る長い腸の構造……これらの肉体的秘所は、「触れてはならない」がゆえに、「触れる」ことによって「超越」に達するという一種の宗教的磁場を有するのである。『ロンバルディア遠景』でも、女を抱くことが「真の神との合一」であると説教する場面があったり、体に無数の女陰が移植された怪物が出現したりする。特に「女陰」は、「命」を新たに生み出す世界創造の出発地点でもあるので、宗教システムを考える上で避けて通ることのできない場=聖域となる。ルクーにも、おそらくこれに似た何か女陰崇拝的な傾向があったのであろう。

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by Jean- Jacques Lequeu

ルクーのオルガノン(器官)への関心の強さは、ドゥルーズ&ガタリの名高い概念の倒置としての「身体なき器官」(詳細は石井洋二郎氏のマルドロール論を収録した『身体のフランス文学』参照)に通底している。。ルクーにとっては、全体としての体(彼女)よりも、特定の器官(彼女の性器、乳房、唇、臍、肛門、鼻腔、眼孔など、総じて開口部を有する部位)に強い関心があったのであろう。
特に彫刻的な美と無機質なグロテスクさを持って我々を衝迫するのが、ルクーの「女陰シリーズ」である。《妊娠適齢期》や《妊娠を望んでいる少女の性器の働き》などは、あくまでも医学用の資料として、或いは冷酷奇怪なポルノグラフィの亜種として読解することも可能だが、シリーズのうち二つ、実に奇妙なタイトルの女陰がある。それは、《処女の純粋さの見られる思春期の少女の噴火口》と、《錯乱した欲望に駆り立てられた思春期の少女の噴火口》という姉妹的なヴァギナである。「純粋さ」を象徴する女陰に対し、「狂気」と「官能」に支配された女陰は、筆致自体が著しく薄く、しかも小陰唇がグロテスクに捲れ上がり、全体的に巨大化している。これを、ルクーは一体どのような思考回路で「建造物」として描いたのであろうか。

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by Jean- Jacques Lequeu

「噴火口」という表現から、建物よりは「活火山」などの自然の事物に近い風景として描かれたのかもしれない。しかし、女陰という器官のみで、その持ち主の性格まで分析しようとするところに、パラケルススの「特徴表示説」(人間の内面的な心理的傾向は本人が気付かない内に全て外面に表出しているので、外も内も実質的には存在しないという説)が表れているようにも感じる。
我々はルクーの描く身体を、表象文化論で一般化された図式である「建築の表面」として読解することも可能だろう。建築との相関で把捉されたヴァギナは、最早あの女性が担う性器ではない。それは建築でも器官でもない、何か極めて刺激的で強靭な、“判る人にしか判らない”ほど稀有な「思考の発火源」にまで概念化されているのである。

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by Jean- Jacques Lequeu

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by Jean- Jacques Lequeu

18世紀が、解剖学の興隆した時代であるという特徴をよく表した事例が、クレメンテ・スジーニの解剖学模型である。これは蝋人形で造られた女性の人形だが、子宮の中の胎児に至るまで内蔵模型が精緻に丹念に作り上げられている。医学生用の実験教材だったのだろうが、《医師たちのヴィーナス》というタイトルが与えられている点が興味深い。つまり、これもまた一人の女神なのであろう。16世紀のヴェサリウス以来の伝統が、この作品に結晶化している。
18世紀といえば、フランスで近代スピリチュアリズムが流行し始める時代でもある。フランス革命による王党派(カトリック)の衰退は、そのままローマ・カトリック教会の権力の脱中心化をも意味していた。「王の死」とは、「神の死」でもあるというのは、この時代の重要なバックグラウンドである。そんな時代に、《医師たちのヴィーナス》が造られたり、ルクーが奇妙な「建築の解剖図」を描いていたという事実は、何か奇妙な符合性を感じないだろうか。この感覚は、アメリカでのハイズビル事件と並んで、18世紀という時代に対する私の強い関心を端的に表明したものといえるだろう。
ルクーの作品から得られた概念に戻ろう。「外部」と「内部」は、何らかの「開口部」によって滑らかに接続している。例えば女陰という開口部に小型の内視鏡カメラを射し込み、臓物を掻き分けるように突き進んでいくと、原理的には鼻腔にまで達するだろう。皮膚の表面と、皮膚の裏側の臓物は、「内と外」というディコトミー構造によって差異化されているのではない。それらは「開口部」によって浸透し合っているのであり、容易に反転し得るのである。

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by Jean- Jacques Lequeu

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by Jean- Jacques Lequeu

我々はルクーの作品に触れた後で、最早念頭にしないわけにはいかないひとつの定理を再発見する。すなわち、“全て偉大なるものは、嵐のさ中に立つ”(M.ハイデッガー『ドイツ的大学の自己主張』)と。この政治的にはエラーを多分に孕んだ哲学者の名高い講演の末尾(プラトンからの引用)は、徹頭徹尾「芸術論」として把捉せねばならない。「危機のないところに芸術はない」――総じて、全ての創造者は壮絶な魂の「危機」に対峙することによってのみ、一つの核爆発の如き偉大な作品=天空へと開かれる「大いなる火柱の突然の消滅」(『哲学への寄与論稿』)を創出可能なのである。


【彫刻における「皮膚」と「衣服」にまつわる資料】


The Rape of Proserpina 1621-22 Marble height 295 cm Galleria Borghese Rome
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《プロセルピナの略奪》(1621-22)

The Rape of Proserpina (detail) 1621-22 Marble Galleria Borghese Rome
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《プロセルピナの略奪》(1621-22)

The Rape of Proserpina (detail) 1621-22 Marble Galleria Borghese  Rome    2
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《プロセルピナの略奪》(1621-22)

カノーヴァ Paolina Borghese as Venus Victrix 1804-08 White marble 160 x 192 cm Galleria Borghese, Rome
アントニオ・カノーヴァ《勝利のウェヌスとしてのパオリーナ・ボルゲーゼ》(1804-1808)

Paolina Borghese as Venus Victrix (detail) 1804-08 White marble Galleria Borghese, Rome
アントニオ・カノーヴァ《勝利のウェヌスとしてのパオリーナ・ボルゲーゼ》(1804-1808)

ジュゼッペ・サンマルティーノ Giuseppe Sanmartino
ジュゼッペ・サンマルティーノ《ヴェールに包まれたキリスト》(1753)

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ジュゼッペ・サンマルティーノ《ヴェールに包まれたキリスト》(1753)

Giuseppe Sanmartino
ジュゼッペ・サンマルティーノ《ヴェールに包まれたキリスト》(1753)

Antonio Corradini 《ヴェールに包まれた謙遜》
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた謙遜》(1749 - 1752)

ヴェールに包まれた謙遜 ディテール
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた謙遜》(1749 - 1752)

Bust of a Veiled Woman (Puritas) アントニオ・コルディーニ
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた女性の胸像》) (1717-1725)

Stefano Maderno, Santa Cecilia 1600  Trastevere Roma
ステファノ・マデルノ《聖チェチリア》(1599)




「参考文献」

第七章「ピュグマリオン・コンプレックス」
第十章「肉体の美術史―芸術の皮膚論講義―」


肉体の迷宮肉体の迷宮
(2009/04/02)
谷川 渥

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谷川渥

出典:Wikipedia

谷川 渥(たにがわ あつし、1948年 - )は、日本の美学者、國學院大學文学部教授。

経歴

1972年東京大学文学部美学芸術学科卒業。1978年東京大学大学院博士課程修了。美学芸術学専攻。文学博士。 マニエリスム・バロックからモダニズム・現代美術にいたる広範な領域を視野に収めた研究で知られる。 芸術時間論、廃墟論、だまし絵論、シュルレアリスム論、そして「芸術の皮膚論」など、独自の視点による美学的地平を開拓。 友人に多摩美術大学教授・映像作家の萩原朔美、舞踏家の和栗由紀夫、教え子に作家の諏訪哲史などがいる。

単著

『構造と解釈』 世界書院、1984年
『形象と時間』 白水社、1986年/講談社学術文庫、1998年
『バロックの本箱』 北宋社、1991年
『表象の迷宮』 ありな書房、1992年/新編・1995年
『美学の逆説』 勁草書房、1993年/ちくま学芸文庫、2003年
『鏡と皮膚』 ポーラ文化研究所、1994年/ちくま学芸文庫、2001年
『見ることの逸楽』 白水社、1995年
『文学の皮膚』 白水社、1996年
『幻想の地誌学』 トレヴィル、1996年/ちくま学芸文庫、2000年
 中国語訳『幻想的地誌学―虚構地図大旅行』(邊城出版、2005年)
『図説・だまし絵』 河出書房新社、1999年
『イコノクリティック』 北宋社、2000年
『芸術をめぐる言葉』 美術出版社、2000年
『廃墟の美学』 集英社新書、2003年
『美のバロキスム 芸術学講義』 武蔵野美術大学出版局、2006年
『芸術をめぐる言葉 II』 美術出版社、2006年
『シュルレアリスムのアメリカ』 みすず書房、2009年
『肉体の迷宮』 東京書籍、2009年
『新編 芸術をめぐる言葉』 美術出版社、2012年

編著・共著

『芸術の記号論』(共著)勁草書房、1983年
『記号の劇場』(編著)昭和堂、1988年
『講座・20世紀の芸術』(全9巻、共編著)岩波書店、1989-90年
『アート・ウォッチング』(監修・共著)美術出版社、1993年
『アート・ウォッチングⅡ』(監修・共著)美術出版社、1994年
『モンス・デジデリオ画集』(解説)トレヴィル、1995年/新装版エディシオン・トレヴィル、2009年
『死都ネクロポリス』(解説) トレヴィル、1995年
『ユピテル変身譚』(解説)トレヴィル、1995年
『廃墟大全』(監修・解説)トレヴィル、1997年/中公文庫、2003年
『芸術理論の現在』(共編著)東信堂、1999年
『三島由紀夫の美学講座』(編・解説)ちくま文庫、2000年
『絵画の教科書』(監修)日本文教出版、2001年
『20世紀の美術と思想』(監修)美術出版社、2002年
『イコノエロティシズム―澁澤龍彦美術論集』(編・解説)河出書房、2003年
『天使たちの饗宴―澁澤龍彦同時代芸術論集』(編・解説)河出書房、2003年
『芸術の宇宙誌―谷川渥対談集』右文書院、2003年
『画狂人ホルスト・ヤンセン』(共著)平凡社、2005年
『稲垣足穂の世界タルホスコープ』(共著) 平凡社、2007年
『絵画の制作学』(共編)日本文教出版、2007年
『ベクシンスキ作品集成』(全3巻、解説)エディシオン・トレヴィル、2010年
 
訳書

ピエール=マクシム・シュール『想像力と驚異』白水社 1983年
エティエンヌ・ジルソン『絵画と現実』(佐々木健一らと共訳)岩波書店 1985年
エルンスト・ゴンブリッチ『棒馬考』(二見史郎らと共訳)勁草書房 1988年、完訳版1994年
ユルギス・バルトルシャイティス『鏡 著作集4』国書刊行会 1994年
クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン『見ることの狂気』ありな書房 1995年
アンドレ・ブルトン『魔術的芸術』(巌谷国士らと共訳)河出書房新社 1997年、普及版2002年
ガブリエーレ・ファール=ベッカー『アール・ヌーヴォー』(監訳)koenemann 2001年
エリー・フォール『美術史4 近代美術I』(水野千依と共訳) 国書刊行会 2007年







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