† 美学 †

『デカメロン』中の知られざる怖るべき物語と、ボッティチェッリの戦略ーー現代ヨーロッパを代表する美術史家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの代表作『ヴィーナスを開く』について

デカメロン(上) (講談社文芸文庫)デカメロン(上) (講談社文芸文庫)
(1999/05/10)
ジョヴァンニ・ボッカッチョ

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【ジョヴァンニ・ボッカッチョ『デカメロン』――《ナスタージョ・デリ・オネスティの物語》(5日目8話)】

ボッティチェルリの衝撃的な連作《ナスタージョ》は、ボッカチオの『デカメロン』にある物語をテーマにした作品である。
今回、私は『デカメロン』の《ナスタージョ・デリ・オネスティの物語》(5日目8話)を読んだので、ここに考察したことを記録しておく。
この物語は、「文学」における「衝迫力」の核心について関心のある読者にとって、間違いなく第一級の古典的価値を有する。

「ストーリー」

イタリア、ロマーニャ地方ラヴェンナに、ナスタージョ・デリ・オネスティという若者が暮らしていた。
彼はメッセール・パオロ・トラヴェルサーロという裕福な男の美しい娘に恋をする。
しかし、この娘は恵まれた生活のためなのか、冷淡で傲慢な性格だった。
何度か求婚するもののナスタージョははぐらかされ、恋の苦悩は募っていくばかりであった。
ある日、キアッシの森で一人思い悩んでいると、森の奥から女性の悲鳴と、犬の兇暴な鳴き声が響き渡る。
この女性は二匹のマスチフ種の猟犬と、その飼い主であり黒い駿馬に跨った黒装束の騎士に追いかけ回されていた。
ナスタージョは木の枝で臨戦し、女性を助けようとする。
そこで黒装束の騎士が追いかけている理由を語り始める。
この騎士はやはりラヴェンナ出身で、名前をメッセール・グイド・デリ・アナスタジョといって、ナスタージョと同じくかつて失恋に悩んでいた。
アナスタージョはその苦悩で自殺を選び、相手の女は彼の死を知って悦んだという。
このことが神の逆鱗に触れて、二人は「永劫の罰」を受けることになった。
騎士は追いかけ回し、「冷酷な心臓と内蔵を犬に食べさせること」を掟にされ、女は死んだ後、何度も蘇らされ、再び騎士に追いかけられるという呪いである。
女はひたすら「海の方」を目指して恐怖の森を駆け回るが、必ず騎士がある地点で追いつき、彼女を剣で一刀両断する。
彼女が死ぬのは毎週金曜日であり、残り六日はひたすら騎士から逃げ惑うという、まさにダンテの『地獄篇』におけるウゴリーノ伯を越えるほどの苦しみの罰である。
ナスタージョはこの話を知って、ある計画を発案する。
それは騎士が女に追いつく地点にちょうどパーティー会場を設けて、そこに自分の好きな女性も招待するというものだった。
例の如く、親戚たち一同が集まる森の食事会のさ中に、彼ら二人は突然現れる。
そして騎士が理由を話し、女を一刀両断し、その身体の裂け目から内蔵を取り出し、それらを二匹の猟犬に餌として分け与えるという行為を披露する。
これには一同皆が驚愕したが、最も恐怖に震撼したのはナスタージョの求婚を断り続けていた女であった。
彼女は自分もいつかこうなるかもしれないと震え上がり、遂に結婚を承諾し、翌週の日曜日には早々と結婚式を挙げてしまう。
こうして、ナスタージョと女は幸せに暮らしたという……。

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この物語はボッティチェルリの連作を御覧頂ければ、よりその恐ろしさが静かに伝わってくるものなのだが、物語自体も「時空が歪んだ」ような展開を見せている点で注目すべきである。
この作品でナスタージョとアナスタージョがちょうど「現実」と「夢」のような対応関係を見せ、同一人物であるかのように感じられるのは私だけではないだろう。
ボルヘスは『エル・アレフ』所収の「神学者」という重要な短編小説の中で、異端の罪で焼かれた教祖と、彼を火刑に追い込んだ神学者が、実は天界では同一人物であり、二人は「コインの表裏」の如く本源的に一体であるという、極めて不思議で魅力的な物語を描いている。

エル・アレフ (平凡社ライブラリー)エル・アレフ (平凡社ライブラリー)
(2005/09)
ホルヘ・ルイス ボルヘス

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もしこの定式を踏襲すれば、ナスタージョが森で苦悩のあまり自殺し、それを悦んだ女が、「騎士」と「逃げる女」になったという可能的な分岐を考えることができるだろう。
その場合、ナスタージョとアナスタージョは「コインの表と裏」であり、差異化されてはいるが本質はひとつである。
この作品は短編だけあって、具体的な「失恋の苦悩」の描写に不足している感は確かに否めない。
ストーリーラインだけ取り出せば、これは若い男の恋の悩みの物語であるに過ぎない。
ただし、そこには「猟犬に女の内臓を食べさせる」という、明らかにクレメンテ・スジーニの《医師たちのヴィーナス》を髣髴とさせる解剖学的なテーマが現前している。
この逃げる女の顔は、ボッティチェルリが描いた《ヴィーナスの誕生》の女神と同じ顔だということが、更に問題を深くしているのだ。
もしかすると、この女の皮膚の奥には、現在のナスタージョの思い人である女性が「入れ子」のように入っているのかもしれない。
ボッティチェルリの活躍したルネサンスに続くマニエリスムでは、「幻想性」や「呪い」、「歪み」がテーマになっていくとグスタフ・ルネ・ホッケは述べていたが、この連作をその一つの重要な先駆と考えることも可能なのではないだろうか。
私が考えるに、「内臓を犬に与える」という行為を、あくまでもクールに、乾いた、しかし優美でもある独特な筆致で描いた画家は、「激情」を他の何かで代理して表現するという方法論を身につけていたのではないか。
例えば、ある人物が平静な顔で画面に立っているとして、彼の背景に迫り来る大津波が描かれているとすると、これを彼の内面世界の激情として、読解することもできるからだ――その場合、「感情」が他の何か、別の対象によって表象=代理(represant)されているわけであり、人物自身が激怒したり絶望している必要はなくなる。
私はこのような方法論に、ひとつの驚異を見出すのだ。
ボッティテェルリの連作だけでなく、元の小説の『デカメロン』にも、やはり「おぞましい猟奇的行為」を、「平然とあっさり描写してしまう」という、奇妙な「遊戯性」に近い感覚が発現している気がしてならない。
これは、現代文学とのずれというよりは、むしろ「ボルヘスと接続する一人の作家であるボッカチオ」(つまり現代作家としてのボッカチオという新しい視座)の、意図的な衝撃性を企てた「方法論」の一種であったと私は認識するのである。


ヴィーナスを開く―裸体、夢、残酷ヴィーナスを開く―裸体、夢、残酷
(2002/07)
ジョルジュ ディディ=ユベルマン

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 それでは以下に、ボッティチェッリが「ナスタージョの物語」を絵画化した作品について分析したディディ=ユベルマンの論稿を読解してみよう。


【「理想の裸体」要約】


「キリスト教の女神(すなわち聖母のこと)の顔が、その優しげな思いやりと、その内なる生の繊細さを保ったままに、いささかも調和を乱すことなく、衣服を脱いだ身体の上に置かれること――ここに《天上のヴィーナス》の無上の栄光があるのだ」ケネス・クラーク 本書p12



表象における「裸」の形式

・nude(ヌード)…「理想的な芸術の形式」(クラーク)であり、紀元前5世紀頃のギリシアで発明された芸術形式。

・nakedness(裸体)…「感情移入的かつ性的」(ユベルマン)であり、俗物的で露骨。



このように、ユベルマンは芸術表象上の「裸」を大別している。
テーマになっているボッティチェッリの《ヴィーナスの誕生》の注文主はメディチ家である。これはnudeの形式であり、「陰毛も割れ目も描かれていない」。
紀元前1世紀の無名彫刻家によって制作され、現在《メディチ家のヴィーナス》として伝わる女神像は、伝統的な「ウェヌス・プディカ(貞潔のヴィーナス)」の系列に属している。こういったnudeによる裸の形式を、ネオプラトニズムではnuda Veritas(裸の真理)と呼んだ。やがてこうしたヴィーナス像は「節制」、「純潔」の象徴として慣用されていく。そして1400年代のフィレンツェにおいて、キリスト教化して「マリア」へと変容していく(ヴィーナスのマリア化)。


【「残酷な裸体」要約】

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ボッティチェッリの《ナスタージョ・デリ・オネスティの物語》が対象になる。
この部分《地獄の狩り》は、まことに衝撃的であると同時に哄笑を誘う絵である。題材となった原作はボッカッチョ『デカメロン』(5日目8話)。
注文主はジャンノッツォ・プッチとその後妻ピエロ・ビーニであり、この夫婦の娘ルクレツィアの婚礼の贈り物であった(1483年)。
ストーリーを要約すれば、主人公の若者ナスタージョは「高慢で冷淡な」女に恋心を寄せているが、なかなか相思相愛には至らない。恋の苦悩から森を彷徨していると、突然悲鳴が轟き渡る。見れば、森の奥から裸体の娘が死にもの狂いで疾走してきたのだ。彼女は二匹の猟犬と、一人の怖ろしい騎士に追いかけ回されている最中だった。ナスタージョが騎士に訳を聞くと、彼もやはり恋の苦悩を担っていることが判明する。騎士の片想いの対象は、今まさに追いかけられている全裸の娘であった。
興味深いのは、ナスタージョと騎士がまるで同一人物であるかのような対応関係を見せている点である。ナスタージョが冷淡な女に片想いしたばかりに苦悩しているのに対し、この怖ろしい騎士はやはり冷淡な女に想いを寄せて、満たされぬ失意と「呪い」によって彼女の追跡者に変貌する。

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やがて女は騎士に捕獲され、剣で斬られる。倒れた女の皮膚の裂け目から騎士は内臓を取り出し、それらを次から次へと猟犬たちに餌として投げ渡す。絵には内臓を貪っている犬もしっかり描かれている。
しかし、「呪い」によって女はいつの間にか蘇生し、再び騎士も追跡者となって、無限地獄の様相を見せる果てしない逃亡が再開される――このように、ボッカッチョのこの物語は、私がこれまで読んできた文学作品の中でも屈指の残酷さと深淵の如き苦しみを感じさせる異様な衝迫力を持っている。
物語はこれで終りではない。この壮絶な追跡劇を目の当たりにしたナスタージョは、これが自分の魂で繰り広げられている苦悩の「模型」であることに気付いたのだろう。一計を思いつき、件の女性を森のパーティーに招待する。親戚一同が集まる中、予期した通り、ある時刻になると「呪い」によってあの裸体の女と騎士が例の如く出現する。女は必死で逃げ惑い、騎士は悪魔の如き様相でひたすら彼女を追い続ける。全てはあの時のまま、「反復」しているのだ。

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親戚一同は食事会の途中にこの現場を目の当たりにする。騎士は彼ら全員に追跡している理由を告白し、一応の共感は得られる。だが、最もここで恐怖に足が震えていたのは他でもないナスタージョの思い人であった高慢な女性である。彼女もやはりこの「裸体の女と騎士」が、自分たちの現状を悪魔的に変容させた末路であることに気付き、ナスタージョに“恐怖のあまり”結婚を約束する――かくして、この主人公は思い通りの女性と婚姻を遂げることができたのであったという、非常に不穏な後味を残すショッキングな物語である。

一体なぜ、ボッティチェッリはこれほどもグロテスクな物語を画題にしたのであろうか? 依頼主は、これを娘婿の寝室の装飾画にするつもりで注文したというが、これは「幸せな新妻の眠る部屋」を象徴する絵画として妥当なのだろうか? 私はユベルマンの本章を読解していて、まるで自分自身が森の中に迷い込んでしまったような不安を覚えた。というのは、ボッティチェッリの筆致は、グロテスクな物語をあまりにも優雅に、あっさりと描写して肝心の生々しい地獄絵を、どこか「童話の不思議な挿絵」のようにしているからである。画家は本当に、ボッカッチョの本作を「残酷な物語」と考えていたのかどうか、それすら霧に隠されている。

「どのような理由から、宮廷風とはいいながら、何よりも残酷なこの物語が選ばれたのかは、まず到底判りそうもない」p84



当時の読者たちは、これを恋が成就しなかった場合の怨みの強さ、といった文脈で(それこそ現代文学にも平易に見いだせ得るようなテーマではある)理解していたようだが、明らかに本作はハッピーエンドであるわけがない。ナスタージョは結婚相手を見出せたので良かったかもしれないが、それはほとんどショック療法のような乱暴なものだ。それに、騎士と裸体の女の「呪い」が、ナスタージョの婚姻の成就によって解けたとも思えない。
ユベルマンは「あまりにも強烈で…身の毛がよだつ」と正直に感想を洩らしている。本作には私がユベルマンの解釈を読解して粗筋を組み立てた限り、少なくとも二つの重要な概念が存在する。
一つは、ナスタージョと騎士が「鏡」における「実像/虚像」関係を成立させていること。
もう一つは、「逃げる/追いかける」という凄まじい「呪い」が毎日、忠実に「反復」しているということである。いわばこの騎士と裸体の女を流れる時間だけ、通常のアウグスティヌス的な直線的キリスト教的時間から隔離され、ウロボロス構造を垣間見せているかのようだ。物語が持つ時間は、このように内部で糸を“縺れさせている”のである。
ダンテの『神曲』における「自殺者たちの森」に匹敵するような光景とも述べられているが、私には先の「反復」のテーマが奇妙にもボルヘス的時間と親和性を持つように感じられた。それも、悪魔的なボルヘス的時間――悪夢の永劫回帰――なのである。

「出来事の暴力性が異様なものとして出現するためには、まさに潤いのなさときついトーンが不可欠なのであった。そして、これらのイメージのうちで、至高の残酷さなるものが単なる偶発的なものではなく、心的な実質となり得るためには、冷たさが要求されたのである」p94



これは、ボッティチェッリの描写方法についてのユベルマンの記述だ。
「至高の残酷さ」を有するボッカッチョの本作を、画家はあくまでも「潤いのなさ」、「冷たさ」を基調にして描いていると述べている。換言すれば、画家は熱に浮かされたように感情移入して描いているのではなく、あくまでも冷静に、緻密に、騎士が裸の女を血眼になって追跡して仕留めるまでの「激情」を描いているというのである。私はこの画家のスタイルに震撼した。感情の起伏が激しくなるのが自然であるような光景を、あくまでも冷静に描き出す行為は、特にこのような「至高の残酷さ」を持つ挿話の場合、より残酷な印象を深めることはいうまでもない――すなわち、ユベルマンは従来の「優雅で美しいボッティチェッリ」という虚像を破壊し、「冷徹で残酷無比な恐るべきボッティチェッリ」という新しい像を提唱していると考えられる。

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「まるで空間のロンド、または地獄のメリーゴーラウンドのような光景を“ファンタスム的なリズム”と呼んでみたいのである。それはいかにも残酷なリフレインであって、永遠のおぞましき光景が、ループ状に反復される――前景から後景へ、右から左へ、そして再び右へと。これこそ、反復の掟に与えられた形象であり、いわば心的次元における視覚的なものの永劫回帰の形象に他ならない。そしてまた、時間という強迫観念に、すなわち極め付きの再来/幽霊に肉体を与えるための視覚的な手段に他ならない」p98



本書の挿絵パネル5の森の「裂開」は、騎士に皮膚を切り裂かれた「傷口」と、画家の意識の中で観念的に連合しているとも解釈されている。「森」の姿まで、物語の流れに並行して変容しているというわけだ。

「ボッカッチョが物語の舞台として選んだ、ラヴェンナ近隣のキアッシの松林は、実は『神曲』の別の一節でその名も<地上の楽園>と呼ばれている場所なのである」p96



以上、本章でユベルマンの解釈を読んできたことをまとめるに際して、最後に私は《ナスタージョ・デリ・オネスティの物語》を、紛れも無き「原―小説」であると規定しておく。ボッカッチョの「登場人物の原型的な同一性」、「悪夢の永劫回帰」、「皮膚の切開」といったテーマのみならず、ボッティチェッリの「冷たい」描き方も含めて、私はこうした衝撃的な物語を紡ぎ出す一つの「理論」として、本作を我々にとって重要な「起源の文学」の一つとして規定しておきたい。
常識的に考えれば、騎士に殺害された女が再び復活するということはありえない。しかし、物語である以上、時間の歪曲は「虚構性」として容認される。本作はそういう点で、現代文学の最前衛に位置するボルヘスの諸作品に近い衝迫力を備えているといえよう。


【「開かれた裸体」要約】


クレメンテ・スジーニの《医師たちのヴィーナス》(1782)が対象になる。

「いまや<真理>は、その指先を抽象的な高みへと向けるだけでは満足しない。<真理>は、いささか残酷なことに、この蝋でできた《ヴィーナス》の裸体の、性器から発して、鼠経部を経て脇の下へと、その溝をむき出しにしていくのだ。…<真理>は冷徹なる勝利を収めたのである。どれほどヴィーナス的であるにもせよ、身体とはつまるところ、入り組んだ袋、見事に組み合わされた臓器を収める袋でしかないことを、ここに至って裸の<真理>は、我々に納得させたのである」p124



以下は、小澤京子氏も『都市の解剖学』で紹介しておられたフロイトの「イルマの肉」について。

「彼女は口を大きく開けた。右の方に大きな白いぶつぶつが見える。また、鼻甲介みたいな形状の、ぐしゃっとした異様なできものがあって、その上には大きな灰白色の瘡蓋が見えた」フロイト、p128

「ここには怖ろしい発見があります。人がけして眼にすることのない肉の発見が、事物の奥底、顔の裏側、極め付きの分泌物、神秘なる最深部にあって、そこから全てが湧き出してくる肉の発見が、そしてまた、苦しむものとしての肉、形なきものとしての肉、形そのものが苦悶を呼び起こすような肉の発見があるのです。これは苦悶のビジョン、苦悶との同一化に他ならず、“お前はこれだ”という究極の啓示なのです。“お前はこれだ。お前から最も遠くて、不定形極まりないこれに他ならないのだ”というのですから。…ここには、最も見通し難いものにおける、現実的なものの顕現と呼べるだろう事柄を集約するイメージが、苦悶と共に出現しているのです。それは、いかなる媒介をも欠いた現実的なもの、究極の現実的なものの顕現、言い換えれば、最早一つの対象ではなく、それを前にした途端に全ての言葉が停止し、全てのカテゴリーが失効してしまう、要するに究めつきの苦悶に満ちた対象が立ち現れるわけです。…こうして主体が解体し、消滅することが明らかとなります。この夢の中には、主体の持つ、本質的にアセファル(無頭的)な特徴が見定められるのであって、これはひとつの限界を越えた認識といえます」ラカン、p131-132



私は「イルマの肉」に、諏訪哲史の『ロンバルディア遠景』における「女陰の怪物」に近接した神秘主義的で悪魔的なものを感じる。諏訪はあの小説で、「世界の果て」がもし何処かにあるとすれば、それは「僕の背中」ではないかと思案しているが、これは換言すれば「僕の不可視の身体」とも表現できよう。その時、「イルマの肉」のテーマが我々に急迫してくるのである。ラカンは実際、「けして眼に出来ない肉」を、「お前」と呼んでいる。最も「私」から離れた場所とは、もしかすると「私」の身体で眼に出来ない部位(例えば耳の奥とか、自分の食道、或いは鼓動する心臓、眼球の裏側…)ではなかろうか。
ラカンがそれを「無頭的」で、それ故「お前はこれだ」と呼んでいる辺りが、私には極めて宗教的次元における「エクスタシス」に接近したテーマを孕んでいる気がしてならない。哲学の壮大な課題が「汝、自身を知れ」にあると仮定する時、これはその大いなる反響の一つといえるのではないだろうか。すなわち、「私」とは、「私の眼の裏側」であり、「イルマの肉」なのだと。より諏訪の描き出した邪悪な司祭が好むような表現を用いれば、“私とは、私の男根の内部を通っている無数の管を、定期的に駆け巡る存在である”。

ユベルマンの本書は、単なる《ヴィーナス》論ではなく、《ヴィーナス》の表象の変遷を通して露わになり始めた、「近代的合理主義」の萌芽を抽出する試みであると解釈できる。

「金銀細工師ボッティチェッリが、犠牲となった若い女の長い傷口にぐさりと突き刺した想像力のナイフと、解剖学者スジーニが自作《医師たちのヴィーナス》の腹を割くのに用いた想像力のメスとの間には、歴史的な連続性があるということだ」p137



近代の黎明についていかに卓越した視座によって語るか、といったことは最近私が読んでいる本の著者においても共通して見受けられる点である。例えば『ユイスマンスとオカルティズム』の著者大野英士氏は、フランス革命による王党派の死を、この政党の宗教的母胎であったカトリックの死として図式化し、「王の死」=「神の死」というコンテキストで18世紀ヨーロッパのパラダイムを把捉していた。この時代になるとオーギュスト・コントらの実証主義や、いわゆる「理性」中心の科学的合理主義が一般規則となり始める。解剖学の興隆もそうであり、またアメリカで「ハイズヴィル事件」が起きてヨーロッパにその霊性が伝播し、キリスト教以後の「近代スピリチュアリズム」が興隆するのもまた、18世紀の主としてフランスの特色であった。
こうした「近代の始まりの地点をどこに見出すか」という着眼点は論客によってそれぞれ異なるが、ユベルマンは本書で明らかに《ヴィーナス》の変遷を通して「近代の始まり」を位置付けようとしている。スジーニの《医師たちのヴィーナス》をラストの章に配置し、神話的な存在に過ぎなかった女性が実際に内部を解体される(神話を切り開く思考こそ、まさに近代的思考の礎であろう)という展開方法も、「近代」へのプロセスを感じさせるわけである。
本章では、近代的思考の作家としてカントに比して注目されることの多いサドの『イタリア紀行』にスジーニの蝋人形模型への言及があることを紹介している。
ヴィーナスを開く、とは、換言すれば「美を開く」ことに他ならない。それはボッティチェッリやスジーニが表象したように、必然的に「残酷な行為」となり、それ故「供儀」的様相を帯びるのである。「フィレンツェの人文主義は、根本的に不純なものなのだ」というユベルマンの考えには、ブルクハルトもヴァールブルクも一致していた。
元々、ルネサンスが「株式会社」の父祖的形態を形成したといわれるメディチ家をパトロンにして発展したという事実それ自体が、「前―近代」における最初の「近代的運動」として捉えることが可能なのではないだろうか。
近代の始まりをどこに、何において見出すか」という方法論は、我々にとって極めて重要な課題である。


【「不純なる裸体」要約】


アルベルティの『絵画論』によれば、「皮膚」とは「衣服」に過ぎない。Nudeに対して「着衣された身体」が持つ位相を、エコルシェ(人体模型)に対してやはりnudeが持っている。つまり、裸の身体を「着衣」されたものとして規定した場合、先にも述べたが「真の裸形」は「内臓を透過した人体模型」になるのである。
《ヴィーナスの誕生》はnudeの形式であるが、ユベルマンはこれを「衣服」に過ぎないとアルベルティから敷衍して考える。だとすれば、絵画の何処かにヴィーナスの真の「裸性」を表現するものが象徴的に描かれていたとしても不自然ではない。それは一体何なのだろうか?
ヴァールブルクはボッティチェッリの作品について「密やかな誘いかけと、近寄り難い二重性」を持っていると述べている。他方、ロナルド・ライトボーンは《ヴィーナスの誕生》を指して、「ヨーロッパ芸術に無比の晴れやかさ」と表現している。

「だが、《ヴィーナスの誕生》のどこに、それほどに明瞭な晴れやかさが認められるのだろうか。実際のところは、さしたる晴れやかさもないのだ。四人の人物がその表情によって示しているのは、無関心や不快さを別としても、せいぜいが内面性といったところではないのか。空はくすんだ感じである。鱗模様の図形を重ねたかの如き海の表現も奇怪なものであって、見る者を途惑わせずにはおかない。貝殻には全く生彩が欠けているし、岸辺にしても、どうしようもなく空っぽではないか。金色で飾られた木々には動きが無くて、風あるいは微風が吹いているしるしが明らかに見られることと、苦しいコントラストをなしている。…こうした優美さ/ヴィーナス性というコンテクストの中で、むしろ軽快さや晴れやかさといった要素の不在に不意打ちを喰らうのである」p36-37



ヴィーナス誕生時における彼女の「恐怖」が「恥じらい」にdéplacement(転位)されている。「波頭」は「天空神の精液」のメタファーとして解釈される。
この象徴的な「波頭」=「精液」こそが、彼女の真なる裸性を表現したものなのだろうか。それとも、単にこの絵は「皮膚」という「衣服」に留まっているのだろうか。

「天上のヴィーナスとは、その定義からして、切り落された天の男根から生まれたものでもある。彼女は、ひとつの神話的な領域へと入っていく。それは必然的に、構造的な残酷さの領域ということにならざるをえないし、そもそも神話とは、そのようにして作られるものなのである」p47



おそらくこのテクストは、ユベルマンのヴィーナス観の中枢部文である。
ヴィーナスは軍神マルスとの間に娘ハルモニアを設けた。ハルモニアとは「調和」を意味している。だとすれば、必然的に「美」を象徴するヴィーナスは「調和」ではないのだ。娘と母には差異が働いている。「調和」以外の何かとして、「美」は規定されるわけだ。
そもそも何故ヴィーナスはマルスとの間に子を授かったのか? ヴィーナスはマルスという相手に、自分の本質を見出したのではなかったか? すなわち、ヴィーナスという女性原理を男性化したものがマルスだったとすれば、美はやはり「戦争」と深く関わる感覚様態に起源を持つと解釈して然るべきであろう。
一つの証左として、ヴァールブルクが「美」を「不純さ」として規定していた点を忘れないようにしよう。プラトンの『饗宴』では、ヴィーナスは実は「女性とは無縁の神」であるとすら述べられている。
ユベルマンは以上の文脈から、ヴィーナスとは「血と精液と泡が入り混じった不純なる渦巻きから生まれた」女神であると規定している。換言すれば、これはそのまま「美」の定義として作用する。
「構造的な残酷さの領域」に足を踏み込み、そこを進んでいくこと――この「神話」、この全身の皮膚が総毛立つような躍動的な「邪悪なるもの」が、おそらく我々が「起源の小説」を生み出すための発火源である(私はそれを“原-小説“と呼称しておく)。
仮にヴィーナスを優美なものとして、或いは穏和な調和として規定した場合、やはりマルスと運命的に結ばれた理由を説明できなくなる。「調和」を象徴するのは彼女とマルスの娘だったのだから。
この本書の核心について、ユベルマンはピコ・デッラ・ミランドラの以下の極めて衝撃的なテクストを引用する。

世界の起源は混濁している。その肢体は相反する力から作られる。…単純な自然のうちに美はない。…ヴィーナスがマルスを愛したのは、ヴィーナスと呼ばれる<美>も、この矛盾なくしては存在しえないからだ」p51


マルス的なるものとして、ここでピコが述べているのは「ヘラクレイトスの<争い>」、「エンペドクレスの<戦争>」であり、彼は「プラトンによる<同>と<他>の弁証法」を用いている。
私はこのピコに対するユベルマンの解釈を読んでいて、マルティン・ハイデッガーの『芸術作品の根源』に流れていた通奏低音を想起していた。彼によれば、芸術とは「大いなる火」だけでなく、その「突然の消滅」であり、また『ヘルダーリンの詩作の解明』を慣用すれば、端的に「稲妻」である。マルスが<争い>のさ中で発現したであろう「大いなる火」とは、ヴィーナスという類い稀なる女神の心性の属性である。ユベルマンのいう「血と精液と泡が入り混じった不純なる渦巻き」とは、ヴィーナスがマルスに欲した「愛され方」であったろうし、またその逆でもあったろう。すなわち、芸術における「美」とは、物語構成上の卓越性とか、知識の豊穣さとか、そういった技巧上のものではおそらくない。
これは私特有の、本書の心臓部に対する直観であり確信でもあるが、「美」とはヤン・ファーブルが語っていたように、むしろ観る者を「傷付ける」ものなのだ。その傷付け方は、少しずつ切開するというような生易しいものではない。むしろ、裂け目から血が噴出し、割れ目が自らの意志に従って谷間のように「開く」、その雷撃のような「痛み」こそが、真の「」の衝迫である(ヴィーナスは緩やかにやって来るよりも、むしろ急迫する=襲撃する=降臨する)。
ハイデッガーが『芸術作品の根源』で対象にしたヘルダーリンにせよ、ゴッホにせよ、彼らは皆「芸術の神」に皮を剥がれて狂気の淵を彷徨っていた。彼らはまさに谷川渥が『鏡と皮膚』で展開した芸術家=マルシュアスなのであり、まさにこの「皮剥ぎ」という行為こそが、「美」の核心に屹立している重大なテーマであると私は考える。皮膚を剥がすことを、我々は未だ真に成し得ていない。本当に自らの皮膚を剥がすためには、我々はアポロンに「技」を挑戦せねばならないだろう――そして、彼に「敗北」し、哄笑と共に滅ぶべきであろう。

ユベルマンのいう「ヴィーナスをめぐる人文主義的な視座の根底」には、彼女に関する二つの存在論的原理がある。「不純さ」と「男根切断」。
本章の末尾は、芸術論としてハイデッガー以上に重要である。

「ヴィーナス誕生という、美を生み出すカタストロフィーは、こうした一連の<肢体切断>のうちに理解されなければならない。それは、少なくとも天にとっては、マルシュアスの皮剥ぎ――これはソクラテスの“汝自身を知れ”という教えの、残酷にして、優れて人文主義的な変形といえるのだが――と同じように苦痛に満ちている。“何故私を剥ぐのか”(正確には、“何故あなたは私を私自身から引き剥がすのか”)と問いを発しつつ、アポロンに皮を剥がれる恐怖を味わうことなくして、自己認識がないのと同様に、天を去勢することなくして、美はないのだ。だとすれば、ヴィーナスの裸体とは、ヴィーナスを守り、城壁をめぐらそうとしてボッテチェッリが設けた全ての囲いを越えて、自己の根扱ぎと分割として理解されるべきではないだろうか」p52


私はユベルマンのこの美意識それ自体に、「美」を感じる。それは、谷川渥の美意識とも通底しているに相違ない。
穏やかさの中には、おそらく真の「狂乱」が存在する。全て偉大なる芸術は、エコルシュ(人体模型)にまで到達しなければならない。テクストの皮膚を剥ぐ作家=ヴェサリウスにならねばならない。
 私はこのページの最後に、私の高校時代の魂の危機に燦爛たる夕陽を照射した以下のテクストを刻んでおきたい。

「わたしの兄弟よ、わたしの涙を携えて、君の孤独のなかへ行け。わたしは愛する、おのれ自身を越えて創造しようとし、そのために滅びる者を」フリードリッヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』「創造者の道」









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感情移入

スー、読んだよ!

デカメロンのその話、本当にインパクトがあるよね(ーー;)
読んでいるとき、側にいた母に話してみたんだけどね、私、説明、苦手なのに、ちゃんと伝わって。
悪夢みたいな話だねって。

終わらない地獄、続けられる同じ執着、想起して材料にできる話だよね。

この本、教えてくれて、ありがとー♪───O(≧∇≦)O────♪
[2012/03/15 18:01]  ゆふなさき  URL  [ 編集 ]

Re: 感情移入

コメントありがとうヾ(@⌒ー⌒@)ノ
俺も読んでる時スリリングで最近読んだ本の中でもかなり刺激的な美学論考だったよ。
お母さん、びっくりしてたでしょw
こんな夢を自分がみたらと思うと確かに背筋が寒くなるよね!
ボッカッチョは何に題材を取ったのだろうねv-87
[2012/03/17 00:55]  satoshi  URL  [ 編集 ]















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