† 美学 †

小田部胤久『西洋美学史』(東京大学出版会)ーーカント『判断力批判』についてのレジュメ

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アントワーヌ・デニス・シォーデ《蝶へ薔薇を贈るクピド》(1802)

カント『判断力批判』について

「技術は、それが技術であることを我々が意識していながらも、我々にとって自然として見える場合にのみ、美しいということができる」カント『判断力批判』、p131


『判断力批判』第45節によると、「美」とは作りっぽさがまずないことが条件であり、作り出されたものが自然に見えるということが肝要である。こういった「技術は自然であるように思われるときに完全である」という美意識は、既に紀元1世紀頃の伝ロンギノスの『崇高について』にも見出すことができる。
プラトンは『イオン』や『国家』において、芸術をテクネーから切断してしまったわけだが、アリストテレスは芸術にも独自のテクネーが存在すると批判した。カントもアリストテレスと同じくプラトンの批判者であり、44節では以下のように「技術」概念について語っている。

「技術が、ある可能な対象の認識に適合しつつ、単にこの可能な対象を現実化するのに必要な行為を果たすに過ぎないならば、それは機械的技術である。しかし、それが直接に意図するのが快の感情であるならば、それは美的技術と呼ばれる。後者は、快適な技術であるか、もしくは美しい技術(芸術)である。快が単なる感覚としての表象に伴うことがその目的である場合、美的技術は快適な技術である。ところが、快が認識様式としての表象に伴う場合、美的技術は美しい技術(芸術)である」カント『判断力批判』、p134


そもそも、技術の本質とは「ものを生ぜしめること(genesis)」である点で、創造論的である。神学的文脈での神の世界制作と、芸術家による芸術制作が相関性を帯びるのは、まさにこの点である。神が創造した山や小川には、いかなる「作りっぽさ」もなく、自然である。だとすれば芸術は、「技術」によって創造されながらも、その「作為性の痕跡」を消し去ることである――すなわち、「自然」にまで至ることが最高の理念として規定される。
カント美学の核心は、「美的理念」にあるとされている。「美的理念」とは、概念ではなく、「直観の能力としての構想力の一種である」。もしも単に哲学的概念を感性化するだけなら、「機械的技術」に過ぎない。

「(構想力=美的理念が)概念との一致を越えて、ただし自ずと悟性に対して豊かで、強制されることなく、なお展開されていない素材――悟性は自らの概念の内にこのような素材を顧慮しなかったのだが――を与える」カント『判断力批判』、p137


このように、「美的理念」は概念と一致しつつも、それを越えて「自由」である。「美的理念」は、哲学的な「概念」ではない。それは「概念を美的に拡張すること」であり、「構想力の表象の過剰を作り出し得ること」である。
カントの『判断力批判』については、ドゥルーズが『無人島』のある小論でその「天才」の概念に注目しているが、カントによれば天才的作品の発動条件、理論のようなものは、「学問的に示すことができない」と、ほとんど神秘化されてしまっている点には注意せねばならない。
カントが「天才」を「教育」から無縁化させるように見せかける時、あたかも天才的芸術家は従来の芸術形式を「破壊」する革新者でもあるかのような、それこそ「嵐」のような霊性を備えた神がかった存在であるように感じられるかもしれないが、ブルデューは『ディスタンクシオン』に先立つ『美術愛好』の中で、「無学な天才は存在し得ない」ことを統計学的に立証している。芸術上の「天才」とはあくまでも誇張的な表現に過ぎず、実際は過去の伝統的な美術様式や美学理論について、正統的な「教育」を受けていることが前提で、初めて「過去の規範から逸脱する」行為が可能になるのである。文化資本の低い人間が、同じ展覧会でもその感想において教養のある上流階級と著しく階級化された顕著な質的差異を見せるのも、まさに「教育」の産物であるといえる。カントの「天才」概念は、ブルデュー的な社会学的美学理論において、ほぼ失効しているといって良いであろう。
実はカントも、「技術」(教育)の効果を等閑していたわけではない。カントを受け継いだシェリングは、実際「技術」も、「創造性」も両方必要であると述べている(『超越論的観念論の体系』)。また、シェリングは「真の芸術には、<無限の意図>が宿っている」とも述べ、「無限」という「威力」によって作品が支えられていることを偉大な芸術の前提として規定している。この「無限」とは、シェリング的には「絶対者の把握」と表現できる。

「芸術家はいかに意図的であろうとも、自らの創作における本来的に客体的なものに関しては、ある種の威力の影響下にあるように思われる。この威力のゆえに、芸術家は他の人々から区別され、また、自分自身も完全には洞察しえず、その意味がunendlich(無限)であるような事柄を語りだしたり描写するよう強いられる。…芸術家はその作品のうちに、明らかな意図によって自らそこに置き入れたものの他に、本能的にいわば無限性を呈示したように思われる」p141、シェリング


ここで規定されることを守れば、芸術は形而上学的なものと添い寝する関係にあるといえよう。実際、シェリングは哲学と芸術の関係を以下のように述べている。

「美的直観がただ客観化された知的直観であるとすれば、ここから次のことが自ずと了解される、すなわち、芸術は哲学の唯一真にして永遠の道具であり同時に証書であって、それは哲学が外的には呈示しえないものを常に新たに証示する」p189、シェリング


ゲーテと同時代に当たるシラーは、「没意識的なものが意識的なものと結び付くとき、芸術家としての詩人が生じる」と述べている。これをカント的な「技術」と「創造性」の観点から述べれば、制作上必要なのは単なる「技術」だけではなく、その教育的遺産と結合した、革新的な「創造性」だということになる。アドルノはこうしたドイツ美学の伝統に位置する見解を示す――「全く意図に基いて作られた作品が、かえって自然へと反転するところ――そこに芸術は成り立つ」。
以上、『西洋美学史』の「カント」の章をまとめると、彼の中心的テーマである「美的理念」は、結局プラトンとアリストテレスの美学上の「対決」をより体系的に再現前させたものであると理解することができよう。プラトンは詩作に「技術」を容認しなかったが、アリストテレスは詩学にもそれ独自の美的な技術が存在することを提唱した。カントは更に、「技術」だけでなく芸術家には「創造性」も必要であることを主張し、この双方が見事に結合する作品を「天才」と呼称した。本書には登場しないが、ブルデューは更にこの「創造性」までもが「教育の産物」であることを無数の事例と共に徹底的に暴き出し、「天才」など存在せず、存在しているのは卓越化した「文化貴族」であることを提示してみせた。




西洋美学史西洋美学史
(2009/05/27)
小田部 胤久

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