† 美学 †

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』 (3)

さて、我々は前回、前々回の記事でバークのいう「美」が実質的に女性美を対象にしたgracefulness(優美さ)であり、「崇高」とは差異化されていることを読んできた。繰り返すが、美的範疇論では「崇高」と「優美」が美的原理を構成する異なる属性として位置付けられているので、バークの本書は「崇高」と「優美」において極端に先鋭化した六角形を成しているといえるだろう。
参照程度に、18世紀ドイツの美学における、デッソワーの円環的な美的範疇の図式を再掲載しておこう。

無 題

「崇高」は「巨大」、「堅固(量感性)、「暗く暗鬱」、「恐怖」などを諸成分とし、他方「美」は「明澄さ」、「繊細さ」、「なめらかさ」、「小ささ」などを諸成分としている。二篇の小見出しがそのまま「崇高」の属性となっているので、以下に列挙しておこう。

「バーク的<崇高>の属性」

・ 恐怖
・ 曖昧さ
・ 力能
・ 欠如(暗闇、孤独――総じて“空虚”に繋がるもの)
・ 広大さ
・ 無限
・ 建物の大きさ
・ 困難さ(芸術制作における“産みの苦しみ”)
・ 壮麗さ(華美、豊穣な美が無数に存在した場合の衝迫力、例えば満天の夜空)
・ 光(建物の中の光)
・ 色彩(黒、褐色、深紅色。特に黒は“局所的暗闇”と表現される)
・ 唐突さ
・ 断続音、動物の絶叫
・ 苦味と悪臭
・ 身体的苦痛

「バーク的<美>の属性」(ほぼ美的範疇論の「優美」に相当) 

・ 愛と快が基礎
・ 脆弱さ、かよわさ
・ 不完全性
・ 小ささ
・ 滑らかさ
・ 身体のプロポーションにおける流麗さ(曲線における“漸進的変化”)
・ 繊細さ
・ ロココ的色調(穏やかで柔和な色彩、薄桃色、薄い水色、クリーム色)


四篇は「崇高と美の観念の起源」を語るとされているが、実質的には二篇(崇高論)、三篇(優美論)の「まとめ」として読める。そして基本的な双方の重要な諸成分は上記のリストにほぼ言い尽くされている。
「崇高」について付記すれば、これは「苦」(身体的)と「不安」(精神的)の極限において最も高くなるという愕くべき性質を備えている。そして「苦」、「不安」は互いに混じり合って我々を襲う。この時、我々は酷く脱力し、孤独と失意と悲嘆に支配されつつ、バークのいう一種の「痙攣」に達する。これは「神経の不自然な緊張」によって生起するものだが、悲哀や苦悩の極地における最後の「痙攣」は、「崇高」である。
また、我々はこれら「苦」、「不安」を極度に恐怖してできるだけ回避しようとする傾向が強い。しかしバークは「恐怖」を引き起こすこれらのものこそが、実は「崇高」の源泉であると高く評価している。何故なら、「恐怖」は「激烈な情緒を生み出す」ものである。この「不安定」で、「不気味な」、それでいて「方向性を喪失した」かのような感覚様態は明らかにマニエリスム的な美的原理と通底しており、バークの崇高論はグスタフ・ルネ・ホッケの重要な『迷宮としての世界』で考察されているフェデリコ・ツッカリ(マニエリスム時代の芸術理論家の一人)における「幻想構図」(ルネサンス的な均整、調和を核にした美的規範ではなく、“illusion”を重視する新しい美的原理)の理論とも相関するだろう。このように私が解釈するのは、私がバークの「崇高」を「美的原理」の属性の一つとして判断しているためであり、一つの作品において「崇高」と「滑稽」が同居したり、「優美」が「醜」へと失墜したりする現象を知っているためである。
私は本書の記録を残す上で、非常に注意深くテクストを読んだつもりであるが、バークは例えば以下に見られるように、もっと“ざっくり”した堂々たる主張をしている。

「恐怖もしくは苦の様態は常に崇高の原因である。恐怖もしくは危険との連合に関しては、私は以上の説明で十分であると信ずる」(p147)


この部分だけを拡大解釈すれば、バークがまるで何かおぞましい世界を希求しているような錯覚を抱いても無理はない。しかし「崇高論」の変遷については、更に学習を深める必要があろう。何故なら「崇高」こそは端的に「美の王者」であるからである。

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