† 建築学 †

ケヴィン・リンチ『廃棄の文化誌』(1)――「聖なる廃棄」について

廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ
(2008/02/25)
ケヴィン・リンチ

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建築学必読書リストの一冊に入っているケヴィン・リンチの代表作であり遺著でもある『廃棄の文化誌』(原著1990)を読んだので、ここに記録を残しておきたい。
リンチについては既にこのサイトの購読者の方々なら御存知であろうが、20世紀を代表する建築家フランク・ロイド・ライトに師事した、MITの名誉教授である。
タイトルから薄々感じられるように、本書は別に建築学生のための本ではない。
これはむしろ「現代思想」とか、「エコロジー」に深く結び付いているテーマ性を持っている。
また、本書は難解な理論書でもなく、「廃棄された場所」とか、「廃棄された物」、そして「廃棄とはそもそも何なのか?」などと、けっこう自由に論述されている。
リンチが入手していた「廃棄」に関する場所を映したモノクロの写真も掲載されている。
私はこれを読んでいる時、あえてこの表現を使えば、「文学的な空間」の気配を感じた。
例えばある教会が老朽化して、そのまま人々から忘れ去られて廃墟として生成する時、リンチ的にいえば、その教会は「廃棄された場所」として位置付けられる。
波打ち際に定期的に打ち上げられる無数の塵類も、いうまでもなく「廃棄された場所」として現前する。
「廃棄」とは、やはり経済学的な「消費」のアントニムであって、現代の資本主義社会の「裏面」を曝け出す、真に革新的な主題だといえるだろう。
「場所」とか「建築」について、普通とは少し違った視点で分析してみたい方には特に御勧めの第一級の名著である。


○ Waste,Wasting,Wasteful


リンチは本書の冒頭の添え書きで、まず以下のように述べている。

「廃棄された多くの場所にも、廃墟と同じように、様々な魅力がある。管理から解放され、行動や空想を求める自由な戯れや、様々な豊かな感動がある」



この言葉は本書の通奏低音だ。
そもそも本書で何度も使われているWasteは、「廃棄されたもの」、「空虚なもの」、「荒廃したもの」を意味しており、これはラテン語のvastusに由来する。
サンスクリット語のvanusも、「不十分なもの」とか、「不足しているもの」を意味しているので、同義である。
Wastingは「廃棄のプロセス」を意味し、wastefulは「勿体無い」というような意味合いで使用されている。
Wastefulはより本質的に「廃棄に溢れていること」、つまり「浪費」を意味している。
「浪費」は「消費」とは異なる。
まずこの前提となる概念を押さえた上で、都市そのものが廃棄物と化した例として、チェルノブイリやヒロシマなどを想起しておく必要がある。最近では、フクシマもその中に入るだろう。
津波が引いた後の膨大な廃棄物について、リンチは以下のように述べている。

「洪水の余波による荒涼とした様子は、更に酷い。浸水した家財は、泥に覆われ、床の上にゴチャゴチャに横たわる。大地、水、そして財産。全ての価値あるものが、混交され、むかつくような廃棄物にされてきた」


「ゴミ処理問題」ほど、リンチのテマティスムと重なるものはない。
都市は消費されることで成り立っているわけだが、裏を返せばそれは「廃棄」されることにも支えられている。
例えば、我々が休日にいつもより高級なフランス料理専門のレストランで食事を取るとしよう。
入口を潜ると、いきなり目の前に食材のゴミが山積みにされていたら、我々は驚愕してそこからすぐに退店してしまうだろう。
リンチはこうした「本来清潔であったり神聖であるべき場所」が汚れている場合の不快感に着目して、以下のように述べている。

「通常は清潔で、親しみのある、神聖なモノや場所を、汚物が汚染する場合には動揺は更に大きい。街路のゴミよりも家の中のゴミの方が、野原のゴミよりも小川のゴミの方が、車庫のゴミよりも教会の中のゴミの方が、私たちを慌てさせる」



やや脱線するが、私は以前国立国際美術館の現代アートの展示スペースで、数知れない「ゴミの巣窟」を目にしたことがある。
ゴミの山の奥に向かうと、そこにはTVがあって、誰かが永遠とスケボーをして遊んでいる映像が流れていた。
この《風穴展》では、本来画廊にあるべきではない「ゴミ」が「展示」されることによって、廃棄物の場を巡るテマティスムに一石を投じている。
編集者のマイケル・サウスワースは「序」の中で、以下のように述べている。

「変化、衰退、変容、再利用という廃棄にかかわる主題は、長い間ケヴィン・リンチにとって興味の尽きない対象であり、彼の数多い著作の中で一貫した道筋をなしていた」

「リンチの人生が終局に向かう頃、軍備競争が過熱して核廃棄物や産業廃棄物の危険は脅威となる一方で、廃棄物という論題は、彼にとっても緊急の課題となった」



デリダが「コーラ」を、青木淳が「原っぱ」を思考したように、リンチにとって「廃棄された空間」とは最重要のトポスなのである。
彼にはある建物を、都市の「時間の流れ」の中で捉える視座がある。
建築物という静止しているものを、「不動」のものとして把捉するのではなく、非常に長い時間の隔たりにおいて老朽化し、やがては廃棄されるものとして先見的に認識するわけだ。
これは主著の一冊『都市のイメージ』でも具体化されている。
リンチにとって「廃棄された空間」は、どこか少年的な冒険心をくすぐるものでもあったらしく、「自由と冒険を発見できる都市の中の荒野」などと表現している。
リンチの性格の一端が窺える興味深い箇所がある。

「彼の家庭では、仕事と寛ぎのバランスが保たれていたし、時間を無駄にするテレビはなく、時間が見事に按配されていた。本を書く時には、いつも紙の裏側まで使ってから捨てていた(この著作の最初の下書きの一部は、『居住環境の計画』の原稿の裏に書かれていた)」




○ 「聖なる廃棄」について


日本語に「怪我」という言葉がある。
これは本来、「清純さを穢す」ことを原意として持つ。
何らかの「穢れ」は、「清め」を受けて浄化されねばならない――この日本でも古来より意識されていた観念に、リンチは注目している。

「不浄には、精神的な力<マナ>がある。不浄は、恐ろしく、また魅力的である。私たちは、不浄を抑圧するから怖れるようになる。その力はここに由来する。不浄には潜在的な力がある。対極の統一性を表現するために、或いは文化的な分別を償うために、不浄を祝祭する聖なる儀式もある」



ここにおいて、ようやく我々は「廃棄」の持つ真の意味に急迫する。
実は、「廃棄」というのは、リンチが述べる驚嘆すべき表現を借りれば、「聖なる廃棄」という宗教的次元を持つのである。
宗教の本来的な役割は、まさにこの「不浄の廃棄物」を、いかに「清め」られるかにかかっている。
キリスト教が当時のゲルマン・ケルト信仰やローマの神々よりもヨーロッパにおいて圧倒的な勢力を誇った理由には、実は「死」という「穢れ」に対して、最も強力な「清め」(教義的には<復活>)を説くことができたからである。
名高い「聖遺物信仰」も、原理的には「キリストの廃棄物」であって、この廃棄されたものに対する聖なる意味が賦与されている。
悪魔であるベルセブルは、「蝿の王」を意味し、これもまた「廃棄」や「不浄」の象徴であった。
それだけでなく、ヘブライ人の「死の国」を意味する「シーオウル」の原意とは、エルサレムの「ゴミ捨て場」だったという。
このように、宗教においては「清め」と「穢れ」の価値観は極めて重要である。
リンチはこの「穢れ」を、現代の「廃棄」として読み直しているのだ。
その上で彼はやはり日本の「アイヌ」の信仰に注目している。

「サハリンのアイヌ人たちは、動物にも、人間が作り出したものにも、魂があると信じている。魂は、使命を終えた後に、役割から解放され、逝くべきところに送り出される。礼儀を怠ると、魂は、あの世から疎まれ、この世に長居をし、病を引き起こすもとにもなる」



宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に出てくる「河の神」も、最初は「廃棄物」に塗れて悪臭を放つ、忌まわしい神と化していた。
しかし千尋が頑張ってこの神の「穢れ」を薬湯で「清め」たことによって、この神は元の姿を快復する――これはまさに「廃棄」が「穢れ」として位置付けられている象徴的な描写といえよう。
これは神話的な次元だが、私たち現代人の生活も、実は毎日この「穢れ」と「清め」を、何らかの形式で常に反復している。

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「都会の廃棄物=穢れを受けたおくされ様」

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「清められた河の神様」

「私たち人類の一日のかなりの時間は、浄化に費やされている。身体を洗い、食べ物を清潔にし、余分なものを取り除き、衣類を清潔にし、家を清潔にし、身繕いをし、庭の手入れをする。この活動の中には、社会の象徴へと変質したものや、宗教的な清めの儀式へと精緻化していったものもある」



例えば、大型家電を見に行って、最新型の「洗濯機」を購入する行為も、その目的は「衣服の洗浄」、すなわち「清め」である。
リンチの視座においては、煙草の臭いがついたので衣服を柔軟材でしっかり洗うのも、悪霊が憑いたので悪魔祓いをするのも、本源的には同一の「清め」に属するのである。
この「清め」のアントニムとしての「穢れ」こそが、「廃棄」である。
そして、「清め」は「穢れ」が存在することで初めて生起するのであるから、実はこの二つは「分離した概念」ではなく、「ひと繋がりの一連のプロセス」に他ならない。
ゆえに、リンチは「聖なる廃棄」という斬新な表現を使用していると私は考える。
「清め」は社会の至るところで「職業化」している。

「神聖な場所や神聖な文章を、腐敗や腐食から守り保存する場合には、浄化は、聖なる天職となる。古典学のそもそもの目的は、私たちに伝えられた古いテクストの不十分な断片を修復することである。言葉の廃物や誤謬を捨て続けてゆくことは、一生を清純さに捧げることである」






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