† ジャック・デリダ †

“どこでもない場所”としてのchora――J.デリダが建築界に多大なる影響を与えた建築論『コーラ』

Alfred Stieglitz

by Alfred Stieglitz

J.デリダが建築界に多大なる影響を与えた『コーラ』(1993)を読んだ。本書はデリダの思想そのものを知る上でも極めて重要であり、建築だけでなく総じて芸術全般に関わる制作者の立場に立つ者にとっても、非常に有益な作品である。


○ chora(コーラ)とは何か?


コーラとは何であるか? 実は、この問いの策定それ自体が、コーラを前にしてはミスリーディングなのであるが、あえてデリダは以下のように説明する――「これでもなくあれでもなく、これかつそれである、ともいえないもの」。コーラを語る上で、この「二重の排除」を念頭に入れないことは考えられない。コーラは、「名付けることへの何らかの不適性」であり、にもかかわらず「叡智的なるものに分与している」点で、限りなく神学的な「神」に近い、或いは神話における何らかの諸神に近い――しかし、そのどれでもなく「外部」へと永久にはみ出し、意味付けられることに抵抗し続ける、「思考の余白」である。
例えば、我々には国籍があり、参政権がある。しかし、コーラはいかなる国家にも所属せず、あらゆる領土の外を逃走し続ける、正体不明の何らかの軌跡である。
コーラは二項対立式の概念の彼方に存在している。例えば、コーラは善でもなく、悪でもない。コーラはデリダのいう「存在の二つのジャンル」である「叡智的で不動のもの」と、「生成的なもの」のどちらの類にも属さない。コーラには、「居場所に割り当てられるがままにならない」性質があり、「むしろ位置付けるもの」としての側に属する。コーラは概念からの逸脱それ自体であり、その余白へと跳躍していくものであり、「存在を時間錯誤化」する点で、従来の存在=神学論の体系に属さない。それは本来、「…である」、「…ではない」式の文法規則では語ることのできない、否定神学的な弁証法の彼方に存在している。デリダは以下のように強調する。

「コーラこそは、みずからを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象るものなのだ」

「コーラは、なにかある主体ではない。それは主体というものではない。基底材でもない。解釈学的諸類型がコーラに情報=形をもたらすことができるのは、つまり、形を与えることができるのは、ただ、接近不可能で、平然としており、アモルフで、常に手付かず=処女的、それも擬人論に根源的に反抗するような処女性をそなえているそれが、それらの類型を受け取り、それらに場を与えるようにみえる限りにおいてのみなのである」


ゆえに、コーラに「母」、「受容器」というメタファーを賦与することも本来的には誤謬である(クリステヴァの誤読)。コーラは「解釈の外」だからだ。ついでにいえば、コーラは現代思想で往々にして定義される時に用いられるような、「非―場所」ですらない。つまり、それは「文字」によって制度化不可能である点で、完全な空白の砂漠地帯なのである。コーラとは、私が本書を読解してイメージした言葉を用いることを赦されるならば、「宇宙以前に存在した超越的な他者による一種の、瞼を閉じること」であり、換言すれば、それは「安らぎ」なのである。
コーラの意味が宙吊りになっているということは、読解する者それぞれにコーラが何らかの、各自にとって必要な「意味」を与える作用を齎すということに他ならない。この点で、デリダは愕くべきことに、コーラをはっきりと、「ひとりの女性」として意味賦与しようと企ている。無論、コーラは擬人化されない。しかし、コーラとはデリダの解釈に従えば、明らかに“明かしえぬ女性そのもの”を意味し、これは父系列的体系としてのギリシア哲学を真に解体するために必要な戦略素として機能している。

「他方、その固有名詞(コーラ)は、例によって、ある人物=人称に、それもここでは一人の女性に帰せられるようにみえる。おそらく一人の女性に、どちらかといえば一人の女性に。このことは、我々が警戒したいと思ってきた擬人論の危険性を増大させはしないだろうか?」



コーラを女性としてイメージするデリダの思考の輝きは非常に美しい。それはスーラの素描で構成された幻影のような貴婦人が、ゆっくりとその輪郭を消尽させてやがては白紙へと還元されていくかのような詩的なメロディーを宿している。コーラ、この謎めいた、ひとりの女性。


○ 政治学におけるコーラの位相


それでは、歴史上、コーラの持つ特異な性格に最も近い人物は誰だったのか? ここから以下のテクストは「政治学におけるコーラの真相」を知る上でも非常に刺激的である。デリダ曰く、コーラは「ソフィスト」に類縁的である、何故なら、

「ソフィストたちという種類は、固有の場の不在、エコノミーの、定まった住居の不在によって特徴付けられる。この人々は召使を持たず、いかなる自らに固有の家も持たない。彼らは場から場へ、町から町へとさまよい歩く――哲学者や政治家といった、あれら場を持っている人間、つまり、都市国家において、あるいは戦争の際に、身振りや言葉によって行動する人間のことを理解できずに」



場を持たぬソフィストたち――しかし彼らは「ソフィスト」という場を有するというパラドックスがここに浮上する。実は、このソフィストにも、哲学者にも、政治家にも属さないと自称している風変わりな男が一人いた。それが、未だ現代思想にとって巨人的存在であり続けているソクラテスその人である。ソクラテスの性格を、デリダは以下のように把捉する。

「ソクラテスは、したがって、場を持ち、固有の場とエコノミーを持っている人々のジャンルに属するふりをする人々のジャンルに属するふりをしているのである」

「ソクラテスはコーラではないが、もしそれが誰かあるいは何ものかであったなら、彼はそれに大いに似ていることになるだろう。いずれにせよ、彼はみずからの場所に身を置く――それは他にも数ある場所のうちの一つではなく、おそらく、場所そのもの、置き換え不可能な場所である。これは、置き換え不可能で定位不可能な場所であり、そこから発して、彼はみずからをその目の前で消去してみせる人々(ソフィスト)の言葉を受け取るのだが、この人々もまた彼から言葉を受け取る――というのも彼こそがこの人々に語らせているのだから」


彼はソフィストに近いが、そのふりをしている以上、ソフィストではない。彼は、まさに「何ものでもない」。すなわち、ソクラテスのような人物は、いかなるgenos(類)にも属さない――genosから常に外部化していこうと逃走し続ける攪乱者――である点で、「コーラ」的人物なのである。ソクラテス/明かしえぬ女性/コーラという、この三つ巴の奇妙なイメージが、デリダの本書を透明の糸で貫いている。
ソクラテスの場所=コーラという位置付けは、今後も哲学に触れる上で我々にとって重要だ。もう一度注意深く、デリダの解釈を読んでおこう。

「…ソクラテスは、みずからが属するふりをしているこのgenosを告発する。彼は自分こそが、自らの主題について真実を告げていると主張するのである。実際には、この人々(ソフィスト)は場を持っていない、彼らは彷徨い人なのである、と。したがって、彼らに似ているこの私は、場を持っていない。この私は、いずれにせよ、彼らに似ており、私には場=理由がない。だが、私が彼らに似ており、あるいはそっくりであるということ――そのことは、私が彼らの同類であることを意味しているわけではない」



気のせいだろうか、私にはこのコーラこそが、デリダの差延、原―痕跡、パレルゴン、エスパスマンなどの諸概念を一括しているものであるように思われる。つまり、コーラという名のソクラテスとして現代に蘇生した非哲学者としての、“明かしえぬ女性”=デリダ。
確かに、ソクラテスは場所に属さない点で、ユダヤ的なディアスポラに近いものがある。ユダヤ的な「砂漠の思考」の持ち主でもあるデリダと、ギリシア思想の余白へと常にはみ出ていこうとするソクラテスの奇妙な一致。
コーラを、もしも「政治学」のキーワードとして読解した場合どうなるのだろうか? デリダによれば、ソクラテスは何か思考したことを自身では語ろうとしない。彼は常に、“確信犯的に”「他者に発言権を渡す」ことを行う。つまり、「わたしには場がない」が、「あなたには場=発話がある」。このコンテキストでいえば、ソクラテスには本源的にagora(広場)における「座席」がない。彼は政治的次元で何かを発する「座席」を持たない。彼には「ソクラテス」という名を記された議員札も名刺もない。このことは、一体何を意味するのであろうか。
デリダ=ソクラテスは、「場」をあたかも自分が持っているかの“ように”振舞うことしかしない。彼らはいかなる政治的な理論の中枢に留まることもしない。つまり、コーラは政治学における諸理論を常に「着衣」するだけで、常にそれを着衣させてくれた他者の口から借り受け、本人はあくまでも「裸体」である。デリダは以下のようにソクラテスのこの特異な位相を語る。

「彼の言葉は、その宛先でもなく、その言葉が届けるものでもない」



ソクラテスの産婆術的なスタイル――ここにはデリダの思想が持つ奥深さの根源が秘められているのかもしれない。agoraに席がないこと、我々には何処にも居場所がないこと――それは、我々がデリダの思想に感じるイメージと通底しており、どこか常に美において衝迫する。コーラは永遠の余白であり、「永遠の余白」と今記したこの表現から、まさに書き込みと同時に逃走していったその軌跡のおぼろげな輪郭である。


○ コーラ、幽霊、空き地、原っぱ――これら「名付けえぬ女性」


デリダがコーラを「ひとりの女性」として読解しようとする背景には、哲学史そのものがファロゴセントリズム(男根=ロゴス中心主義)の魔手によって支配され続けてきたという来歴がある。もしかすると、「哲学」というジャンルに対するアントニムとして、「コーラ」をそろそろ位置付ける時なのかもしれない。「コーラ」という学は、明らかにフィオレンツァやバーガーなどのキリスト教内部のフェミニズム神学とも接点を持っていると考えられる。

「哲学は、みずからの母や乳母や受容体あるいは刻印台にただ単に似ているものについて、哲学的に語ることはできない。そのようなものとして、哲学が語るのはただ、父について、そして息子についてだけである――あたかも父が自分ひとりで息子を生み出しているかのように」



欺瞞と韜晦に満ちた「父の系列」としての哲学。それに対して、デリダはコーラを「彼女」と呼んでいる。「彼女」という呼称も無論、「女性」という一つの「意味」賦与に過ぎないが、ここには西洋哲学を脱構築する際の戦略としてコーラが利用されている点を加味しておこう。

「彼女=それは、あらゆる人間―神学的図式から、あらゆる歴史=物語から、あらゆる啓示から、あらゆる真実から逃れ去る。前―起源的であり、あらゆる世代=生殖の前かつ外にあって、それは最早一つの過去や過ぎ去った一つの現在という意味すら持たない。この前とは、いかなる時間的先行性をも意味していない。この独立の関係、非―関係は、そこに受け取られるべくそこに住まうものの点からすれば、空隙の関係あるいは間隔化の関係にはるかに似ているのだ」



ここで我々は、安易に西洋哲学=父に対して、東洋哲学=コーラとして位置付けるべきではない。デリダのいう「哲学の余白」は、地政学的な意味における「領土の外部」ではないのだ。いわば、「意味の策定」に対するアンチテーゼであり、東洋哲学もその点ではデリダの脱構築の対象になり得るのである。デリダが西欧文明の中心を位置ズラシしているからといって、彼がマイノリティな、例えば日本の思想に世界が注目すべきであるといっているわけではない。
コーラとは結局、何なのであろうか? 別の箇所でデリダは、それを哲学史に生じている一つの巨大な「亀裂」と呼んでいる。この亀裂は、神話的次元では「カオスのぱっくり口を開けた底無しの裂開」などとも表現されている。しかしコーラは哲学―神話素とは異質であるので、そうした領土から常に逃走し続ける。
デリダは『ティマイオス』には明らかに「コーラ」が存在している――すなわち何らかの「亀裂」が生起していると述べている。それと同じように、もしかすると全ての書物には何らかの大地の裂開が横たわっているのかもしれない。例えば、カフカがけして現前させなかった『城』の「主人」という巨大な空隙――このテクスト=皮膚上における「傷口」=「コーラ」=「裂開」も、このコンテキストに沿った一つのサンプルだといえるだろう。
もう一つ付記すれば、私には「コーラ」が建築家青木淳のいう「原っぱ」と、どこかで類縁的であるような気がしている。無論、青木は可視的な空き地を、機能主義的な遊園地のアントニムとして概念化し、常に意味を更新させることのできる空間として規定していたのであるが、これはどこかデリダのコーラと類似してはいないだろうか。デリダがコーラに「ひとりの女性」という意味を与えたのは、デリダが「空き地」=「コーラ」に、ひとりの女性の輪郭を意味賦与したからである――すなわち、デリダがそこに新しい目的を見出しているからである。意味の零度としての空き地とは、この次元で青木のいう「原っぱ」と接点を持つに至るのではないか。もう一度、デリダのいうコーラの意味を読んでみよう。

「コーラはありとあらゆる限定を、それらに場を与えるべく受け取るが、その限定のうちのどれ一つとして固有のものとして所有することはない。コーラはそれらを所有し、それらを持つ、というのも、コーラはそれらを受け取るからだが、しかし、それらを固有性として所有することはなく、何一つ固有なるものとして所有することはない。コーラとは、まさに、そのうえに、その主体に、それも、その主体にじかに、みずからを書き込みにやって来るものの総体ないしプロセスであるわけだが、しかしそれは、それらすべての解釈に還元されることはないのである」



青木にとって、「原っぱ」とは「行為が起きることではじめて出現する<場>」である。彼は『原っぱと遊園地』の中で以下のように説明している。

「…ぼくがまずは必要だと考えたのは、空間から目的を剥ぎ取ることであった。博物館から<博物館であること>を、劇場から<劇場であること>を、小学校から<小学校であること>を、まずは差し引こう、と考えたのである。例えば小学校を設計する。しかしそれが<小学校であること>をその出発点から葬り去る」


「~である」という意味賦与を剥ぎ取ること――それを青木は「原っぱ」として空間的に表現したわけだが、この思考の軌跡を抽象化すれば、私にはデリダのいうコーラと原理的に一致すると考えられる。つまり、コーラとは「空き地」なのであり、全てを受け容れる「空白」、どんな生徒が座ることも許す名もない「座席」なのだ。
何も書かれていない紙は、ここで何も建てられていない空き地と等式で結ばれる。建築と言語を相関的に把捉すると、「建てられていない場所」、「書かれていない余白」は、共に「コーラ」のテーマ系を巡る糸として認識されるのだ。
デリダがコーラに「女性」を視たのは、もしかすると一種の「幻視」であったろう。それは「ひとりの女性の幽霊」でありつつ、「どんな女性でもない幽霊」であり、アモルフで、かつアノニマスな存在であったろう。コーラにデリダが人称を与えて「彼女は」と呼ぶ時、私には常に匿名化された女性の幽霊的な肖像画が浮かぶのだ。コーラ――それは哲学史に忽然と出現しては一瞬にして消え去る、荘子のみたあの蝶のようである。




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