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芸術と信仰の狭間で――A.タルコフスキーの原点『アンドレイ・ルブリョフ』について (1)

アンドレイ・ルブリョフ [DVD]アンドレイ・ルブリョフ [DVD]
(2005/12/22)
アナトリー・ソロニーツィン、イワン・ラピコフ 他

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A.タルコフスキーの最も重要な出発点として未だに語り継がれている『アンドレイ・ルブリョフ』(1967)を観た。本作はカンヌ国際映画祭で批評家連盟賞を受賞している。
優れた映画作品は総じて「人生の縮図」を象徴化して描いているものだが、本作はどこまでも聖書的なエピソードを髣髴とさせる構成になっている。主人公のアンドレイ・ルブリョフ(1360頃~1430)という男の名前は日本ではあまり知られていないし、カトリックの私でも教会でその名前をほとんど耳にしたことがないが、ギリシア正教においては「聖人」として崇敬されている15世紀ロシアのイコン画家である。
彼の残したイコンとして記憶しておくべきなのが、その《至聖三者》と呼ばれる作品だ。これはカトリックでも高く評価されている作品だが、「三位一体」を図像化したものである。三位一体とはいうまでもく、「父」‐「子」‐「聖霊」を一体とみなすキリスト教神学の核心に位置する概念であり、「復活」と並んでカトリック教会の信徒間でも広く浸透している。我々の日常生活は聖霊で満たされており、この聖霊は御子キリストの御受難によって到来し、御子は「全能の父なる神」と分離しているわけではなく、これら三つは全て一体であるという普遍不滅の定理である。換言すれば、これは神の三つの様態、モードが「子」と「聖霊」という位格を取るということであり、本来この概念は言語化不可能であるのみならず、人間が「認識」することができない類のものである――宗教一般の心臓部分にはこのような「超越」が必ず存在している。
したがって、本源的に聖三位一体を図像化することは不可能である。無論、ルブリョフもタルコフスキーもそのことは熟知している。ただし、12世紀のヨーロッパで見られた文学の方法論、例えば『薔薇物語』で人間の精神が擬人化されているように(聖愛と俗愛など)、広く観念、精神、感情といったものは図像化することが可能である。それは聖三位一体の場合も同じであり、ルブリョフは「父」、「子」、「聖霊」のそれぞれを「天使」として見事に描出することに成功している。そして、ルブリョフの活動は以後ルブリョフ派を形成することになり、今日でも「聖三位一体」を考える上での貴重な資料を提供する。
タルコフスキーは何故ルブリョフに注目したのだろうか? 本作は彼の精緻に織り成された宗教的、かつ芸術的な「伝記映画」である。カトリック信仰に近い監督の精神からすれば、ロシアに縁のその他の聖人たちを取り上げても良かったはずである。何故、ルブリョフなのか? それは私が考えるに、彼が「画家」だったからである。彼はキリスト者である以前に、まず「芸術家」なのであり、その点がタルコフスキーという映像の「芸術家」と親和する点だったと思われる。よって当然、タルコフスキーはルブリョフを通して、「芸術家」一般の作品制作に伴う壮絶な苦悩を表出しているはずであり、それは監督自身の産みの苦しみとも通じるものであろう。
舞台は終末的雰囲気が漂う閉塞感に支配された寒村が中心である。ルブリョフは仲間のキリール(イワン・ラピコフ)らと旅をしている。「1406年/アンドレイの苦悩」という章では、ルブリョフによってイメージが投影されたイエスの「磔刑」が描写されている。これは史実的ではないし、主人公の意識の内部世界を再現したものだろう。
「1408年/祭日」の章では、ルブリョフがある夜、森の中でサバト的な祭りを目撃する描写が挿入されている。これは後に物語上重要なタタール民族の祭りではなく、捕縛されたルブリョフを解いた全裸の女性がロシア系であったことから、ロシアの農村部に残っている民間信仰を信じている人々の祭儀ではないだろうか。
ルブリョフにはフェオファン・グレク(1430-1410)という、実在するギリシア出身のフレスコ画職人がいる。この画家も多くのイコンを残しており、タルコフスキーの本作でも混沌とした暗い世界を「描く」ことで何とか乗り越えようとする一人の敬虔な芸術家として描かれている。フェオファンとルブリョフに共通している画題、それは《最後の審判》を描くことである。フェオファンはこれまでの審判画の様式をしっかり踏襲して描くべきであると主張する、いうなれば「伝統主義者」だ。他方、ルブリョフは従来どおりの審判画では、現状の悲惨を克明に描くことはできないと考える点で、革新主義的である。二人は芸術上の方法論でこのような対立関係を見せている。
旅仲間だったキリールは、フェオファンがルブリョフを認めたことに嫉妬する男だ。この三者関係は、現在でも芸術家志望の人間が三人集まれば平易に何処でも見出し得る構図であろう。こうした人間模様が前半では静謐に、暗澹たる思索的雰囲気を持った映像で紡がれていく。
第二部「試練そして復活」では、ロシアの地を常に脅威に曝す異民族タタールの侵攻が描かれている。タルコフスキーの後の『ストーカー』や『ノスタルジア』、『サクリファイス』の中でもこれ程残忍で破壊的な描写は存在しない。タルコフスキーがここで描き出しているのは、タタール民族によって代理的に象徴化された「悪魔」の姿であり、これはまさに地上に現前した「地獄」そのものである。村は壊滅的に破壊され、女は犯され、男は拷問にかけられる。信じ難い「救いの無さ」、「神の沈黙」である。
結果的に、アトリエでもあり僧房でもあった住居は廃墟と化すが、第一部で何処からともなく迷い込んだ白痴の少女とルブリョフ、そしてフェオファンだけが生き残る。廃墟の中で静かに語り合う描写は、後の『ストーカー』や『ノスタルジア』にも接続する、タルコフスキー的で神聖な場面である。ルブリョフは白痴の少女を救うために、あるロシア人を殺してしまった罪悪感に苛まれている。それは彼から「絵筆」の道を折る決意を促すほどに大きくなっている。そんな苦悩しているルブリョフに、フェオファンは以下のよう憐れみ深く諭している。

「悪は人間の形でこの世に現れる。だから悪を倒すための人殺しもあるさ。神は赦して下さるだろう。だが己を赦すな。罰しながら生きるのだ。すべきことは、聖書にあるとおりだ。“善をなすことを憶えよ。真実を探せ。悩む者を救え。孤児にやさしくせよ。そうすればお前の罪は軽くなるであろう。罪に汚れたその身も、雪のように潔白となろう”と書いてある」


これに励ましを与えられつつも、ルブリョフは「赦しを乞うために無言の行に入る」と、敬虔なキリスト者らしい信仰心を蘇生させて語っている。そして彼は最後に、「ああ、ロシアよ。ロシアは全てに耐える。耐えられるんだ。こんな時代が一体いつまで続くんだ?」と悲嘆を洩らしている。
直後に廃墟の「内部」にも関わらず、何処からともなく「雪」が降り始める。「教会の中に雪が降る。こんな怖ろしいことがあるか?」――しかしその描写は実に哀切に溢れた、神秘的なものである。タルコフスキーが救済の場として「廃墟」を常に見出す原理がここにも働いているだけでなく、それは不思議にも優しげな「雪」によって美しく描かれている。雪の降る場面は、白痴の少女の眠る姿と共に「無垢」を反映している。これはフェオファンの先の印象的な言葉「雪のように潔白となる罪」を、神御自身が受け容れた象徴的描写として、実に感動的である。少女の眠りと雪は、ルブリョフの魂の「無垢」の象徴なのであって、この場面を最後に、ルブリョフは映画のラストまで「語らぬ人」となる。
本作には随所に聖書の引用をタルコフスキーが解釈したともみなせる印象深い貴重な台詞が挿入されている。例えば、キリールのアトリエで語られる「声」は、以下のように我々に告げている。

「若者よ、青春を楽しめ。お前の心に快楽を知らしめよ。心のままに振舞うがいい。だが若き日の行動も全て神の裁きを受けるのだ。やがて苦しい試練の日が来よう。若さの満ち溢れている間にも創造主と親しんでおくことだ。銀の鎖が外れて金の飾りが落ちる前に心することだ。お前の体が塵と化し、魂が天に召される前に、神の存在を肝に銘ずることだ。古人のいうように全ては空しい」


また、ルブリョフがアトリエを歩いている夢のような描写の最中には、ヨハネによる福音の愛論の核心が、彼自身の内的な意志として語られている。

「もし天使の言葉で語っても、愛が欠けていたら音でしかない。もしも無言の力を持ち強い信仰を持っていても、愛が欠けていたら無意味だ。全ての財産を捨て肉体を犠牲にしても、愛が欠けていたらその行為には何の意味も無い。愛は情け深く寛容である。高慢、放埓の情を抑える。愛は怒りを鎮め、悪意を消す。愛は真実を喜ぶ。愛は全てを赦し、全てを信じる。そして全てに耐える。愛は無限だ。預言には終りがあり、異言もいつかは沈黙する。知識も色褪せる」


ここの描写では「大公」が登場し、空間内部では廃墟と同じく「雪」が降っている。また「天使」のように無垢に笑う少女がいて、ルブリョフと戯れる。これは唯一、本作で救済的な「天国」を感じさせる場面である。地獄だけではなく、ルブリョフの意識の中には確かに天国も存在しているのであることを知らしめる、実に神秘的で奥の深い描写である。


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