† 美術/アート †

マグリットと、顔

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私は密かに告白するが、全哲学、全神学の根本命題は「顔」であると考える。
これから、私は少し「顔」とは一体何なのかについて、マグリットの絵を参照しながら思考したい。

私が思うに、「顔」は存在しない。
存在しているのは顔の様態であり、「顔」という何か特別な原型が存在するわけではない。
世界中には数多くの民族が、人種が、存在し、同じ日本人でも、そして同じ年齢でも、そして同じ眼鏡をかけている青年同士でも、顔は一つとして同一ではない。
神は、顔においても、ライプニッツのあの名高い同一性原理を否定した「不可弁別者同一の原則」を適用させている。

昨日の自己の顔と、明日の自己の顔も同一ではない。
鏡を見れば、微分的差異が生起していることを見出すはずである。
一秒前の自己の顔と、現在のこの瞬間の自己の顔も、同一ではない。
ただ、我々は鏡を見て、首を傾げて、「先刻からずっと同じ顔が映っている」と語ることは可能である。
だが、それは厳密には自己の顔ですらない。
鏡に映っているのは、他者の顔である。
鏡に自分の顔を映し出し、像が私の網膜に到達するまでの限りなく瞬間的な「期間」が、私という顔、この私が専売特許化して占有している唯一不可侵の顔を、他者化するのだ。
顔とは、本来、他者のものである。
レヴィナスの哲学に依拠すると、他者は無限の高みから到来する点で、神性を担う。
したがって、レヴィナスにおいても、やはり「顔」は他者を迎え入れるために必要な倫理的概念にまで到達した。
だが、私には、この「顔」には未だ考察されていない領域が存在しているように思われてならない。
マグリットの絵を観れば、彼には「顔がない」。
否、確かに鳥が仮面化して彼の素顔を隠蔽しているだけに過ぎないかもしれないが、観る者はこの紳士の顔を認識することは不可能である。
絵という事態を、ありのまま受け取るのであれば、彼には確かに「顔がない」のである。
これは、電子空間の匿名性を解体する上で有効な考察を付与するだろう。
ネットは、仮面で溢れている。
例えば、あるブログを運営している女性が、プロフィール写真として、他者の顔を使用して、それを自己の顔とすりかえることは常に可能である。
そういった仮面性システムを、ネットという空間は、この意味の戯れの工場地帯は、許すのである。
ネットを浮遊する顔は、どれも仮面舞踏会の俳優たちが纏う仮面のようだ。



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ネットには、数多くの擬似恋愛的な風景が存在する。
顔が見えないにも関わらず、言葉や顔文字だけから、すなわち記号的体制に埋没してリアリスティックな恋愛を演技する――これはボードリヤールが述べていた「ハイパーリアリズムの迷宮」の影の部分であり、一般的には「擬似恋愛」などと呼称されている。
しかし、結論から言えば、現実世界においても、顔は存在しない。
極端にいえば、私はこれまで一度も、人間の顔を見たことはない。
それらは顔ですらない。
私には家族がいるが、例えば毎日顔を合わす母親でさえ、私は彼女の「顔を見ている」と断言することは不可能である。
では、一体何が、私にそうさせているのであろうか?
感覚的な次元で解釈すれば、私は他者の顔の様態を、ある固定観念に当て嵌めることはできるのである。
例えば、泣いている女性を見れば、「彼女は哀しいに相違ない」などといった、範例的なパターンが存在する。
だが、その泣いている顔が、「泣いている顔」という仮面に過ぎず、下の素顔では、「笑っている顔」として顕現しているのであれば、どうであろうか?
顔は結局のところ、非情に感覚的な器官である。
それは蜃気楼に包まれており、私に到底「顔を見る」や「顔を知っている」などという安直な言葉を使用することを認可しないのだ。

顔は、抽象的な水彩画のようである。
顔は、毎日変化し、他者の顔と入り乱れ、最早仮面と素顔の境界線すら消尽させ、一つの複雑奇怪なノイズとなって、プラットホームの雑踏の中に埋もれていく。
顔は、常に「満員電車」の世界と本質的な連関を担う。




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雑踏に溢れた駅周辺の地下街、そこは「顔の迷宮」といっていい。
様々な顔の様態を知覚したはずであるが、私は帰宅して瞼を閉じても、誰一人その中で顔らしい顔を想起不可能であることに気付く。
ただ呼び覚ますのは、顔の交通渋滞、顔の交換、顔の大量流入である。
勾配の高い滑り台から幾つものカラフルな顔たちが滑り落ちて、灰色の水溜りの中へ沈殿してゆく。
雑踏のある風景とは、常に顔を処刑しているかのようだ。



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顔は存在しない。
顔は常に不在であり、到来しないものである。
レヴィナスは他者に対する責任を「顔」という倫理的概念に結晶化したが、実質的には、他者の顔は無限後退している。
私が他者の顔に接近しようとしない時、私が他者の顔を後退させているとも考えられる。
しかし、私という主体が一度でもネットの世界に足を踏み入れるや否や、完全に主体は匿名性の内に埋没する。
私は記号化され、画一化されたモード端子の一本として、接続したり切断したりしつつ、電子空間上で内的領土を形成してゆく。

ふと周囲を見渡すと、誰もいないことに気付く。
「顔」が霧に包まれている、と。

顔に位相があるとすれば、それはいかなる次元であろうか?
私が思うに、それは教会のミサ聖祭でしかあり得ない。
私は教会でシスターさまの顔を見るとき、聖母マリアさまの御顔を見ている。
神父様が説教を終えられて、私の頭にそっと優しく手を乗せ、祝福してくださる時、私は神父様の手に、イエズスさまの御手を感じる。
こういった二重の顔の体制、二重の手の体制は、常に現実世界で遂行されねばならない。
ネット上の特定の女性の顔に、聖母マリアさまの御顔を投影させるという場合、これは常に背理である。
現実における隣人の顔に、イエズスさまの、そして聖母マリアさまの顔を見る時になって初めて、私は「顔」の意味に触れるのだ。

全ての顔を、神は愛されている、と。
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