† 建築学 †

オットー・フリードリッヒ・ボルノウ『人間と空間』

人間と空間人間と空間
(1978/01)
オットー・フリードリッヒ・ボルノウ

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オットー・フリードリッヒ・ボルノーは現存在の根本規定を空間と時間であると述べる。空間には二種ある。

・ユークリッド空間
・der erle Raum(体験されている空間)



前者の特質は以下である。

①どの点も他の点に対して優越しない。この空間は、自然的な座標原点を持たず、むしろ我々は目的に都合が良いという理由から、簡単な座標移動によって任意に選んだ点をどれでも座標原点とすることができる。
②どの線も他の線に対して優越しない。我々は簡単な回転によって、空間の中の任意に選んだ線をどれでも座標軸とすることができる。


ユークリッド空間はそれ自身においては内的分節に分けられておらず、完全に均質であり、またこのようにして全ての方向に向かって無限に広がっている。
der erle Raum(体験されている空間)の特徴は以下である。

①この空間においては、何らかの仕方で体験している人間の居場所を通して与えられている、他に優越する原点がある。
②この空間には、人間の体と直立の姿勢、すなわち重力に逆らってとられている姿勢に関連している、他に優越する軸系がある。
③この空間における色々な包囲とか色々な場所は質的に区別されている。これらの区別された方位とか場所の諸関係の上に、<体験されている空間>の内容豊富な内的分節が組み立てられている。数学的空間には、これに対する何らかの類比物もない。
④その場合、一つの領域から他の領域への境界のはっきりしない移行もあるが、はっきりと刻印付けられた境界もまた存在する。<体験されている空間>は顕著な断絶性を示している。
⑤更に無限性の問題は、本質的により面倒なものとなる。<体験されている空間>は、まず第一に完結した有限な空間として与えられ、その後の諸経験において初めて無限の広がりへと広がっていくものである。
⑥一般に、<体験されている空間>は価値に対して中立な領域ではない。この空間は生活の諸関係を通して人間により促進的にも、また抑制的にも関係する。この空間は、どちらであれ、人間の生活様式の場である。
⑦<体験されている空間>のどの場所も、人間に対してそれぞれの意味を持っている。それゆえ、我々が<体験されている空間>の記述のためにその力を借りなければならないのは、諸々の精神科学において慣用になっている諸カテゴリーである。
⑧人間への具体的関係から解放された現実が問題になるのではなく、人間に対して現にそこにある空間が問題なのであり、それと同時に、この空間に対する人間の関係が問題なのである。何故ならこの両者は相互にけして切り離すべきではないからである。



ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で、肝要なのは世界が「どうあるか」ではなく「世界がある」ことであると述べている。ボルノーの空間概念によれば、空間は人間の「気分」によって変容する。

「具体的な空間は、それを自分の空間とする存在のそれぞれに応じて、またこの空間の中で実現されているそれぞれの生活に応じて別のものである。この具体的な空間は、その中でふるまっている人間と共に変化し、また程度の差こそあれその時に自己の全体を支配している特定の観点や精神的態度の現状と共に変化する」デュルクハイム『生きられている空間に関する研究』



ボルノーのテーマはハイデッガーのdas In-sein(内存在)である。人は常にdas-der-Welt-sein(世界内存在)であるが、特に空間に対して内存在である。我々は空間の内に住まう。

「内存在は世界内存在という本質的な構造を持っている現存在の、存在の形式的なカテゴリー的表現である」ハイデッガー



空間とは人間の生の一般的形式であり、周囲に広がっているものとして感じられるが、実は我々自身が空間を自分の周囲に「張り拡げている」。ゆえに空間の根源は人間の「意識」である。


○ 四章「空間の諸局面」三節「昼の空間と夜の空間」


時間帯や場所によってその空間の「感じられ方」は変容する。ボルノーはそれを「体験された空間それ自体の変化」として把捉する。
夜の暗闇の中では、全く別の空間が顕れる。それは昼には隠されている。黄昏は空間内の諸物の可能性をゆっくりと消し、不鮮明にしていく。
昼に現前しているのは、視覚的な空間であり、公的で全てが「見渡せる」視野に開かれている。ゆえに「私秘的領域(隠れ処)」を作り出す必要がある。
夜は触覚や聴覚が主導権を譲渡される。

「森」では自分の居場所が判らない。それはやがて自分すら見失う。森は「迷い」のアレゴリーである。森内部では視野が必然的に樹木や枝葉で狭められ、局所化する。我々はそこから脱出を欲する。
森は閉鎖的でありつつ、どの方向へ進んでも良い。これが森の「不気味なもの」としての性質である。昼の森は半分明るい点で、どこか都市の黄昏時と相関する。

「霧」に包まれた空間についての著者の解説はどこか異様な雰囲気を放つ。

「…霧は昼の見渡しのきく世界に対して全く変化した世界を提示する。霧の中では諸物はその掴み取ることができるという性格を失って、掴み取れないものへと滑り落ちていき、まさにそのことによって新しい脅迫性を獲得する。それは、我々が先に森を手掛かりにして明らかにしたものより更に強い脅迫性である。諸物は霧の中から浮かび上がるように現れ、再び消え去る。これら二つのことは突如として起こるので、私はそれらの物がやってきて、再び去っていくのに気付かなかったのである。私は霧の中では、物の接近に対して心の準備をすることができない。突如として私の前に立ち顕れ、しかも危険なほど近くに存在する。このような世界では、最早隔たりの段階的な等級は存在せず、存在するのはただ――森の場合と同じように、しかしそれよりずっと強烈に刻印付けられて――その背後にすぐさま白い無が現れ出てくる」



u ntit led

「映画版サイレントヒル」

蛇足になるが、『サイレントヒル』にはシリーズを共通して「霧」に覆われた街が登場する。「霧」は我々からVor-sicht(前もって観ること)を奪取する。画面の一部分しか可視化されていないこのゲームの戦略は「見渡せない」ことによる不安の演出である。この作品には異形の怪物も登場するが、真の怪物はむしろ「霧」だったのである――それはキングの『霧』という不気味な短編でも象徴的に表現されていた。

「霧の中を流離うことの不思議さよ
どの茂みも石も孤独で
どの樹のほかの樹を見ていない
全てのものはひとりなのだ
霧の中を流離うことの不思議さよ
生命は孤独なものだ
どの人間も他の人間を知らず
全てのものはひとりなのだ」ヘッセ



「霧の衣を着たかしわの樹が
聳え立つ巨人のように行手に立っていた
そこでは暗闇が茂みの中から
百もの黒い眼で窺っていた」ゲーテ



「降雪地帯」も見渡せない点で不安であり、「白い暗闇」と表現される。見渡せないこととは、方向が定まらないということである。
本節の中心的な空間性である「夜」はVor-sicht(前もって観ること)を奪取することによって現存在をその存在論的根本気分としての「不安」に急迫させる。ミンコフスキーの解釈を踏まえ、著者は「私の身体の表面に夜が乗っている」と述べている。「夜」は現存在に対して、「覆い被さる」ものとして、また「不安」を与える根源として、「存在論的皮膚」として位置付けられる。

「全てのものは、黒い空間の中では暗く、秘密に満ちている」ミンコフスキー



「夜」と「昼」についてはヤン・パトチカが戦争論的コンテキストで概念化しているが、ボルノーのテマティスムは一貫して「体験された空間」である。「夜」は「影」として「昼」にも潜在している。
ただ、ボルノーの落ち度は「夜」と「昼」のあわいに存在するあの魔性の「黄昏時」についてほとんど思考停止している点である。そこで、若干私なりに「黄昏」について述べておく。

Caspar David Friedrich  - Moonrise over the Sea _detail_

《Moonrise over the Sea (detail)》 by Caspar David Friedrich

私が考えるに、黄昏とは「ま」であり、「うつろひ」である。「ま」とは、例えば家と家のあいだの路地裏である。古来より、日本人の空間概念は「ま」と密接に関与する。「かくれんぼ」をすれば「隠し神」が出来し童子を攫うという伝承が日本各地に存在するが、タブーとなる時間帯は「夕暮れ」である。「夕暮れ」の異名「黄昏」は、「誰そ彼(タソガレ)」――「彼は誰(カワタレ)」といわれ、この表現が「夕刻」の魔性を如実に反映する。
空間が「昼」の顔から「夜」の顔へと変容すること、そこには常に妖しさが漂っている。美しいトワイライトを眺めながら少年が「明日世界は終焉に達する」と落涙しながら告白できるのは、「夜」そのものが現存在の根本気分を「不安」から「死」へ臨む態度へと変えるからである。

「眠っている時、私は自分の実存の主観的な源泉へと帰り、夢の中の諸々の像は、私のために明るい空間や観察できる諸対象が押し込められている一般的空間性のベールをなおいっそうよく取り除いてくれる」メルロ=ポンティ『知覚の現象学』



ボルノーはこのメルロが夢見た「根源的空間性」を、「夜の空間」と結び付けている。

「はっきりしていて確定している諸対象物の世界が除去されている場合、我々の自己の世界から切り離されている知覚する自我は、物のない空間性を描く。これは夜に起こる。夜は私の前にある対象物ではない、夜は私を包み込んでいる。夜は私のあらゆる感官を貫流し、私の諸々の記憶を窒息させ、私の人格的同一性をほとんどぬぐい消してしまう。私は最早自分の知覚の立場に縛られていないので、物体の輪郭を間隔をおいて次々と私の傍を通過させてしまう。夜は輪郭の無いものである。夜はじかに私に触れ、そしてその私との統一はmanaの神秘的な統一である。色々な叫び声、あるいは遠くの一点の灯火でさえ夜をぼんやりと埋めるだけである。夜は一つの全体として活気付いている。夜は層のない、表面のない、間隔のない、純粋な奥行きである」メルロ=ポンティ、同書


「夜」の静謐さ、特に「夜の雨」の静けさは、我々が密林で生息していた悠久の時代に耳にした、あの「森の雨の音」の再現前である。「夜」の暗闇にぼんやりと浮かぶ焚火の優しい火は、現存在が「不安」の中に一個の確固たる「道標」の如き霊性を見出した象徴であろう。

「このような原初的生命感情に対応して、アニミズム的な諸思考形式がここでも再び姿を見せているのである。これらの思考形式の影響は、今日我々には幽霊の存在を信ずることと、幽霊への恐怖として顕れているものだけである」ボルノー















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