† 存在論 †

M・ハイデッガー『哲学への寄与論稿』におけるEreignisについて

哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻
(2005/06)
ハイデッガー、辻村 公一 他

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秘教的な性格を持ち、読む者にこの上なき衝撃と魔力を与え続ける20世紀の哲学者マルティン・ハイデッガーの『哲学への寄与「エアアイグニスについて」』は、『存在と時間』と並んで「ハイデッガーの思索の道における二つの絶頂」(フォン・ヘルマン)とされて現代に及んでいる。 このページでは、Ereignis(エアアイグニス)とAb-grund(深淵)という二つの重要なテーマ系を、民俗学的地平へと脱領土化させることによって、「存在と時間」であった20世紀の思想から、「存在と霊」の時代へとシフトしつつある21世紀への架け橋を示す。

「ハイデッガーの思索において本質的なのは、神々を喪失したという歴史的な経験である」by G・フィガール



 
私自身の経緯を先に少しだけ紹介程度に記しておくと、私はカトリック教会で洗礼を受けた二十一歳の頃に集中的に創文社版の「ハイデッガー全集」を読むことをしていた。
このページのテクストは、そのような中でもう一つの主著である『哲学への寄与論稿』を読解した結果、堆積していったものから構成されている。
これは、ハイデッガーの『哲学への寄与』の中で最も重大な意味を持つEreignis(エアアイグニス)と、Ab-graund(深淵)という二つのテーマ系の周辺で思考される。
もしも表題をつけるとすれば、「存在と時間」ではなく、「存在と霊」になるであろう。何故、しかし「霊」なのか。「存在」と「霊」には、いかなる親和性があるのだろうか。そもそも、「霊」とは何であるか、ということも含めて私はこれを書き残す。
いうまでもないが、これはソーシャルメディア(ツイッターやブログその他)などで私が極めてよく目にする、「新しいスピリチュアリズム」の運動とも連関している。ハイデッガーの存在論を、二十一世紀のこれからのスピリチュアリズムの文脈で改めて把捉するということ、これには単なる哲学界の常識を越えた強力な有効性がある。


○ 「Ereignisとは何か?」


 エアアイグニス――。
 目下、この言葉は極めて重要である。というのは、これを後期ハイデッガーの「思索を導く主導語」とする認知が研究者のあいだでも常識となっているためだ。フォン・ヘルマンが「西洋ヨーロッパ哲学の二つの偉大な著作」の一つとして称賛する名高い『哲学への寄与論稿』(以下、略して『寄与』)のサブタイトルも、やはり「Ereignisについて」である。(創文社版全集では、「性起」と訳されているが非常に判り難い言葉である。このような漢字を当てるくらいなら、いっそプラトンのイデアやニーチェのルサンチマンと同じく、カタカナで原語の響きを高貴に響かせる方が良かったのである)。
 Ereignisの意味は何であるのか? これは『フライブルク講演』の第三講演「同一性と差異」にて詳しく記されている。もともとの原義は、er-augen(エア-オイゲン)であり、これは「見つめて自分の方へ呼ぶこと」を意味している。Ereignisは名詞形であり、意味は「出来事、事件」である。ハイデッガーの後期思想の始まる『ヒューマニズム書簡』(1947)に登場しているのはsich sreignen(生じる、起こる)という意味の再帰動詞である。
 以上から、「エアアイグニス」という言葉の意味は少なくとも理解できる。基本的に、この言葉はハイデッガーにとって無限に深い奥行きを与えられていて、「ギリシア語のロゴスや、中国語のタオと同様、翻訳不可能である」とまでいわれているのであるが、それでも存在論的な意味をエアアイグニスに与えると、かろうじて「存在が人間を呼び求めているという存在論的関係そのもの」になると今のところは解釈できるはずである。
 よくハイデッガー関連の本を読んでいて、「Kehre(転回)」という言葉を目にするが、この語の存在論的な本来的意味は、「人間と存在の相互性(呼応関係)」を指しているとされている。特に重要なテクストは、「エアアイグニスは、見えざるものの内で最も見えざるもの、単純なものの内で最も単純なもの、近いものの内で最も近いもの、遠いものの内で最も遠いものであり、我々はその中に、死すべき者として生涯滞在するのである」(『フライブルク講演』)という箇所である。
 こうした意味が明確には伝達されない謎めいた性格をエアアイグニスは持っている。それは翻訳不可能であり、表現不可能性に帰属されるテーマであるが、少なくとも「極度に見えざるもの」でありつつ、「存在と人間の関係性」を指示する語として理解できよう。もともと、この言葉にハイデッガーが憑かれたのは、ヘルダーリンの「ムネモシュネー」に由来するといわれている。

 

 Lang ist
 Die Zeit, es ereignet sich aber
 Das Wahre.


 時は
 永い、だが真なるものは
 出来事として生じる。



 ここで、sich ereignen(生じる)という言葉を詩人が使用している。この「真なるものが出来事として生起する」ことを、ハイデッガーはそのヘルダーリン論の中で「存在の露になること」と理解した。より詳しく述べると、「乏しき時代」としての現代が、「世界の転換」にどのようにして遭遇するか、いうなれば「転換」がどのように「生じる」かを意味するのである。
 重要なことに、エアアイグニスは、「時間/存在」を、与えるところのものであるとも考えられている。「時間」というのは、実質的にエアアイグニスの発現形態なのだ。
 『寄与』におけるエアアイグニスについての言及によれば、「存在は没落する者たちを必要とし、ある存在者が現象する場合には彼らを既に呼び求めており、自らに割り当ててしまっている。これが存在それ自身の本質活動であり、この本質活動を我々はエアアイグニスと名付ける」とある。このテクストが重要なのは、「存在が存在者を呼び求めている」と記されている点にあり、実はこれは原義であるer-augen(エア-オイゲン)の「見つめて自分の方へ呼ぶこと」の意味と深く重なり合っているのである。いうなれば、「存在」が我々「存在者」を「呼び求める」という、その存在それ自身の「不可視」の「活動」を、ハイデッガーは「エアアイグニス」と規定する。
 ここまでの段階で、我々はまだハイデッガーのエアアイグニスという言葉の意味を紹介しただけに過ぎない。これは繰り返すが後期ハイデッガーを語る上で避けては通れない概念である。しかし、読者はここに何故「霊」的な意味が結び付いてくるのか、頭を傾げるだろう。それを示すためには、エアアイグニスと並んで重大な意味を持つ、Ab-grund(深淵)というテーマについて考えねばならないのだ。


○ 「存在論における<幽霊>、あるいは<異界>」 


 前期ハイデッガーの著作『存在と時間』は、これもよく知られるように「未完成」だといわれている。和辻哲郎も指摘しているが、ハイデッガーは「存在」について徹底的に考究しようとしたものの、「時間」については極端に言及が少ない。ハイデッガーの「時間」論は、いわば『現象学の根本諸問題』でしかその内容を知り得ない状態である。しかし、この本でも彼の「時間」「空間」論がうまく「存在」と結合して語られたことはない。
 では、何故タイトルが「存在」と「時間」だったのか? これが最大の謎である。また、何故「空間」ではなく、あえて「時間」なのか? 「存在」についての問いは、ハイデッガーによって確かに深化したかに見えるが、これは十分に「時空概念」と共に有機的な全体を形成し切れていない。
 実は、『寄与』という書は、高度にesoterisch(秘教的)であると称される。それは彼の使う言葉が極めて特異なためでもある。未だに完全に解明されていない『寄与』(研究は世界的に見てもまだ始まったばかりだといわれている)の中に、私はハイデッガーの「時空概念」を解明する手掛かりがあると考える。その上でキーワードとなる概念が、Ab-grund(深淵)なのである。
 ここで私は、ハイデッガーの哲学を積極的に脱領土化して思考するために、民俗学でいうところの「他界」、もしくは「異界」概念について記しておきたい。民俗学者で学習院大教授の諏訪春雄氏はその体系的大作『霊魂の文化誌』の中で、「現世」を同心円モデルで把握することで、古今東西の文献に登場する「幽霊」や「妖怪」の出現する原理が解明され易いということを示している。
 例えば、あなたは今、「A市」で生活している。存在論的にいえば、あなたは「世界-内-存在」として、A市というローカリティに属する「世界」の内で現実存在している。あなたは、A市に、有る。これを、大きな同心円モデルで表してみよう。プラネタリウムの半球体のように、A市はある領域として規定される。この時、A市、すなわち「世界」は、端的に「現世」である。そこでは、通常の時間の流れが作動している。諏訪氏は、この「世界」という同心円と、その円を重なり合わせた別の「世界」が存在することを示唆している。それが、「他界」や「異界」である。
 「他界」というのは、人間が死後訪れる「黄泉」とか、「根の国」と呼ばれる場所を示し、極めて古い神話文献における前提となっている。「幽霊」という存在は、この「他界」から「世界」に浸透してくる存在である。その実在性はともあれ、少なくとも民俗学的資料からこうした現世とは異なる空間概念が導出されるのである。
 諏訪氏によれば、「他界」から出現するのが「幽霊」であり、「異界」から出現するのが「妖怪」である。「他界」が「世界」と隣り合った同心円として存在しているのに対し、「異界」は「世界」の円と完全に重なり合っている。つまり、「世界」のあらゆる領域が、何らかのシャーマン的祭儀、もしくは心霊現象などを通じて突然、「異界」化する可能性を持つとされている。
 Ab-grund(深淵)に話を戻そう。先述して、私はハイデッガーの『寄与』における謎に包まれた「時空概念」を解明するためには、その「深淵」という言葉が示す意味を汲み取ることに糸口があると記した。
 Ab-grundとは何であるか? それは、「根拠が現れないこと」である。言い換えると、「根拠であることを拒絶するという仕方での自己秘匿」であるとも記されている。Der Ab-grund ist Ab-grund(根拠が現れないこととしての深淵は、深淵的な根拠に他ならない)。Die zögernde Versagung des Grundes(深淵とは、ためらいつつの拒絶である)。
 「深淵」とは、「形あるものとしては生じない」が、「拒絶」という仕方において、「空虚」という形で己を開示するものである。しかしまずもって、より重要な意味は、「深淵」がまさにZeitigung(時間化)と、Räumung(空間化)の根拠付けを行う場であるということである。すなわち、「世界」における物理的時間の流れ、物理的な空間の位相は、全て「深淵」による「時間化/空間化」という、「作り出す」作用に従って生起したと解釈される。
 「深淵」は、ゆえに「時間化と空間化の統一として根拠付けの働きをなす」ところである。「時間」と「空間」の根拠は、「深淵」にある。ハイデッガーは、「世界-内-存在」としての我々が属すこの「世界」における「我・今・ここ」という時空認識に対して、「かの者・かの時・かの場所」を想定し、そちら側へのEntrückung(時間脱出)とBerucküng(空間脱出)の可能性を示唆する。
 ここまで示してきて、我々はあることに気付かないであろうか? 一体、ハイデッガーは何を想定して「深淵」のことを語っていたのか? 実は、このAb-grund(深淵)という後期ハイデッガーの重要概念は、民俗学的にいうところの「他界」、「異界」の持つ意味内容に限りなく接近しているのである。
 「深淵」とは、「時間が空間を開く」こと、「空間が時間を開く」ことが、同時に生起する原-時間、原-空間そのものである。そこは、「存在」が自己を秘匿するという仕方で開示される場であると同時に、「根源的な空虚」である。先に紹介したEreignis(エアアイグニス)の意味を看取して再考すると、まさに我々人間が「存在する」ということを、成立せしめる「存在」そのものとの関係性(=エアアイグニス)の「現場」として、「深淵」は存在するのである。
 人間にとって、「存在」そのもの(これは、まさに「最後の神」のテーマに近付いているのだが)は、けして見えない。見えないこと、それは存在それ自身の「自己秘匿」であり、この退隠運動によって「存在」は我々「存在者」にとってまさに「隠れたる存在」として露になるのである。存在が隠れることで、己を人間に明かす場、それが「深淵」である。ハイデッガーの無限に豊穣な表現を借りれば、深淵とは、まさに「自己秘匿のための明るみ」なのだ。
 「深淵」は、また「再び新たに始まる歴史の場所」としてのAugenblicks-Stätte(瞬間の場)である。そこは、「新たな歴史の創設の場」でもあるのだ。日常的な時空の世界を変容させ、「更新」させるような特権的な「時間」の原形質、「空間」の原形態として、「深淵」はまさに「存在」の住まいである。
 以上の、『寄与』における「深淵」という用語を、意図的に「他界」に、「存在」を「幽霊」に交換してみよう。すると、極めて強い衝迫力を維持して意味が通じるばかりか、むしろハイデッガーが何をイメージして「深淵」について語っていたのかが理解できる。「他界」とは、まさに現世であるこの「世界」の時空を発現させる根源的な場である。「世界」において「幽霊」の存在が不可視であるのは、幽霊が「見えない」という「自己秘匿」によって退隠しているからであり、この幽霊の「隠れ」の場こそが、まさに「他界」=「深淵」なのである。
 我々人間は、「世界-内-存在」として、「我・今・ここ」に属するが、「幽霊」は世界の「外」である「他界」=「深淵」に属している以上、常に「かの者・かの時・かの場所」に属する。また、通常の現世である「世界」に属す我々にとって、「他界」の根拠が「現れないこと」もまた、「深淵」の持つハイデッガー的意味と符合する。そして、ハイデッガーが「時間脱出/空間脱出」によって、「存在」それ自身が住まう「深淵」と対峙できると考えていた以上、我々はシャーマニズムにおける「世界の中心化」の原理や、祭儀におけるekstasis(脱魂)によって、まさに「他界」に属する「霊的‐存在」に、対峙することができるのである。
 こうして、我々は『寄与』の最大のテーマであるエアアイグニスの真意の一端に、まさに接触する。エアアイグニスの原義としての、「呼び求めること」は、「霊的-存在」が、「存在者」を「深淵-他界」に向かって、招き寄せることである。これが、「新しい歴史の創設」であるとされるのは、普遍宗教の創始者たちが密接にエアアイグニスのさ中にあったからである。「霊的-存在」に対する道が、隠された都市の路地裏として示されている以上、我々は「深淵に出会いうるのでなければならない」。
 さて、最後に私は「深淵」のある古い系譜について記しておく。周知の通り、『ヨハネの黙示録』にはabyssos(底無しの深淵)という言葉が登場する。これは暗い悪の意味を担っているが、まさにそうであるがゆえに、パトモスのヨハネが属した当時の「世界」状況を裏面として現出させている。ヨハネにとって、底無しの深淵とは、サタンやサタンに属する者らが最終的な刑罰を受けるまでの千年間ものあいだ、幽閉されている場を意味する。黙示録にはこの他にも、aer(アエール:中空)という意味の悪霊たちが住む低空領域の存在が記されている。
 『ヨハネの黙示録』とパトモスのヨハネについて考える上で重要なのは、この書が作品中では少なくとも「島」で極秘裏に記されたことになっている点である。ハイデッガーの『寄与』が「秘教的」と表現されるように、パトモスのヨハネの黙示録もまた、mysterion(秘められた意味)を担うのである。
ハイデッガーは、『ヨハネの黙示録』に対してはいかなる評価を与えていたのであろうか? 残念ながら、彼が直接的にこの黙示に言及しているテクストは見当たらないが、Erschweigung(黙示)について、彼は以下のように記している。「黙示は、哲学が別の原初に基いて根本の問いを問う限りにおいて、哲学の<論理>である」。この文は、「存在」という新たな原初において真理の本質に突入しようと企てる者が持つ論理は、黙示的な言語を前提にすると読み替えることもできるであろう。
 先の「時空概念」の考察で得られた点を加味すれば、「パトモス」という島は、南エーゲ海上に実在しているのでまぎれもなく「世界」に属する、と考えられる。これに対し、『ヨハネの黙示録』の内部で、幾つもの幻視のビジョンを持ったヨハネが流された「パトモス」は、現実と「深淵」の「あわい」である。すなわち、ヨハネの世界認識において、パトモスという土地は二重化しているのである。
 一方では、政治的理由で島流しにあったという現実が示す舞台としてのパトモスである。他方は、その島で見た幻の飛び交うファンタジックで奇怪な舞台としてのパトモスである。島は二重化している。ここに、諏訪氏の研究における空間概念を吸収すると、まさにパトモスという現実の島の上には、「最後の審判」が目前にまで急迫したことを劇的に示す数々の幻視的空間が、覆い被さっているのである。パトモスという島の同心円に、黙示的光景を伴う別のパトモスが二重化している。ハイデッガーの「深淵」概念は、こうした「深淵」の方が、「世界」の時空を出現させるという点にその独創がある。
 
 以上のように、「存在と時間」において未提示のままだと囁かれてきた「時間」概念は、Ereignis(エアアイグニス)とAb-grund(深淵)というテーマ系を、民俗学的な領土へと脱領土化させることによって、その意味の内実を充溢させる。このようにして、「存在」を霊的なものとして把捉し、「深淵」を「他界」(キリスト教的にいえば「天国」や「地獄」といった、現世領域とは異なる時空間)と同定することで、実はエアアイグニスがエクスタシスを導くための哲学的予備概念であったという事実が開示される。『寄与』の秘教的性格は、このようにして開かれたのである。

 
 
 
 

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