† 映画 †

A.タルコフスキーの『鏡』における、「贖罪」と「聖母」のテーマ

鏡【デジタル完全復元版】 [DVD]鏡【デジタル完全復元版】 [DVD]
(2004/07/25)
マルガリータ・テレホワ

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久し振りにA.タルコフスキーの自伝的かつイマジナリーな映像詩『鏡』を観たので、ここに私なりに感じたことを記録しておく。私はタルコフスキーが好きで、『ストーカー』、『ノスタルジア』、『サクリファイス』、『アンドレイ・ルブリョフ』……などを観てきたのだが、この作品はその中でも特に難解さで知られている作品である。
ストーリーが一見、よく判らない構造になっているのは、おそらく物語りに幾つかのコードが用意され、それが交互に展開されているためであって、コードを一度バラして組み立てなおせばそれぞれが独立している映像詩になっていることが判明する。

(1) 少年時代の現実で起きた当時の村の回想

(2) 現在の「アレクセイ(わたし)」が見ている夢のエピソード

(3) 主人公の母親が体験した印刷工場や、付近の村の女性との会話(少年時代の主人公も同伴)


主としてこれら三つが混在して展開しているため、一見非常に判り難い。
次に、メインとなる場面は以下のように分割できる。

(1) 疎開先の村での母の様子/森に囲まれた家/隣家で火事

(2) 現在のアレクセイの夢に登場する母親が髪の洗う光景、祖母か現在の母親が「鏡」を見つめている/現在の母との電話

(3) 少年時代の母親の印刷工場でのやり切れない出来事

(4) スペインから来た友人との会話/ソ連の体験した戦争の惨禍/気球による空中飛行の映像

(5) 少年時代にレオナルド・ダ・ヴィンチの画集を捲った記憶(ただし、この少年は兄弟のイグナート)/タタール人の侵入の歴史(『アンドレイ・ルブリョフ』で前景化)やロシアのキリスト教信仰についての歴史を朗読する少年/別離状態の父からの電話

(6) 兵役学校での少年時代/20世紀の戦争の惨禍の映像記録、原子爆弾の炸裂、毛沢東の肖像の挿入

(7) レオナルドの画集を妹から「盗んだ」といわれる少年(彼はアリョーシカ)/母マリアと夫との罵り合いに近い夫婦の会話(やり切れない閉塞感と、聖なるものへの明らかな憧憬、期待)

(8) 再び夢の中での森に囲まれた家/立ち寄った隣家で「鏡」を見つめる少年/隣家の夫人から鶏の首を斬る仕事を半強制的に依頼されてしまう母親/妹らしき少女が空中で浮かびながら眠っている夢

(9) 「焦げた臭いがする」と祖母に伝える少年/ヨハネ受難曲が流れながら周辺の森、小川の光景/現在の「わたし」が少年時代の何らかの罪を医師に伝えたかのような暗示/少年時代の村の美しい草原で終幕。

こうしたプロットは私の作った便宜上のものなので不完全であるが、私が推測するに、現在の「わたし」にとって少年時代の「火事」は強烈な印象を残している。何故なら、そこに火を放ったのは「わたし」だからだ。そこというのは、母親に屠殺を頼んだ隣家の女性ではないだろうか――もし違う場合、最後に「贖罪」を象徴するヨハネ受難曲が不自然に流れるのは違和感がある。明らかに少年も何らかの「贖罪」(罪を贖う)を感じているわけで(この場合はむしろ“罪悪感”ともいえるが)、だからこそヨハネが選ばれたのではないだろうか。だとすれば、これはタルコフスキーの「罪の告白」という点で、極めて重大な意義を持った作品だったということになる。タルコフスキーがロシア正教ではなくむしろカトリックに近い信仰の持ち主であることは周知の通りだが、その来歴には少年時代に犯した罪があるのではないだろうか……。
妹の空中飛翔は、少年時代に観た「気球」から再構成されたものだろう。『アンドレイ・ルブリョフ』でも中世にも関わらず、空中飛翔の場面が冒頭に挿入されているので関連性があるだろう。
両親の喧嘩の一幕にある「私にも御告げが欲しいわ」というやり切れない切なさは、「聖なるもの」と「地上的なもの」との計り知れぬ距離感を示唆する。また、「鏡」と少年の構図は、タルコフスキーが戦争の時代で「自己定立」した困難さを悲劇的に象徴化するためのものだろう。朗読される詩の一節「子供らよ、走れ、悲劇に眼を向けるな」に対し、監督は明らかに「悲劇」に目を向けているのだ。「鏡」を観るとは、虚像を見る行為ではなく、タルコフスキーの場合、そこにありのまま映り込んだものを見出すという契機を孕んでいる。「鏡を観る」ことは、彼が自分の同時代を直視する(空襲、疎開、革命、原爆)ということである。他方、「鏡」にはもう一つ二重化された意味がある。それが「夢」や「ファンタジア」へと接続するコードで、作中では「天井の崩壊」、「空中飛翔」などへと関連する――「鏡」は芸術の起源の一つとして名高い媒体であり、ストイキツァの芸術論などと兼ね合わせて論じれば、それこそ分厚い一冊の本になるだろう。
ルブリョフの時代でのタタール侵攻は「世界の滅亡」という象徴的出来事であったが、『鏡』では20世紀の戦争がその位置を占めている。やはり日本人にとって、原爆の炸裂はミケランジェロの素描にもあるように、「世界の滅亡」の縮図として受容されるのではないだろうか。
もう一つ大切なのは、「言葉では気持ちは正確に伝えられない」という監督のある種の信念だ。だから彼は映像を選択したのだろう。
本作はタルコフスキーが自分の過去を断片化し、詩と並行的に再構成した作品であると同時に、おそらく「母親への愛情」に捧げられた作品である。父と暮らすか母と暮らすか質問され、父に「嫌だ」といった少年時代の彼は、やはり母性愛的な聖母信仰の根差すカトリック的精神の持ち主であったのではないだろうか。
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