† 現象学  †

Gottfried Wilhelm Leibniz

20070914203218.gif


ライプニッツ著作集の紹介

一般的にモナド、可能的世界、予定調和などといったコンセプトで重要であるが、それらは全て哲学のセリーであって、この天才的普遍人の業績の一端を示しているに過ぎない。
むしろ、彼の卓越した業績は、数学、自然学、普遍学にあるといえる。
つまり、一巻、二巻、三巻が重要だと思われる。
(面白いのは認識論、宗教論なのだが)

 五十七――同じ都市でも、異なった方角から眺めるとまったく別の都市に見え、眺望としては幾倍にもされたようになるが、それと同じように、単純実体が無限に多くあるので、その数だけの異なった宇宙が存在することになる。ただしそれらは、それぞれのモナドの異なった観点から見た唯一の宇宙のさまざまな眺望に他ならない。(9巻p230) 



ライプニッツによると、モナド=エンテレケイア(アリストテレス用語で完成態のこと)=非物体的自動機械=anima(魂)である。
モナドは神が創造したものであり、単子と訳されるが、原子などという物理学的な意味に還元されない概念である。
あらゆる有機体はモナド(単純実体とも表記されるが)から構成されている。
アダムのモナドとエバのモナドには差異がある。
そして、どのモナドも宇宙を映す鏡であり、モナド間にはネットワークが働いている。
例えば、部屋の片隅に置かれているミッキーマウスの縫い包みという物体を仮定せよ。
これはモナドによって構成されているが、精神を有さない。
精神を有するのは高次の有機体のみである。
しかし、ミッキーマウスのモナドには全可能的宇宙の過去・現在・未来の全ての時系列が内在している。(モナドは外的原理ではなく、内在性原理に基くので)
したがって、ミッキーマウスはモナドロジーの視座に立脚すれば、神の存在証明の素材として可能である。

ライプニッツ思想はバロックの宝箱であり、ボルヘスも彼から多大な影響を受けている。
また、ドゥルーズは現代をネオ・バロキズムであると規定し、ポスト・ライプニッツ主義の可能性に期待を示してもいた。




  「神はユダの罪を予見していたにもかかわらず、ユダが存在するほうが善いと思ったのだから、この悪は宇宙において十二分に償われているはずであり、神はこの悪からもっと大きな善を引き出してきて、結局この罪人の存在が含まれている事物の系列が、他のすべての可能的なやり方の中で最も完全であることになるに違いない」(『形而上学序説』三十章)  


ライプニッツの説に依拠すると、神は知恵によって最善のものを知り、善意によってこれを選び、力によってこれを生み出す(モナドロジー五十五節)。また彼は「自由意志」と神が選択する「最善世界」は共立すると考えている。先に原罪の端緒を作ったのがアダムではなくイヴであったのは、神の「予定調和」に基く。予定調和説とは、「大きな善のためには不幸な人たちも存在する」ことを認可するライプニッツの楽観論である。アダムが善悪の木の実をイブに誘われて食べる、という出来事は、偶然ではない。それは神が選択したこの最善世界のために必要なプログラムである。

さて、これから私が考えるのは、「アウシュヴィッツ/ヒロシマ・ナガサキ」は、果たして神の予定調和プログラムの内に設定されていたのか否か、といった問題である。これはやや具体的であるので、より一般化して、「しかしなお何故悪がそれでも生起するのか?」といった主題へと止揚すべきであろう。

まず、正統的なキリスト教神学カトリックの見地に立てば、神は全知全能であり、最高善であり、あらゆるところ・ものに遍在している。
神の属性に「悪」は存在しない。
神は「善そのもの/最高善」である。
他方、ひとは神に「自由意志」を与えられている。
「自由意志」は精神が理性的に向上することで神に接近する、とライプニッツは述べている。(彼は「神の国」は地上に実現可能である、とすら述べているが)

最も重要なのは、「人間の自由意志」による決定と、「神による予定調和」による決定が、共立して、その結果、「最善世界」として、この世界が現前しているという思考のフレームである。

 事物の系列は、常に最も完全なことを行おうとする神の最初の自由な決定と、人間の本性について(最初の決定について)神のなした決定、すなわち人間は常に最善と思われることを(自由にではあるが)すべきであるという決定に基いている。(『形而上学序説』十三章) 



ニュートンに拠ると、世界は時計仕掛けであって、神の役柄とは、最初にゼンマイを巻くことのみに留まる。
すなわち、世界の創造のみが神の仕事であって、あとは全て人間の自由意志に委託されているという見解である。
ニュートンとほぼ同時代のライプニッツは彼に反論して、神は単なる時計職人ではなく、常に世界の出来事に、「その都度」手を差し伸べる支配者であると強調する。(『ライプニッツとクラークの往復書簡』参照)

端的に述べよう。
アウシュヴィッツ/ヒロシマ・ナガサキで起きたこと、それに留まらずおよそ悪から発生する全ての出来事は、神が望まれたことではない。
これは別にライプニッツの知恵を借りなくとも、倫理的に思考できる小学生なら理解できることであろうし、そう考えるであろう。
神に悪の原因がないとすれば、残るのは人間の自由意志のみである。
事実、全ての悪(それが「悪」か「善」かという二元論的価値判断でさえも)は人間によって生み出される。
悪の創造者は、地上において常に人間である。

問題は、何故神が人間の愚かな自由意志から発生した多様な悪を認可して、それを世界に現前させてしまうのか?である。
事実、アウシュヴィッツで、何故一方的にあれほどのユダヤ人が虐殺されたのか?
何故、神は彼らを助け出すために、その偉大なる御業で一撃のもとにナチスを殲滅しなかったのか?
これは、神父様が使う言葉を用いれば、「神の沈黙」とも認識できる。

注意すべきなのは、神が常に「最善世界」を創造し続けるために、多少の犠牲が発生することを認可するというライプニッツの説である。
神は悪を望まれない。
しかし、もしもより大なる善が創造されるために、より小さな悪が生起するだけで済むのであれば、神は予定調和に基いて、より小さな悪を世界に到来させるのである。
これは、脅威的な説である。
事実、これはあまりにも「野蛮な楽観論」といわざるを得ない。
その「より小さな悪」が、アウシュヴィッツやヒロシマとして世界に到来することを、ライプニッツは当然知り得なかったわけである。
現代の欧米社会は、よく「アウシュヴィッツ以後」、「9・11以後」などという表現を用いる。
しかし、これはフランス革命期には「革命以後」であったり、ファルサロスの戦い以後は「ファルサロス以後」というように、百年、二百年単位で呼称を変転させていったはずである。
世界規模にも拡散する危機という点でアウシュヴィッツ、ニューヨーク同時多発テロは、確かにそういった表現を許すだろう。
だが、ライプニッツの時代以前にも、大量殺戮は繰り返されてきたはずである。
したがって、私はここにおいて思うのであるが、ライプニッツの予定調和説に、第二次世界大戦の受難を、特別な地位として付与することは不可能である。
ユダヤ人に対する迫害、ポグロムは何も、アウシュヴィッツが発端ということではなかった。
問題は、やはり「悪が何故生起するか?」という問題へと収斂してゆく。

そして、ライプニッツは、最善世界の到来のためには、少なくとも、それが最善世界のために必要であるならば、悪を不可避的に選択することもあり得ると考えるのだ。
したがって、アウシュヴィッツ/ヒロシマ・ナガサキで起きた特定の受難も、全て未来の「最善世界」の現前のためには必要不可欠だった巨大なプログラムであったと解釈される。
だが、果たしてこんな道理があるであろうか?
これこそが、まさにライプニッツが「楽観論に過ぎる」と批難される由縁なのである。


ここで今、一つの神学的小実験を開始する。
Aという男がBという男を憎み、彼を殺す日が今夜であると仮定せよ。
Aが彼を憎むこと自体は悪ではない。
人間は不完全に創造されているので、自分を嘲弄してくるような相手に対して怒りや憎しみを抱くのは当然である。
人間は神のように全ての人間を愛せるわけではない。
隣人愛とはいえ、近しい隣人と、あまりにも遠い隣人が存在することは否めない。
しかし、問題はAが殺人を犯すことである。
律法に拠れば、殺人は大罪である。
それはモーセの十戒にも明記されている。
これに背く者は「悪」に生を没することになる。
つまり、AがBを憎み、彼を赦すか、殺すかは、Aの「自由意志」に委ねられているわけである。
今、BがAに殺害されてしまったとせよ。
この時、神はAがBを殺害することを、無論予知している。(神の属性である「全知」を想起せよ)
しかし、神がAの悪を「阻止」することはない。
ただ、神はAが罪を犯したことを、死後に罰するのである。
この時、果たして神は「AがBを今夜殺害する」という行為を、「最善世界」のために必要とした、といえるか否か?
例えば、Bが明日、多くの労働者を解雇し、それによって自殺者が前年よりも倍増するというのであれば、死ぬことになっていた多くの労働者の家族、親族、友人たちを救うために、神が「最善の選択として」Aにナイフを握らせたことは想定可能である。
しかし、仮にAとBが今の例において、正反対の立場であればどうか?
つまり、Bは善に生きるまっとうな人間であり、Aが労働者を不当に搾取する悪に無自覚な男であれば。
この場合、神が「最善世界」を、何のために、或いは、いつ、どこで、顕現させ、誰が「Bの死」によって恩恵に与るのか、といったことが霧に包まれてしまう。
それは全く、未知数である。
しかし、事実、悪漢であるAが善良な男Bを殺害したとせよ。
それは、反芻するが、Aの「自由意志」が悪に染まっていたからとしか他に表現の仕様が無い。
そして、神はこれを予知されておられる。
Aが生まれる前から、Aの母親がまだ小学生の頃から、否、遥かそれよりも以前から、やがて生まれる子孫の一人が、Bという男を殺害するであろう、ということを神は既に知っているのである。
そして、神にとってそれはあくまで「予定調和」に組み込まれており、「最善世界」のための必要事項である。
つまり、Bの死は、未来のより大なる最善の世界のために必要な、一つの受難と規定されてしまうわけである。
これが楽観論と呼ばれずして他に何といわれるであろう?
ライプニッツの親族に、悲劇的な犠牲者が存在したならば、彼はおそらく、この説により深刻な重みを孕ませたはずであろう。




20071117205941.gif


この世界は最善世界である。
神がこの世界を最善のものとして常に更新的に創造し、人間の自由意志はこれと共存可能である。
しかし、最善世界Aの周辺には、Aと「共可能的(compossibilia)」な世界が無限に存在している。
Aにおいて虚構的な存在でも、可能的世界Bにおいては実在する。

ライプニッツは『弁神論』という神学書を書いた。
その要点を、『事物の根本的起源について』として纏めた。
後者の冒頭で、彼はいわゆる「神の存在証明」を遂行している。

例えば、ある本aの写本を書くとせよ。
写本は劣化し、次の時代のために新しい写本を書くことになる。
「原型a」→「写本´」「写本´´」「写本´´´」・・・と無限に連鎖する。
ある写本が何故存在するのか?その答えは端的に「原型a」が存在するからである。
事物・事象の因果論的な起源に遡行していくと、唯一の完全なる原因に辿り着く。
これが神である。

また、『形而上学序説』第八章では、「主語の本性の内に全ての述語が含まれている」ことが明かされる。
主語的存在=個体的実体である。
例えば、「ニーチェ」という主語の内には、「神の死を宣告する」「トリノで狂酔する」などといった彼に起きる全事象的述語が全て内包されている。
「神」という主語には、「世界を創造する」「似姿としてアダムを創造する」といった述語が潜在的に含まれる。
例えば、「ニーチェ」の主語に「教会を建造して、神父として生きる」といった述語は含まれていないが、そういう可能的ニーチェをも、神は共可能的世界においては実在させている。
世界は多である。
しかし神が選択するのはこの世界、すなわち最善世界である。
一である。

20071117212321.gif


(絵はALBERTO MORAGOに拠る)

関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(-) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

Back      Next