† 建築学 †

「近代建築の始まりは、建築の〈起源〉の探究であった」ーー建築学の必読文献、ジョセフ・リクワートの代表作『アダムの家』の世界

アダムの家―建築の原型とその展開 (SDライブリー)アダムの家―建築の原型とその展開 (SDライブリー)
(1995/03)
ジョセフ リクワート

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建築学書必読文献、ジョセフ・リクワートの『アダムの家』(1981)の読書記録を残しておく。

「近代建築の初源は<建築>の起源の探究であった、ということができる。その探索は、18世紀を通じて殆ど建築家の共通の意志にまで拡張する。そして、19世紀以来の約二世紀間、近代建築家の無意識の層に潜在し続けている。建築家のみならず、<建築>を思考する殆ど全ての視線に、この起源の探究は最早不可避の欲望となったかに見える。この事態は言語についても同様である。ルソーの『言語起源論』へ殆どの哲学的エクリチュールが常にたちかえろうとするのがその証拠でもある。言語はソシュールによって、その構造の根底にまで解体の手が及ぶ。その解体へ誘導したのはいうまでもなく、起源を見出そうとしたあの意志の初源であったといわれるだろう」 磯崎新「近代建築の初源」



それまで建築学のカノンとして機能していたのはウィトルウィウスの『建築十書』であった。これはローマ時代の古典主義を要約したものであったが、18世紀になると考古学的知見の拡大、大航海時代による他文明の発見などによってこの本に疑念が持たれ始める。


【1章の要約――「アダムの家」の原始と近代】


以下、リクワートの分析を読んでいく。

「プルーストが鋭く見抜いたように、全てパラダイスというものは、必ず失われたものでなければならない」


「アダムの家」(エデンの小屋)は、ヨーロッパ人の密かな願望を象徴している。これは失われたことによって(楽園追放)、聖化された土地のアーカイブである。
著者は未開人の家の理念と、近代建築の理念が原理的に一致していると指摘する。砂漠に建っているユダヤ教神殿を、彼は近代建築として読む。その根拠の一つが、コルビュジエの以下のテクストだ。

「原始人などというものは存在しない。単に原始的方法があるに過ぎない。家の理念はその起源の時から常に同じで、そして強力なのだ」



古代ユダヤ教神殿には、幾何学的ガイドライン、リズムなどが活かされている。これをtracés regulateurs(トラセ・レギュラトゥール/起源の原理)という。
その特徴は二つあり、コルビュジエの『建築を目指して』の冒頭に記されている。

「第一に、自分自身の体から導出した単位によって計測するこにより、その建築は“人間の寸法により、人間のスケールにあった、人間と調和した”ものに作られた。第二は、“本能に導かれて直角と軸と四角と円とも用いたために…原始人は自分で造ったものを確認せずに作ることはありえなかった。何故なら円、軸、直角は幾何学の原理であり、我々が眼で判断できる真理だからである。…幾何学は精神の言語である”」(“ ”内部分以外の補筆はリクワート)



※30年代の近代建築における「ピロティ」は、後期石器時代の「水上家屋」に原型を見出され正当化されていたが、その場凌ぎの土地問題を解決するための解決法というのが実情であった。

マルク・アントワーヌ・ロージェ《原始の小屋》
マルク=アントワーヌ・ロージェ《原始の小屋》

Marc-Antoine Laugire
マルク=アントワーヌ・ロージェ《原始の小屋》

「原始の小屋」信仰は建築家以外にも流れている。例えば、ソロー、エマーソン、ホーソン、ホイットマン。建築家では筆頭にフランク・ロイド・ライト、その師ルイス・サリヴァン……。
ライトは『生きている都市』の中で、人類の祖先を「森の中の祖先」と「洞窟の中の祖先」に大別し、後者は我々になったが常に憧憬は前者に向かっていくと述べている。また遊牧民族こそが民主主義の典型であり、農耕民は反民主主義的であるとも述べている。
ライトの考えとは、「森の中の原始的な小屋」を謳歌するものだ。ミースやローエも「原始的建築」を「健康的である」と好意的に評価する。
19世紀後半になると、森の中の生態系が、都市機構と相関的に把捉され始める。都市計画の原型としてのジャングルという理念が成立する。このジャングルとは、神話的に言い換えれば「エデンの園」だ。

「建築を動物たちが知らなかったわけではない。虫の穴、蟻の回廊、蜜蜂の巣箱……ゴリラの小屋、寺院、そして宮殿の全てが同じ必要を満たし、それを無限に多様化して出来上がったものなのだ。これらは<適応の法則>に基いている。実用性というものはどんな建築の美学においても基本である。…個人個人が服で装うように家をしつらえ、…彼を取り巻く荒々しさや敵意から彼を護るのである」アンドレ・ルフェーブル『建築の不思議』


「建築は…厳しい天候、野獣、敵対する人間たちから身を護るために、人類が原始的な工夫の中から生み出した単純なものだったに違いない」バニスター・フレッチャー『建築史』



このように、19世紀後半になると「人類の住居」=「動物の塒」という形態的なミニマリズムの一貫性が理論家によって提示される。

《ゾマーフェルト・ハウス》(1920)
ヴァルター・グロピウス、アドルフ・マイヤー《ゾマーフェルト・ハウス》(1920)

リクワートが特筆しているのがヴァルター・グロピウス&アドルフ・マイヤーの真に重大な作品《ブロクハウス・ゾマーフェルト》(ゾマーフェルトさんの丸太の家)である。本作はライト、コルビュジエ、ローエと続く近代建築の「原始の小屋」信仰を具現化した象徴的建築物である。初期アメリカ建築のパイオニア精神と、ドイツ社会民主主義の理念がこの時のグロピウスらにとっては相同的なものとして認識されている。

「今日でもなお、ヨーロッパの過度に文明化した人々は、アメリカの原始林に迷い込んで、自分たちで丸太小屋を建てている」ゴットフリート・ゼンパー『様式』



「共に新しい建設を心に思い描いて創造しようではないか。それは建築と彫刻と絵画とをひとつの統一されたものへと結び付け、新しい信念を具体化した道徳的規範のように、いつの日か無数の労働者の手から天へと立ち上がっていく建設の理念である」バウハウス宣言



近代建築のシンボル的存在として重要なグロピウスに、このような素朴な「森の小屋」への回帰的願望が見出されていたことは意味深長である。(本人はまるで何かを隠すように原始主義を批判し始める)
時代背景としてはルソーの思想的流布も見逃せない。
建設の原理としての、原始的なログハウスへの憧憬(手仕事による)については、以下のテクストがある。

「ログハウスは木造の最も古い建築方法だ。その例は先史時代にも見出すことができる…ログハウスは、木造住宅に内在する概念を最もよく具象化したものだ。何故なら、それが本来持っている構造的価値の他に、木の素材としての性格を最も純粋な形で表現しているからだ。構造的な改良がいかに可能であっても、建設の原理は古代の原始的ログハウスから変わることなく継承されている」コンラッド・ワックスマン



「地理的な視点に立って芸術を比較研究する人は、誰でも、木造が建築の原型であった国々が世界の多数を占めていた事実を認めざるを得ない」ヨーゼフ・スジェゴーフスキー



このように、木造建築はインド・ゲルマン民族の「原型的建築技法」であった。

※スジェゴーフスキーは23年にバウハウス友の会のメンバーになり、グロピウスに協調していたので、グロピウスと「森の小屋」の接点は確実である。

ロースも「湖畔の村」に真の美を見出している。彼は原始的農民文化を礼讃し、都市を心の何処かで呪詛していた。それは「土に根差した智恵」への讃美であり、単純さ、大地的なシンプルさへの同調である。著者はやはりあの有名なテクストを引用する。

「森を歩いているときに、地面から6フィートの長さと3フィートの幅のある、粗いピラミッド型のものが立ち上がっているのを見つけたら、君は急に厳粛な気分になって、自分の内部で何かがこう囁くのを感じるだろう。ここに誰かが葬られている、と。それが建築なのだ」ロース



まとめれれば、ロースの理念もグロピウスの丸太小屋も、コルビュジエ、或いはライトの建築理念も、全て基本ラインでは形態的ミニマリズムを求めていた点で共通する。個別的差異を述べれば、コルビュジエは「未開と近代」の相同性を評価したのに対し、ロースは未開を讃え、都市を「ベルゼブルの領土」と唾棄した。しかし基本的に近代建築家の理念の背景には、「原始の小屋」信仰が横たわっていたのである。


【2章の要約――ロース、ゼンパー、リーグル】


ロースはゼンパーの影響を受けている。(様式を装飾であると考えていた点など)ゼンパーは最初の装飾は、「紐の結び目」とか、「ひなぎくの輪」であったと述べている。著者はゼンパー、そして19世紀ヨーロッパ社会において装飾論として第一級の価値を持っていたアロイス・リーグルの『様式論』などを手掛かりに、以下のように述べる。
住居の最初の形態とは、「テント」だったのではないか? しかも、「木の枝で編んだフェンス」によるテント。

「…自然が人間に与えた技術を用いて作られる、スクリーンつまり棒や木の枝を編んで結んだフェンスを、手によって最初に作られた隔壁、人間によって発明された最初の垂直的な空間分割体として我々は認識したいと思う」ゼンパー『様式論』



「人間は自分自身で小さなひとつの世界を作り出す。その世界では宇宙の法則が小さくでも自立したシステムで働き、ひとつの全体を形成している。――そのような遊びの中で、人間は自らの宇宙進化論的な本能を満足させる。かくして音楽と建築とは、たとえひなぎくの輪、真珠の首飾り、貝殻のように、時間と空間がリズミカルな規則性を持って変化することから発しているとしても、模倣的な芸術と考えてはならない。建築と音楽とは自然現象をけして模倣したものではなく、最も高度で純粋な宇宙的芸術なのだ。音楽と建築に備わった宇宙的法則に基く力からは、いかなる他の工芸芸術も影響を免れない」ゼンパー同書



リーグルは「装飾」が、実は「幾何学的な基本形で構成されている」ということに注目していた。リーグル、ゼンパーは共通して「自然には全ての装飾のパターンが存在する」と考えていた。
19世紀新古典主義時代のイギリスの建築家オーガスタス・ウェルビー・ピュージンは、以下のように「真の建築」を定義する。

「第一に、建築の使いやすさと、その建設あるいはその建築の特質に不必要なものは、存在すべきではない。第二に、全て装飾は建築の主要な構造をより豊かに見せるもので成り立っているべきだ」


ここで理想化されたのはギリシャ建築のシンプルなモデルである。
ラスキンもまた「農民の山小屋」を重視し、ヴィオレ・ル・デュクは「全ての建築が始まる核心は、若木で作られた小屋」だと述べている。
概して、新古典主義の建築理念を19世紀の建築家たちは批判的に把捉しており、「装飾=犯罪」であるとみなしていた。近代建築の黎明に存在した理念には、このように「原始の小屋」信仰がやはり浮上してくるのである。


【5章の要約――ウィトルウィウス、ヴィラルパンダ、ロブコヴィッツ】


――「建てる」ことは何かを「信じる」こと、建築の宗教的起源について。

ウィトルウィウスは建築の起源を「原始の小屋」に見出していた。彼にはストア派の自然観の影響と、ポセイドニオス由来のアニミズム的思想が窺える。

「ウィトルウィウスの意見は、全世界がvis vitalis(生命に溢れた力)、すなわち太陽から発する温かい息吹によって維持されていると信じたポセイドニオスの思想を根拠にしていたことが判る」


建築のモデルは、homonis bene figurate ratio(美しい形の比例を持つ人間)と規定される。
他方、ルクレティウスにとって建築のアーカイブは「火」と明らかに相関的である。「火」が住まう「炉」は、建築にとって中枢的役割を果たしている。P158にリクワートが掲載したフラ・ジョコンドの《火の誘い》という図版を説明しておこう。
ここには未開人が描かれている、場所は森の片隅で、小川が背景に見える。家族は中央で焚火をしていて、その中心で食事をしたり狩猟の準備をしている。これは明らかに建築の起源と深く関わる絵である。
ルネサンスのウィトルウィウス研究者ダニエル・バルバロは以下のように述べている。

「私はドイツのある地方で、同様の小屋(原始の小屋)を見たことがある。それは人間の手によるものというより、むしろ自然の産物のように見えた。何故ならその家々は生まれ出たものであって、造られたものではないように見えたから」



16世紀ドイツの物理学者ヴァルター・ヘルマン・リフの以下のテクストも重要だ。

「アダムが天国を追放された時、雨が降っていたと考えるべきだ。何故なら準備の整ったシェルターがなかったので、彼は頭上にまで手をあげて雨水を防ごうとした。生きていくためには食べ物を見つける必要があったのと同様に、住居を造ることもまた悪天候や雨から身を護るため彼が発見した技術の一つであった。大洪水の前は雨が降らなかったといういう人もいるが、私はそれと反対の意見である。何故なら、もし大地が果実を生産するとしたら、雨が降ることが必要だからである。食べ物を搾取し住居を持つことは、生きるために必要な技術である。したがって、アダムは二本の手で屋根を作り、生きるための環境を整える必要を考えて、太陽光と同様に雨からも自分を護る住居を造ったと考えるべきだ。…もし物事がこのようにして起こったとすると、アダムは最初の人間だということになるに相違ない」



リフのこのテクストは、もしかするとリクワートがタイトルを『アダムの家』としたのに一躍買っているかもしれない。著者は「明快」だとしてこのテクストを気に入っていたようだが、実際これはカトリックの私からしても印象的で、なおかつ重要である。「エデン」という空間はアダムが造園した庭園ではなく神のそれであり、彼が最初に建てたのはやはり「楽園追放後」の「原始の小屋」であったろう。その由来はいうまでもなく『創世記』であるが、リフの解釈はそこから想像的に補完し、リクワートはこれに従う。

「(最初の人類は)雨と太陽光から身を護るための屋根をデザインし始めた。こうした目的から、壁は屋根を支えるように長く建てられた。…それが私の考えでは最初の建築であり、また最初の建設の手順であった。それを最初に考えたのが誰かということは、問題ではない」アルベルティ『建築論』



建築のための習作
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ《建築のための習作》

ルネサンスの建築家の中でも特筆されているのが、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニである。彼は都市、個々の建築物、設計図も含め、それら全てを「人体」のアナロジーとして解釈していた。

「彼にとっては、都市や個々の建築は平面と立面の両方においては勿論、その諸部分、例えばコラムやコーニスまでもが、全て人体のアナロジーに従ってデザインされたものだった。人体は神の創造の集約されたものとして、建築の究極の起源であり、典型であった」



マルティーニのこの解釈も重要なので、忘れないようにしよう。

※西暦1500年以前の建築書には、本格的なものとしてウィトルウィウスとアルベルティの理論書しか存在しなかったという。もう一冊加えるなら、フランチェスコ・マリア・グラバルディの『建築辞書』も入るが、とにかくどれ程少数の典拠が長きに渡って西洋建築を支配していたかを知らされる。

マルティーニのような考え方は中世の思想において一般的に見られた。

「これらの考えは、人体が集約された宇宙、すなわちミクロコスモスであるという考えと融合した。そうして十字架、救世主の肉体、宇宙の寺院という諸概念を建築と関連させる考え方が、中世には一般的に行われた」



Francesco di Giorgio Martini2
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ《建築のための習作》

Francesco di Giorgio Martini
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ《建築のための習作》

マルティーニ《理想都市》
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ《理想都市》

ヒルデガルト、アベラールにも同様の考えが見受けられる。
教会の原形態として重要なのは、エルサレム神殿である。デュランダスの『原理論』によれば、その装飾と比例は「神から齎されたもの」であると考えられていた。

Juan Bautista Villalpando2
ファン・バティスタ・ヴィラルパンダ《エルサレムの古代地図》

ルネサンスの時代にソロモン神殿を再建しようとしたファン・バティスタ・ヴィラルパンダが本章で特筆されている。これはフェリペ2世の1557年の「サン・カンタンの戦い」を記念して建てられたもので、王はソロモン王の象徴として美化されている。先例として、著者は意外にも「ヘロデの神殿」をあげている。カトリック側からは異端的な場所として負のレッテルを貼られることの多いヘロデ神殿だが、実は以下のような記述が存在する。

「(ヴィラルパンダの)再現案は、古典建築がユダヤを起源とするという説と、神殿のポーティコの柱頭はコリント式だったとヨセフスが『アンティキティエ』で述べた言葉とによって裏付けられた。そして同じ箇所で、ヘロデは神殿にソロモン式比例を与えるために、その建物を高くしたと書いていた」



ヴィラルパンダは、ヘロデ神殿を「聖なる啓示を受けて建造された最初の建築」として高く評価していた。
また彼はウィトルウィウスの建築を「神の建築」と同一視していた。

「何故なら、理性と調和した唯一の建築、そしてその名に値する唯一の建築は、ウィトルウィウスによって成文化された規則に従った建築だけだからである。…この思想はヴィラルパンダの著作全体にはっきりと示されている。啓示は理性と矛盾するはずはない。つまり唯一の理にかなった建築であるウィトルウィウス的建築は、同時に聖なる啓示によってもたらされた唯一の建築であった」



ヴィラルパンダ《エルサレム》
ファン・バティスタ・ヴィラルパンダ《エルサレム》

ウィトルウィウスによってエルサレム神殿を「神の建築」と同一視する概念は、長い間ヨーロッパ諸芸を支配し続けた。
ヴィラルパンダはノアの「箱舟」、砂漠の「ユダヤ教神殿」こそ、建築の起源であるとみなし、18世紀のイギリスの建築家ジョン・ウッドは、ユダヤ教神殿こそ、「芸術としての建築」の真のアーカイブであると再規定した。
12のパビリオンがあるヴィラルパンダの神殿配置は、ユダヤ教神殿のミメーシスである。
建築は、常に神話の中に登場する不可視の建築に「原型」を見出す。
17世紀のスペインの司祭ファン・カラミル・デ・ロブコヴィッツは、「全ての建築が古代人の合理的なやり方と神の摂理の介在によって生まれ、唯一の可能な建築、すなわち古典建築としてそれが究められるべきである」と考えていた。
建築はそもそも「宗教建築」という性質を不可避的に帯びて生起したのであって、「建てる」ということは、この時代の人々にとって何かを「信じる」ことと一致したのである。
リクワートはこうした膨大な例を参照にして、「言語の起源と建設行為の起源の等根源性」のテーマに到達している。

「古典建築はes la doctina verdadera y comun(真実であり、受け容れられた教えである)というように、木造建築から最終的には木といぐさで建てられた小屋から発展したものである。ロブコヴィッツはそれが世界のあらゆる場所に存在していたと主張するのだから、(ウィトルウィウスも言及したように、洞窟や樹上生活と同様に)原始の建築から、合理的に演繹された唯一のものである古典建築は、普遍的有効性を持つはずである。私は既に、このような論理の後ろ盾になっているものが何かを説明した。しかしそれでも、起源の問題に関しては、断っておかねばならないひとつの特徴がある。聖書は、言語の発明を、最初の人間に相応しい行為として特別に扱っている。――創世記第一章に、アダムについて他のどんなことが書かれているにしても。それが、アダムの最初の自発的行為だった。共同作業という意味での建設行為は、おそらくカインの行為として考えるのが適当だろう。しかし私が引用してきた異教徒の理論家たちは、言語の起源を最初の人間集団、すなわち真に人間的な共同生活形態における建設行為の起源と関連させている。そしてこの関連こそが、明らかに西洋の建築理論家たちを惹き付けてきたのである――言語の起源の問題が最も重大なテーマのひとつとして扱われた18世紀には、それと建設行為の関係について、人々はあたかも取り付かれているかのように熱中した



五章のp192,193の重要度には突出したものがあるので更に解釈しておきたい。
著者がいうには、建築の最初の神話的行為者はカインである(聖書をアーカイブに位置付けた場合)。しかし18世紀に重要だったのは、最初の建築はどういうものであったのか、ではなく、むしろその起源と「言語の起源」との等根源性なのだ。
「楽園追放後」に、アダムの息子であるカインがアベル殺害後に家族らと建てたと推定される(記述はない)「原始の小屋」は、「バベルの塔」、「箱舟」、「ユダヤ教神殿」よりも更に古い。

「そしてカインは彼の妻を知り、彼女は妊娠してエノクを生んだ。そして彼は都市を作り、その名前を息子エノクの名に因んでつけた」



さり気ない一文だが、この記述も重要だ。
カインは「都市」を作り、そこに息子の「名前」を与えている。その都市は息子それ自身であり、都市とは息子の分身である。「都市」がもしも固有名を持つことで成立すると仮定するならば、「名付ける行為」が「都市」に先行する。したがって、「言語」の起源こそ、「都市」の起源と相関的に解釈すべきであるということになる。

「一般に、種族の生活にとって重要な意味を持つ、遠い過去の日に祖先や英雄が建設した家を、ある意味で再現し記念しているのは、小屋の建設儀礼である。それは、特定の時と場所という条件を持つ通常の住居とは、<他なる住居>である。全ての場合、その家は時が刻み始める前に存在した完全な建築の何らかの影、或いは記憶を体現している。その時人間は、自分の家の中で非常にくつろいで生きてきたのであり、その家は自然そのものと同じくらい理にかなったものだったのだ」



この理念を近代建築の理念として読み返したのが、主に二章であった。
ここで私は、本章での著者の帰結と最終章での驚嘆すべき結論とを比較して、まだ概念が先鋭化されていない不満足感を覚える。
というのはリクワートは、私の読解が正しいとすれば、本書で「建築は存在しない」といっているように思われるからだ。何故、建築は存在しないのか? それは彼の論述の必然的な帰結である。その鍵は「宗教儀礼」にある。思い起こそう、建築の原初が、そもそも呪術的に生成されたことを。そこには建築以外にも、色々な簡素な祭儀用の杖とか、道具があったことを。建築とは、実はこれら祭儀用のツールの「延長」に過ぎない。

【最終章の要約――建築の起源】

「原始の小屋」の地図は存在しない。
ただし、エルサレム神殿の建築構造は詩篇118と対応しているとされている。聖メソディウスの伝承によれば、『出エジプト記』において登場する「skenosei(スケノセイ/仮庵)」が、神殿の原型である。
著者はオーストラリア先住民族のグループの一つであるアランダ族の「風除けのシェルター」について言及する。

「彼らが自分の為に建てる唯一のシェルターは、低木や下草を利用した風除けであり、その作り方といえば、刈り取ったままだったり切り揃えてあったり、或いは積み重ねたりといった程度である。彼らはこの風除けに囲われて野外で眠り、寒い季節には小さな火で暖をとる。同時にこの風除けは、彼らの儀礼の場の<建設>に重要な役割を果たしている」



アランダ族がイニシエーションにおいて中心的役割を果たす祭儀道具は、waninga(ワニンガ)と呼ばれ、日本で正月に行う「凧揚げ」のような形をしている。写真を見た限り、形態的に同一のものは二時間程度で作成できる。
リクワートは、これを「建築の論理的な先祖」と認識している。
その理由は二つある。

�アランダ族にとって宇宙とは、「ワニンガで構成された柵」である。
�ワニンガは、入信儀礼で使用する小屋と原理的に同一である。



我々はリクワートが「建築」の起源を「アダムの小屋」に見出そうとする博覧強記に裏付けられた思考の軌跡を読んできた。だが、建築のアーカイブを単に神話の中の「記述された建築」に見出す程度なら一般人にでも可能であろう。
彼が我々にとって有能であるのは、「建築」を「祭儀用の道具の延長」として規定した点である。彼の論理に従えば、建築は本質的に宗教的である。つまり、宗教儀礼のために建築は存在してきた。換言すれば、建築とは宗教儀礼のための「道具」である。それは原理的に祭儀用のwaningaと同一である。
アランダ族の例は、「建築の最小単位」、或いは「原理的な最小建築」とは何かを示唆している。ロースが「埋葬のために盛られた土」を「建築」と呼んだことと同じ宗教儀礼的な起源がここでも浮上する。
全ての建築は、儀礼的に創建され、祭儀用の道具のように取り外される。「家」とは、神話的な生き物のの「体」そのものであり、「全宇宙」である。それは同時にミクロコスモスとしての「人間」である。「住居」―「人間」―「宇宙」とは同じものである。その全ての起源は、死者を埋葬するための宗教儀礼にある。

「このオーストラリアの事例が私にとって興味深いのは、この論文を通して私が追求してきたものと非常に似通った基本的諸概念と、建物をすら持たない人々が関係を持つ実例が見られるからである。そしてこの実例では、儀礼で見せる以外に何ら具体的目的を持たない物体として、その諸概念が抽象的に表現されている」

「アメリカの人類学者フランツ・ボアズは、北西インディアンの神話の中に、英雄が地上に降りてきて現地の女性と結婚し、住居を建てたという話があると記している。その神話によれば、その住居の柱は全て人間であり、それぞれに名前がつけられている」



建築の起源はwaninga的な祭儀用道具である。
メソポタミヤやインディアンには「婚礼の部屋」としての「木の枝で構成された小屋」が存在するが、これは「婚礼の場」のアーカイブとして解釈できる。
著者はタルムードから派生した伝承として「アダムとイブの婚礼」について以下のような記録を引用する。

「聖なる者、神の恵みを受けたものが、アダムのためにエデンの園に10の婚礼のための天蓋を作った。それは皆、宝石、真珠、金でできていた。王のために唯一つの天蓋しか作らなかったというのは、真実ではないのか……?」



※アダムの顔は、イエスの顔と同一であるというプラトン的な考えを著者は紹介している。

本書の要約的なテクストはp265の二段目に存在する。

「儀礼、神話、あるいは建築的思索のいずれにおいても、原始の小屋は建築のパラダイムであり続けた。それによって他の建築が何らかの意味で判断される規範として、存在してきた。何故なら、あらゆる建築が、この取るに足りない始原から生まれ出てきているのだから。これらの小屋は、常に理想化された過去のものとして位置付けられてきた。ル・コルビュジエの理想的野蛮人は、自分で考えたことがわかるように建築を建設した。ロースの同じく理想化された農民は、外から与えられる必要性と生来備わった理念のみに従い、思考することをしなかったからこそ、うまく建築した。ロースもコルビュジエも、共に技術者こそが始原の建設者を真に継承するものだと断言している。何故なら技術者は、文化的な余計なものによって混乱することがなく、ロースの考えでは彼らは必要のみを、そしてコルビュジエの考えでは理性のみを、考慮しているからである。ロースは、コルビュジエよりも、前の時代の諸思想から強く影響を受けている。ロースはそれらの思想から、人間性はけして動物的存在から断絶しておらず、正しい建築も同様に、自然と何らかの意味で連続的関係にあるはずだという考えを受け継いでいる。ラスキンの、最上の建築は自然の景観の主要な部分をなすという信念は、この理念の一例である。この理念の裏返しがデュランの著作には現れている。デュランの本の中では、18世紀合理主義は極限まで衰退し、功利主義的な便宜主義に変化している。しかしそれでも19世紀には、人間の創造活動にもうひとつ別の動因が存在していると考えた理論家が存在した。すなわち自然の中の根本的なリズムを応えることが、全ての技を習得する動機になるという考え方であり、ゼンパーはその思想に基づいて、ひなぎくの花輪が全ての人間の活動の原型であると考えた。コルビュジエは、建築は連続的な自然の中に理想的に存在すると唱えたが、彼はそれ以前から存在した様々な理念に影響を受けていた。それと同様にこのゼンパーの考え方からも、コルビュジエは何がしかの影響を受けていたと思われる」



「原始の小屋」が建築の起源であると彼はいうが、それではwaningaは何の例証だったのだろうか?
P262に戻る。

「このオーストラリアの儀礼のための物体が、物質文明の頽廃した段階を表しているのか――したがってもっと昔のより豊かだった時代の小屋を、抽象化したものとして解釈できるのか――あるいは、それは建築の論理的な先祖として理解されるのか――オーストラリア原住民が、建築というものを全く知らなかったという仮定においてであるが――そのどちらであるのか、私には断言できない。現在発見されている考古学的証拠によれば、私は後者の仮説の立場に立ちたいと思う。しかしいずれの立場をとるにしても、間に合わせの雨風しのぎしか作らない部族が、この素晴らしい構造を工夫し、もしヨハネが知っていれば、その『黙示録』で讃美せずにいられなかったであろう荘厳な希望を、それに賦与したということが私には愕くべきことのように思われる」


ここで我々は二つのアーカイブの問題に突き当たる。
果たして建築の起源は「祭儀的道具」(極めてシンプルな)なのか、それとも天候から護るための「原始の小屋」なのか。
空間性を持つか否かという点で考えれば、場所としての建築物のアーカイブは「原始の小屋」というべきだろう。しかし、「何に使うか」という目的性で抽象化していけば、原理的には「道具」と同じである――つまり、「祭儀用の道具」として、最初の建物は設営されたのであろう。
waningaをアーカイブとみなす考えは宗教学的な解釈である。

「…我々は始原の家には二重の源があることがわかる。すなわち洞窟の<発見された>空間と、テントあるいは非常に切り詰められた庵の<作られた>空間である。…現在我々が何故建設し何のために建設するのかを再考するとき、原始の小屋の問題は、全ての建築が人間に対して持つ始原の本質的な意味を思いだせるものとして、重要な問題だと私はいいたい」



私が本書を読んでいて感じたのは、「住居」はその本質において宗教的であるという点である。寺院が、教会が宗教建築であるだけでなく、集合住宅やマンション、社宅も含め、人がそこで何かを思念し、部屋に物を配置し、何かを装飾したり人間関係を営む場全てが、太古の宗教儀礼として「設営された原始の小屋」(それは果たして本当に小屋かテントなのか? そのような形態を取る必然性など原理的には存在しない)にそのアーカイブを持っているということができるだろう。
著者が最終章で建築ではなく、その果てにある「建築の論理的先祖」として「祭儀的道具」を提示しているのは意味深長である。



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