† ジャック・デリダ †

首都大学東京(フランス語圏文化論)准教授で日本を代表するデリダ研究者として名高い西山雄二先生が鈴村智久の詩集『薔薇苑:ROSERAIE』』をRTして下さいました!


薔薇苑: ROSERAIE薔薇苑: ROSERAIE
(2015/04/08)
鈴村智久

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遂に鈴村智久による処女詩集『薔薇苑:ROSERAIE』が発売しました。
ドゥギー、デリダ、ヴァレリーをめぐる三つの詩論を併録しています。
どうぞよろしくお願い致します。


内容紹介

「我、恋する、故に我は言語である/我、詩作する、故に我は恋愛である」、このたった一つの信条の下、〈貴族〉、〈薔薇〉、〈輪廻転生〉、〈オペラ〉など、様々な詩的概念を駆使して愛の迷宮を生成させた、鈴村智久による二十三篇の魔術的な恋愛詩集。
同時に、ドゥギー、デリダ、ヴァレリーに関する三つの先鋭的な詩論を併録。
(装訂/門倉ユカ)

【なぜ、詩でなければならないのか】

 現代フランスを代表する詩人で、哲学者でもあるミシェル・ドゥギーはかつて『奇数』という詩集の一篇「夏」において、以下のように綴った。

「夏は、言語の中にあってこそ存在する」。

 換言すれば、été(夏)という文字の中には、我々が毎年経験しているあの夏の全てがあることになる。これはいったい、どのような想念のもとに発せられた断定なのであろうか。私にとって最初の詩集となる本書は、付属の論稿三本も含めて、全てこの言語にとって決定的な問いを、新たに問い直す作業によって成立している。基本的に本書に収録された二十三篇は、恋愛や官能を主題にしている点で共通しているが、書き手にとって本質的な謎であったのは、詩的言語の内部において、「何が」生起し得るかという命題だった。より正確に言えば、詩を読み、書く行為において、我々の生を更新させるような力が生起しているのだとすれば、それをひとつの「出来事」として解釈すべきであるのかが、私にとっての最大の問題だったのである。だとすれば、ドゥギーの先の一節にもあるように、果たして言語によってamour(恋愛)は語られ得るに値するものなのか、あらゆるドラマティックな局面における情動性を文字にする行為において、そこでは「何が」生起し得るのか、それを問い直しつつ書くことこそが、私の詩作の課題であると考えた。
 近年の『現代詩手帖』で掲載される対談や講演録からも判るように、現在、詩を書くことはいよいよ困難になりつつあると言われている。言語がすぐに揮発し、拡散して広がっていくこの高度情報社会の中で、我々にはなぜ「詩」が必要であると言えるのだろうか。私はなぜ、何のために、誰のために、詩を綴ってきたのだろうか。こうした問いを抱えつつも、私は日々生きていく上で時おり降下してくる何かに導かれるようにして、小説でもなく、論稿でもないもの、すなわち「詩」を綴ってきた。それは詩であることの必然からか、「愛」をめぐって綴られたものが多くを占めるようになった。
 これらの詩は、ひとつひとつが私にとって薔薇である。全ての薔薇は微妙に色合いが異なっている。その花言葉にもあるように、中には官能色の強いものもあるだろう。だが、こうして同じテーマ系のもとに二十三篇の詩を集結させると、グラデーションが少しずつ異なる、言語的な「薔薇苑」の様相を呈するのではないかと感じられた。詩集のタイトルにフランス語で薔薇苑を意味するRoseraieを冠したのは、まさに以上のような理由に拠っている。
 
(本書「前書き」より)

【目次】

「前書き」
『汝は美しい』
『薔薇苑』
『ねえ君 僕と踊ろう』
『聖夜が明けて』
『彼女に百億の花束を』
『僕らはいつでもここに戻って来れる』
『夏の想い出』
『愛のディアレクティケー』
『灼熱のクピド』
『小鳥の肉体』
『夜の女王』
『ヘンゼルの死』
『クピドたちの饗宴』
『ウロボロス』
『貴族的時間』
『貴族的発情』
『 Siamese 』
『 VaNITaS 』
『夜を駆ける』
『君のスカートとその内なるイメーヌ』
『再会』
『もし君が水死しようものなら』
『愛そのものの裸形』

【ドゥギー、デリダ、ヴァレリーをめぐる三つの詩論】

・付論A
 〈夏〉はどこに存在するのか?――ミシェル・ドゥギー『愛着』をめぐって
・付論B
 「我、恋する、故に我は言語である/我、詩作する、故に我は恋愛である」――グラマトロジーから「恋愛詩」へ
・付論C 
 そのたびごとにただ一つの詩作――ポール・ヴァレリー『詩学講義』の余白に


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