† 美学 †

ミシェル・フーコー『言葉と物』における、「マテシス/タクシノミア」について

言葉と物―人文科学の考古学言葉と物―人文科学の考古学
(1974/06/07)
ミシェル・フーコー

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フーコーの『言葉と物』における名高い「マテシス(mathesis)/タクシノミア(taxinomia)」についての章(これは17世紀のバロック論でもある)を、フーコーの思考回路そのものの運動に注目しつつ読解してみよう。
フーコーはまず、三つの「海辺」を用意する。

(a) 第一の海辺――マテシス

マテシスとは、「代数学を普遍的方法とする」、「人為的な記号の体系」である。
換言すればライプニッツ的な普遍学構想における命題論である。マテシスの支配は18世紀末まで続く。

(b) 第二の海辺――タクシノミア

タクシノミアとは、「複雑な自然の秩序付け」、「分節化と分類階級」の際に必要とされる学であり、「同一性/差異性」のコードに基づいて事物を分類する原理である。事物を特に「差異性」の観点から見ると、必然的に「タブロー(表)」が生成する。一切の事物はタブローの形に配分されていく。
一言でいえば、タクシノミアとは「百科全書」である。これは世界の全ての事物を「カテゴリー(分類=差異化+階級化)」しているし、種別ごとに「クラス分け」している。同時に、各項目には関連項目としてキータームの「列挙」が表示されている(現代的にいえばWikipediaのシステム=タクシノミア)。「<列挙>により、正確な判断に達する」(デカルト『精神指導の規則』)。これら全てはフーコーのいうタクシノミアの条件を満たす。

(c) 第三の海辺――発生論

発生論は、事物の「系列」を対象にする。「経験的なものの列から出発して、いかに秩序が発生するか」を扱う原理である。発生論の成立過程には、必然的に事物を「類似」によって判別する視点が伴う。また、発生論はマテシスとは遠く隔たっており、17世紀のエピステーメーの「両端」に位置する。

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実はこれら三つの海辺が、フーコーのいう「古典主義時代のヨーロッパのエピステーメー」の制度である。ちなみに、これらの海辺それ自体が実は階層化しており、マテシスはタクシノミアを含有し、タクシノミアは発生論を含有する。17世紀の古典主義時代における主特徴として重要なのはむしろタクシノミアである。何故なら、

「タクシノミアはタブロー(表)を設定する」

既に述べたように、タクシノミアはウィキペディア的原理であるので、この世の一切を分類し、階級化する。こうした知の制度から17世紀~18世紀に「言語学」、「博物学」、「経済学」が発生したとフーコーは考える。近代的思考の通奏低音の主旋律は、(1)分類すること(2)階級化すること――すなわち事物を「類似性」によって円環的に接続させていくのではなく、あくまでも「差異性」によって百科全書化していく操作なのである。
古典主義時代のエピステーメーとは、これら三つの海辺の中で、特にタクシノミアが先鋭化する時代であった。


「中世~16世紀の知のエピステーメー/『ドン・キホーテ』に象徴される」

「相似」、「類似」の概念が中心を占める。「同一性の至高性」の時代。16世紀においてはまだ「認識のカテゴライズ」という視座が無かった。「類似」する記号たち、記号同士の相同性に注目する思考回路が人々を支配していた時代である。
『ドン・キホーテ』はその好例であり、彼は「相似・類似」を果てしなく弄び、やがて「類比」に「疎外」される。この作品は、「ルネサンス世界の陰画を描いている」(フーコー)のであり、同時に「近代の最初の作品」と評される。
「狂人は全てのしるしを集め、増殖し続ける<類似>で満たす」(フーコー)。


「古典主義時代(17世紀以降)の知のエピステーメー」

「同一性」、「差異性」の概念に基く、「カテゴリー」、「クラス分け」の操作(=タクシノミア)が生まれる。17世紀はバロック時代全域であり、フーコーもこの時代を以下のように特徴付けている。

・ トロンプルイユ
・ 滑稽な錯覚
・ 劇中劇、夢中夢
・ 取り違い
・ イリュージョン
・ 隠喩、比喩、アレゴリーの支配
・ 「人を欺く感覚」の時代

こうした特徴付けは、ホッケ、パノフスキー、谷川渥などに共通する「バロック」の諸特徴と完全に一致する。
つまり、フーコーは『言葉と物』において、バロック(17世紀)とそれ以前(ルネサンス)を厳密に差異化しているわけだが、プレ・バロックたるマニエリスムはどうなるのかという問題が依然残る。上記の「古典主義時代の特徴」は、マニエリスムの画家たちが満たすからである。
古典主義時代における「カテゴリー」、「クラス分け」の認識のフレームを準備した革新者二名として、フーコーはデカルトとベーコンを挙げている。

・ デカルト『精神指導の規則』
・ ベーコン『ノヴム・オルガヌム』

特にベーコンは「類似物」を「イドラ(幻像)」として批判している。何が相互に似ているのか、という「視点」は人間が主体となって生産しているのであり、その「視点」が異なれば、別の観点からまた異なる類似物を見出せるはずである。
例えば、「林檎」と「蜜柑」は同じく「果物」の項目に入るが、すなわち「分類」できるが、それは単に「果物」という種別分けの方法、視点に従っている「一つの窓」越しの類似性に過ぎない。「色彩」や「構造」、どのような昆虫を呼ぶか、栽培方法はどうか、などの視点に注目すれば、それぞれ異なる「差異性」を有することがすぐに判然となる。ある事物同士が相互に「類似」するというのは、したがって「恣意的なもの」(フーコー)なのである。ブルデューも、「眼は文化的産物」であると『ディスタンクシオン』で定式化している通りである。「類似性」の基盤である、その観点、ある一つの見方が従う「秩序」そのものが、実は「文化的産物」であり、「イドラ」(ベーコン)なのである。
このように、「類似」という概念は実は弱いのであり、「同一性」と「差異性」の厳密さに劣る。「類似性の王国」を、「同一性」、「差異性」へと変換したのが、デカルトとベーコンであるとされる。
この「類似性」を重視するか、「同一性」、「差異性」の組を重視するかで、「中世~16世紀」と、「17世紀の古典主義時代」が差異化される。換言すれば、「一対一対応関係に基づく類比的思考」が、並列的で、多中心化した参照軸の出現に伴い、知の制度それ自体が「多元化」したということである。

フーコーは「記号」を何と心得るか?
彼は以下のように定義する。すなわち、BがAを表象していた場合、BはAのシーニュ(記号)である。結合関係は恣意的に作り出せるわけである。
「記号の外部に意味はなく、記号に先立って意味はない」(フーコー)
例えばヒューム、コンディヤックは「想像されたものは、それが由来するところの力のシーニュである」と考えていた。バークリーは、「人間の感覚そのものが、神が我々にいおうとするもののシーニュかもしれない」と述べることができた。しかし、18世紀末になると「観念=記号」の図式は乱れていく。

「全ての表象はシーニュとして互いに結ばれ、全体として巨大な網目のようなものを形成している」(p91)


マルブランシュから観念学までの、古典主義時代の哲学は「シーニュの哲学」であった。
フーコーにおいては、シニフィアン/シニフィエの組は、共に「表象」されている必要があるというが、これはバロック時代が「視覚の優越」した時代であったことと相関している。マリオ・プラーツもバロック論の中で、「インプレーサ」に注目しているが、これは表象がそのまま「観念のシーニュ」を表示している。






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