† 建築学 †

アドルフ・ロース『装飾と犯罪』 (1)「建築の起源としての被膜について」

by  Milan Vukmirovic

by Milan Vukmirovic


建築学を学ぶ上での必読書の一冊に入っている、名高いアドルフ・ロース(1870-1933)の『装飾と犯罪―建築・文化論集』を読んだので、ここにその記録を残しておきたい。本書は理論書というよりも、短い寄稿文から成る言説集であり、体系的ではないように一見感じるが、実は一貫して「装飾性」を回避し、合理的かつ機能的に洗練された「工芸的」な建物を志向しているという共通項が存在する。


○ 「装飾と犯罪」


この中で、ロースは以下のように「化粧」に注目する。

「自分の顔を飾り立てたい、そして自分の身の回りのもの全てに装飾を施したい。そうした衝動こそ造形芸術の起源である。それは美術の稚拙な表現だともいえよう。また芸術はすべて、エロティックなものだ」


ロースによれば、「十字架」の形状は実は「水平線=横たわる女」、「垂直線=その女に交接する男」であるとされる。

「子供にあっては、そんなことはごく自然な現象である。子供の最初の芸術表現とは、壁にエロティックなシンボルを落書きすることである」



本書を読む上で注意せねばならないのは、ロースが「化粧」を批判しているのではなく、建造物に「装飾」を過度に与えることを批判しているということだ。彼は「文化の進化とは、日常品から装飾を除くということと同義である」と考えている。これはグロピウスやローエの諸作品にみられる機能主義的な形態的ミニマリズムにも通じる、理念的背景として解釈できるだろう。

「どんな時代にも、その時代に固有の様式があった。にも拘らず、何故、我々の時代にはそれが否定されるのかと、嘆くのである」



ロースは「様式なき時代」であることに、一種の無味乾燥さを感じていたのだろう。何故、そのような時代に我々は生まれたのかと。だが、彼は「様式の無さ」が、実は自分たちの時代の真のスタイルであるという逆説に気付く。「我々は様式(装飾)を克服した」と彼が宣言できるのは、こうした一種の時代の閉塞感を痛感した後である。

「装飾は文化的にも洗練された近代人の生活の喜びを高める、といった言い分を私は否定する。…私にとって、そして私を含めた全ての文化的に洗練された近代人にとって、装飾は生活の悦びなど高めはしない」


ロースの文体は啓発的な警句に近い調子を帯びている。彼は近隣に住む住民はまだ十年前、二十年前の時代を生きていると考えていた。田舎の農民たちに及んでは、12世紀的な美意識のままであると。
ロースが装飾を批判するのは華美なものへの彼の気質的なアレルギーに基いているのではない。ロース以外の識者でも彼に共感する者は多かったのでこれはいわば当時のヨーロッパの理念であり、彼らは装飾を賦与することで生起するコストよりも、同じ質でシンプルながら長持ちするような合理的で洗練された日常品に価値を見出していた。ロースはこれを「プレーンな仕上げ」などと表現しているが、いわばSimple is bestの考えと換言しても良いだろう。ロースの設計したウィーンの《カフェ・カプア》(1913)の店内写真などをみると、シンプルさの中に研ぎ澄まされた洗練の美を感じるので、彼は単に「全ての装飾を排除せよ」と躍起になっていたのではなかったことが判る。いずれにしても、彼の発言は近代建築を考える上で極めて有効である。
ロースは未来に想いを馳せ、数千年後には装飾が一切必要なくなる時代が到来すると考えていた。そういう時代では、装飾性のために八時間働かねばならない労働者が、同じ質のものを半分の時間で生産できるのだと。ここには、生産コストの観点から見ても、「装飾」が日常品にとって果たしてどれ程必要なのかという根本的な疑問が提起されていると考えて良いだろう。

「今日において、文化の進化のおかげで装飾されずにきたものに装飾を施すということは、労働力の無駄遣いと資材の浪費を意味する」



例えば、煙草の箱に過剰な装飾性を与え、それだけコストを高めることの馬鹿馬鹿しさをロースは嘲笑している。必要なところ、美点となるべき世界にはしっかり装飾を与え、利便性が重視されてくるような場所においては、むしろ形態的ミニマリズムを取るべきだという彼の主張は徹底的である。

「装飾がないということは、精神的な強さのしるしである」



ファッションでいえば、ロースの理念を踏襲すると、以下のような嗜好性の人物が生成するだろう。すなわち、彼女はユニクロを愛しており、アレキサンダー・マックイーンやクリスチャン・ディオールのようにコレクション色の強い洋服には批判的である。我々はこういうタイプの人間を、「ロース的種族」と名付けておこう。彼女は精神性の高いものにお金を使うのであって、外見の装飾性にはあまり関心が無い。いわば質素で、無駄がなく、洗練されており、精神的には充実しているタイプである――これを建築学のコードに代替すれば、そのままロースの「装飾と犯罪」の骨格が出来上がる。
ここに我々21世紀初頭を生きる現代世界の人間は、何か奇妙な感覚を抱かないだろうか。確かに無駄の無い合理的で素朴なデザインも素晴らしいが、「洋服」、「建物」、「家具」などにはむしろ、「装飾」を限りなく反映させ具象化したデザインを求める志向性を、我々は持つはずである。そうでなければ、全てがユニクロのような衣服を着た人間だけで構成されることになる。
この世界にはリック・オウエンスのサイバーゴス的な香りを放つ洋服を愛する大学生もいれば、交際費を残すよりも優先してシャネルのバッグを求める女性も存在するだろう――つまり、現代において、「ロース」は「時代の理念」ではなくなったわけだ。だから彼を読む時に、我々はグロピウス的な無機質で匿名化された建築群が生み出されたドイツの背景に、こういう論客がいたということを捉えておきさえすれば良いだろう。


○ 「被覆の原則」


ロースが現在でも興味深いテーマ系に触れるテクストが、この「被覆の原則」である。その中で、彼は「建物の起源」について以下のように述べる。

「最初にあったのは身を包む皮覆である。人は悪天候から身を護ること、寝ている間も外的から身を護り、寒さで凍えないように暖を求めたのである。天空を覆うものを求めたのだ。こうした天空を覆うものは最初の建築を構成する部分である。もともとそれは動物の毛皮とか、あるいはテキスタイル、すなわち織物の布で出来たものであった」



建築の起源についての思考は、これも20世紀建築学の必読書に入っているジョーゼフ・リクワートの『<まち>のイデア』と、『アダムの家』に詳密に展開されているが、ロースもここで持論を展開している。この「覆うもの」としての建物を、皮膚と相関的に把捉して「被膜」と表現しても同義であろう。
ロースによれば、建築の起源とは、「天空を覆うもの」、すなわち「天空に対する皮膚」としての住居である。別の解釈によれば、あるフィールドが広がっていて、そこに「壁」を立て、平面を区切ることで生まれた「余白」部分(間)が、「空間」である。
一方、ハイデッガーは「空間」と「場所」を厳密に差異化している。空間は純粋に幾何学的に構成された座標上の位相である。他方、場所とは、その空間に建物が建てられた時に、そう呼ばれ得るものだ。ロースの「天災や外敵から人間を護る」空間としての「建物」という概念は、ハイデッガーの「建物」の定義に近い。ロースはこの章で「ゲルマン系言語」の語源を暗示させているが、ハイデッガーも語源学的にまず「建物」の意味の本質に急迫している。
いずれにしても、「護るための空間」として、すなわち「シェルター」として、建造物一般の起源は規定される。それはある土地を物理的に分割する行為を指示する。「建てる」とは、ここにおいて「護る」ことなのである。
ロースが更に一歩進めているのは、建造物はその「材料」によって「形態」が決定されるという事実である。

「どんなマテリアル(材料)もそれ固有の造形言語を有するものであり、他のマテリアルの形態を取ることはできない。何故ならば、形態とはマテリアルの持つ使用適性と生産方法とから生成するものであり、だから形態とはマテリアルと共に、マテリアルを通して生成するものだ。そしてどんなマテリアルも、自分の形態系に手出しをすることを許さない」



木造には木造でしか体現できない独自の空間的特質があり、それは鉄筋の場合、ガラスの場合も同様である。
この章が持つ「皮膚」論的なテーマ系は、文化表象論から迫った都市論『都市の解剖学』(小澤京子)でも取り上げられていたと記憶するが、それはロースが“自然界のあらゆるものには何らかの皮膚が存在する”と考えていたからである。以下のテクストは、おそらく『装飾と犯罪』の中で突出して重要な部分である。

「…被覆の原則は、もともとはゴットフリート・ゼンパーが言い出したことであるが、この原則は自然界にも及ぶ。例えば人間は皮膚でもって被覆されているし、樹木は樹皮でもって被覆されている如くである」


皮膚や樹皮だけではない。アイフォンのケースを我々はアイフォンを保護する皮膚として考えられるが、実はこの精密機械の内部構造を保護している本体の液晶も含めた外観自体が、皮膚であるのだ。そう考えると、例えば鉛筆にも皮膚は存在する。鉛筆の中で真に必要なのは「芯」であり、それを取り巻く樹皮状の木部は一種の皮膚である。
では、最も現象学的なテーマ系に属する「化粧」とは何であろうか? 以前、私が鷲田清一の『顔の現象学』を読解して考えたことをここで再び述べれば、「化粧した顔」とは、実はその人の「素顔」それ自体である。本質は「化粧」の方に属するのだ。だとすれば、鉛筆の本質とは「芯」ではなく、その外皮であり、アイフォンの核を成しているのは、まさに中身のない外観である。
この世界の一切には何らかの「皮膚」状の構成物が存在し、我々を取り巻いている。もしかすると、我々が暮らすこの都市そのものが、巨大な何かから防塞している「皮膚」なのかもしれない。
ロースが面白いのは、彼がシミュラークルに関心を寄せている点だ。例えば、木材に描かれた鉄板のようなペイント。或いは、プラスティックの上に塗装された煉瓦のペイント――これらの「偽装」をロースは「表層の戯れ」(表層が内実と差異化している場合の、その境界面)として認識している。「ペンキ」とは、まさに「皮膚」を生み出すものである。

「…四周の壁を壁掛け絨毯だけで仕上げをした居間なんて、イミテーションとはいえないだろうか? 壁など絨毯だけで出来ているわけでもあるまいし! という者もあろう。そう、そのとおりである。だがこれらの壁掛け絨毯は、絨毯以外のものであろうとはしないし、だから無論、石の壁であろうともしない。そのようなものに思われたくはないし、色や模様によってイミテーションをしようとはしない。そうではなく構造壁を被覆する仕上げ材としての自分の役割を明快に見せるのである。それらは被覆の原則に従って、自分の目的を充足させるのである」


その上で、ロースは「何故肌色の服が存在しないのか?」と考える。「トリコットをはいた踊り子は何故美しくないのか?」と。我々は鰐皮とか、毛皮といった「皮膚」を愛好し、それを身に纏う生き物であるが、何故「人間の皮膚」でできたバッグを愛好しないのであろうか? 「皮膚」にするものに、我々は人間的な観念で「良し悪し」を設けていることはまず間違いない。肌色のジャケットとか、限りなく皮膚色に近い靴下というものに我々がなかなかお目にかかれないのは一体何故なのか? このように、実はロースは「装飾」一般の問題から、「被膜」という極めて現代的でアクチュアルなテーマ系にまで思考を先鋭化させていたのである。ここには今後も再評価の兆しが潜んでいる気がしてならない。




装飾と犯罪―建築・文化論集装飾と犯罪―建築・文化論集
(2011/06)
アドルフ ロース

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