† 美学 †

西洋美学史 (2) アリストテレス

西洋美学史西洋美学史
(2009/05/27)
小田部 胤久

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○ アリストテレス『詩学』

アリストテレスは、プラトンに対する最初の体系的批判者である。彼の『詩学』には、ソフォクレスと共に「悲劇」は終焉に達したと規定されている。しかし、プラトンが詩作にテクネーを認めなかったことには異議を申し立てている。

「政治の技術の正しさと詩作の技術の正しさは同一ではないし、また、他の技術の正しさと詩作の技術の正しさも同一ではない。……また、個々の技術に即した誤り、例えば医術とかその他の様々な諸技術に即しての誤りは、詩作の技術それ自体の誤りではない」アリストテレス『詩学』、p15


詩作にはそれ固有のテクネーが存在し、他分野のテクネーと単純比較することはできないとアリストテレスは強調する。弁論術も同じであり、それぞれ固有の卓越化した技能が存在するのである。
また、アリストテレスは個別具体的な出来事を、「規範」のレベルまで理想化することが芸術の使命であると規定する。歴史の積み重ねは煩瑣なことで満ち溢れているが、芸術(特に詩作)は、それらを普遍的な次元にまで発展させる。日常に潜む些細な出来事を描くのではなく、そこに全ての人間に共通する普遍的な真理を見出し、描き出すことこそが芸術家の使命となる。

「もしも真実が描かれていない、と非難されるならば、“しかし恐らくはあるべきことが描かれている”と答えることができるであろう。例えばソフォクレスは、“自分は人間のあるべき姿を詩作したが、エウリピデスは人間をあるがままに描いたに過ぎない”と述べたが、そのように応じるべきである。…ゼウクシスの描いた人物は実際には存在し得ないにしても、より優れている。paradeigma(規範)は現実を凌駕しなくてはならないのであるから」アリストテレス『詩学』、p20


アリストテレスは更に、「不可能であっても真実らしい事柄」の方が、「可能であっても信じ難い事柄」よりも普遍的であると述べている。換言すれば、たとえ虚構的な要素を介在させたとしても、より「真理」に急迫させる作品の方を、単に現実感に溢れた作品よりも高く評価しているのである。
以下の『詩学』のテクストは、芸術を創造する側の立場に位置する人間にとって極めて重要な意義を有する。

「悲劇の行う模倣とは、単に完結した行為の模倣であるばかりか、恐れと憐れみを引き起こす出来事の模倣でもあるが、このことが最もよく生じるのは、そうした行為が人々の思いなしに反して(思い掛けない仕方で)、しかも相互に緊密に関連しつつ生じる場合である。実際、このような仕方で出来事が生じるならば、ひとりでに生じたり、或いは偶然にそうなったりする場合よりも、はるかに人々を驚かせる」アリストテレス『詩学』、p19


ここで彼は、「恐れと憐れみを引き起こす」ことを悲劇の本質として規定した上で、そういった展開が読者の予想を裏切る形式で、ストーリーラインとの緊密な連携を保ちつつ描かれた場合に与える「驚き」を重視している。これは18世紀ドイツ美学の主たるテーマであった美的範疇論的にいえば、芸術には「崇高」と「悲壮」が基調として重要であるが、その偉大さをいっそう際立たせるためには、「思い掛けない展開」が、すなわち何らかの物語上における「驚愕」が必要な点で、「滑稽」の最高形式たる「フーモア」と不可分離的であることを暗示している。読者の予想を裏切るような衝撃的な展開は、美学的には「滑稽」の創出プロセスである、「互いに異なるものを意外な点から相互連結させる」ことと相関しているのであるから、ここでアリストテレスは「悲劇」の特徴を次の三位一体に見出しているといって良いだろう。すなわち、「悲壮」、「崇高」、「フーモア」である。
詩を含む文学全てにいえることであるが、「筋の組み立て」も重要であると考えられている。その上でやはり考えなければならないのが、「規範」へと卑小な現実を理想化する作業である。これはマニエリスム理論を用意したフェデリコ・ツッカリの概念を借用していえば、芸術家の精神の「内的像」には、「イデア」が刻印されているのであるから、現実をそのまま写実的に描くのではなくて、むしろ理想化して描かねばならないということであろう。こうした「paradeigma(規範)は現実を凌駕しなくてはならない」というアリストテレス的な考え方は、18世紀半ばにバウムガルデンの「美的真理論」において定式化され、芸術でも「真理」は開示可能だと規定されるに至る。
そもそもアレテイア(真理)の元来の意味は、「隠れなさ」に他ならない。「隠れている状態」であったものが、「外に出て開かれている状態になること」が、ギリシア哲学における真理概念の本来の意味である。ハイデッガーは『芸術作品の根源』の中で、ギリシア時代の真理概念に回帰し、Unverborgenheit(隠れなさ)を開き、「明るみ」へと齎す行為こそが、「芸術」であると規定し、いわば「真理を開く行為」を「芸術制作」と等式で結んでいる。ハイデガーの弟子であったガーダマーの「模倣」論においては、「ホメロスの描くアキレウスはその原像以上のものである」と、単なる現実の実際物よりも「イデア化」の作用を受けた芸術作品の方にこそ普遍的価値を見出している。
アドルノによれば、「芸術」は現代に残された最後の「魔術」である。彼はその『美学理論』の中で、以下のように述べている。

「芸術を駆り立てているのは次の事態、すなわち、魔術的段階の残滓としての芸術の魔力は、die Entzauberung der Welt(世界の脱魔術化)のゆえに、直接的、感性的に現前するものとしては否定されていながらも、かの魔力という契機はけして根絶されることがない、という事態である。この契機においてこそ、芸術の持る模倣的なものは保持されうる。そして、この契機は自己の存在を通して自己にとって絶対的なものとなった合理性を批判するが、この批判のゆえにこの契機はその真理を有する」アドルノ『美学理論』、p26

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