† ジャック・デリダ †

J・デリダ『盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟』

盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟 盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟
ジャック デリダ (1998/11)
みすず書房

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盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟
[原書名:M´EMOIRES D'AVEUGLE : L'autoportrait et autres ruines〈Derrida, Jacques〉 ]ISBN:9784622031994 (462203199X)
189p 21cm(A5)
みすず書房 (1998-11-16出版)

デリダ,ジャック【著】〈Derrida,Jacques〉・鵜飼 哲【訳】
[A5 判] NDC分類:720.1 販売価:\3,990(税込) (本体価:\3,800)


見ることは信じること。
素描をめぐって盲目、自画像、父と子、直観と信憑、判断停止と懐疑、記憶の作用、喪とナルシシズムなどの問題群が高密度に展開される。
絵画を読むデリダ的思考の冒険。

西洋の素描に数多い盲目というテーマの、神話的思想的意味を、絵の読解を通して語る哲学の冒険。






  プロトコル  



私たちは小学校という空間の風景に関する記憶を持っている。
少し河川公園の堤防に沿って自転車を走らせば、幾つか小学校の運動場を見出すことができる。
私はいつか母校の北校舎の壁を眺めていた。
北校舎の壁には随所に剥離した部分が見出され、手入れをしないと廃墟化するだろう。

上記の短く品のないテクストは、ジャック・デリダの絵画論『盲者の記憶』のプロローグに成り得るだろうか?
デリダが本書で述べている強力かつ神秘的ともいっていい概念を、私は既に引用している。
そう、「廃墟」である。

これから私は本書のプロトコルを作成する。
先に断言しておくが、私のプロトコルは全て誤読である。
だが、ある文学者の一説に依拠すると、あらゆる新しい潮流はレディメイドな潮流の誤読から開闢する。
再生産とは常にそういうものである。
私はおそらく『盲者の記憶』を誤読している。既に最後の頁まで読了し、重要だと思った箇所には概念的モデル図やメモを書き込んでいるが、正直自信はない。
その理由の一つは、私が本書を感覚的に評価してもいるからである。
デリダは絵画の中でも、とりわけ「廃墟」の絵を愛している。
そして、多くの絵画愛好家にとってデリダが常にインパクトを放つのは、彼にとっての「廃墟画」とは「肖像画」だからなのである。
なぜ寂れた小学校の廃墟が、ある青年の自画像と内的に交叉するのか?
デリダは本書で、この謎に迫っている。

デリダは知っている。
「肖像画」が存在しないことを。
そして、絵筆を握る主体さえ存在しないことを。
デリダが愛しているファンタン=ラトゥールの自画像は、ファンタン=ラトゥールの自画像ではない。
それは他者化された画家の自画像であって、誰も画家本人であることを立証することはできない。
画家は「視覚を仮設する」。
視覚とは、「ある盲目から別の盲目へ」の変移である。
我々がある対象Aを見ているとき、実際にはその対象Aは見られていない。
Aは見られることによって盲点に達する。
しかし、いざ周辺の対象Bにまで視点を移行させると、たちどころに対象Aの本質が蘇生する。
視覚とは、常に盲目的次元の流動なのだ。

Andy Warholによる肖像画


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ゴッホは非常に多くの自画像を描いた。
ゴッホa、ゴッホb…の姿を。
だが、その誰もが、画家自身ではない。
ゴッホは絵画の中で、自己を偽装している可能性がある。
仮に彼が「正真正銘、この自画像は私の存在の全てを描出している」と宣言しても、描かれたヴァン・ゴッホは主体として絵筆を握るヴァン・ゴッホではないのである。
したがって、肖像画家は無限に「今まで出会ったこともない親友」を描き出す。
身近にいる全ての人間は、絵画を通過すれば、匿名化するのだ。

初期ラファエル前派において、華々しくモデルとして活躍しつつも、悲劇的な一生を終えたエリザベス・シダルを例に取ろう。
平凡な靴屋の娘であり、リジーの愛称で知られる彼女はまず、ミレイの傑作の主役に抜擢される。
オフィーリア》である。
ここで、リジーは既に神話的に他者化されている。
続いて、ロセッティが愛人であったリジーの亡き姿を、今度は《ベアタ・ベアトリクス》へ変容させる。
彼女はミレイの絵筆でオフィーリア化され、続いてロセッティの絵筆でベアトリーチェ化している。
絵画において、「描かれた客体」は、顔を<喪失=贈与される>のである。

画家は誰の姿も描くことができない。
彼らはあらゆるものを描出する権利を与えられているが故に、パラドキシカルにそれら全てを匿名性の内に帰属させねばならなくなるのだ。
あらゆる画家は盲人である。


自画像は既に廃墟化されている。
画家は常に盲目性のただ中に屹立する。



「Henri Fantin-Latourの自画像」

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たとえば、ピカソはガートルード・スタインに、こう言った。
「あなたを見ているとき、私はあなたを見ていない」。すると彼女は答えた。「私の方は、これでやっと私が見れるの」(p84)
 



『死を与える』の見解に依拠すると、キリスト教はプラトニズムを《》の形式において残存させている。
デリダが「廃墟」という概念を登場させるとき、常に私は《》とそれが本質的に同一であることを感じる。
換言すれば、キリスト教の内部には、プラトニズムという「廃墟」が存在している。

失われた全てのものは、《》の形式において再現前化する。
失恋は存在しない。
(二度目の真実の恋愛は、一度目の不器用な恋愛の再現前化であり、「初恋」は、エデンにおけるアダムとイヴの恋愛の再現前化なのである。したがって、「初恋」は存在しない
例を一つ提示する。
プラットホームで私が見知らぬ人物の証明写真を偶然拾ったとせよ。
この時、彼/彼女の現前化する顔は、常に私にとって既知の他者の顔と本質的に同一である。

裸顔を正面から見つめることはできない、それは鏡のなかでおのれをみつめることはできない。(p89) 



更に例を提示しよう。
包帯を巻き、サングラスをかけ、おまけにマスクまでした人物が眼前にいるとせよ。
一般的にこの人物の顔は隠蔽されている、と解釈可能である。
だが、デリダは、「顔を隠す」という行為から派生したあらゆる物品的体制=仮面が、逆説的に「裸顔」を表出していると解釈する。
したがって、仮面を纏うあらゆる俳優にとって、彼らの素顔とは、常にその仮面だと規定される。

 顔が裸形で現われるというのではない。それだけはどうしてもありえない。このことが、もちろん、裸であるという、まさにそのことの仮面を剥ぐのである。(p93)

 


デリダの思考能力の凄まじさは、ほとんどニーチェに匹敵して天才的である。
デリダは「眼科学」を「神学」と結合させる、すなわち、「目の超越論的廃墟」。
見る」「見られる」そして「見ることの不可能性(盲目性)」、これらは究極的には神学と不可分の要素なのだ。
私は神を見ることを意志する神学的な視覚の仮設)」「私は神に見られている」そして、「しかし私は神を見ることができない神の可視化の不可能性=盲目性)」…。

 素描が自ら描く線が示すのは、つねに仮面だ。(p93) 



デリダは「」と明言している。
つまり、「色」ではないわけだ。
絵が「」で構成される以上、これはすなわち、絵画全域に対してデリダはその本質が「仮面」であると宣告していることと同等なのである。

デリダ×サールの言語行為論的論争の書『有限責任会社』のプロトコルを想起せよ。
そこでデリダは「あらゆる記号には全て引用符が付与される」と断言している。
コピーライトの不可能性はエクリチュールの本質なのである。
そして、デリダはルーブル美術館に依頼されて書き上げた本書で、「書記素」において主体性神話が崩壊したように、「絵画素」においても同じ原理が適用可能だと主張する。

 ペルソンヌ(誰でもない者)として自己を呈示することによって、彼は同時におのれを名指し、かつ抹消する。ペルソナ(仮面)として。(p107) 



かくして、画家はイデア性に還元され、個別的な「主体性」を有する画家は消尽される。
画家は、常に、「主体性」を纏う=仮面化するに過ぎない。
だが、何故なのか?
何故、デリダは常にコピーライトを否定するのか?
ここでジャック・デリダという一人のユダヤ人男性の特質が明示される必要があろう。
彼は、「割礼告白」を綴っているように、ユダヤ教的思考の持ち主である。
私はデリダの本に触れてきて、彼がニーチェの「神の死」に賛同している姿を、一度も目にしたことがない。
デリダのニーチェ読解は、ドゥルーズのそれと並んで極めて奇抜であることで知られている。
デリダはニーチェの二項対立式思考システムディコンストラクト(脱構築)する。
デリダの宗教論、哲学論、絵画論に共通して流れている通奏低音とは、常に「神の死」の徹底的かつ執拗なまでの解体である。
デリダは「神の死」以後の、おそらく最初に、それを超克した有神論者である。
彼はキリスト教の「慈愛/母性/祈り」を吸収した上で、こう述べていた。
キリスト教には、未だ何かが到来していない。決定的な何かが…」(『死を与える』)

Caspar David Friedrichの廃墟


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デリダが主体性を根絶させ、亡霊的な匿名性システム(非コピーライト空間)に音素、書記素、絵画素…を帰属させるのは、その彼方に「神」の実在を認めるからに他ならない。
デリダは人間が産出したあらゆる思考フレームを、神に再び返上しようとしているだけなのだ。
そして、そのために彼は全ての哲学的「体系」に叛逆して、それらを内部からディコンストラクトする。
このユダヤ的怨念/辺境性は、ニーチェに対する彼の讃美であると同時に、おそらくは底知れないルサンチマンにも基くのだろう。(ニーチェと反ユダヤ主義)

 神の摂理は盲者の手を通して行われる。(p121)



盲目性」とは、常に「裸性」である。
杖を携えながら、歩道橋を不安げに渡る盲者の姿は、衣服を全て剥ぎ取られた裸の者であるかのようだ。
盲者は導かれねばならない。
そのために彼は「手」「足」を拡張する。
これは暗闇に溢れた現代世界を必死で生き抜こうとするあらゆる無神論者の姿と相似形を成している。
だが、デリダと私に共通していることは、我々が同じく盲者でありつつ、「杖=補助眼球」を携えているということである。
デリダにとって、それは「ユダヤ教/父性」である。
私にとって、それは「キリスト教/母性」なのだ。

 ときにはイエスはただ触れるだけで盲者を癒す、視力を回復するためには空間に瞼の輪郭を素描すれば足りるかのように。 (p11) 



」とは、すなわち神学的視覚の仮設である。
例えば、今後、ネット世界を決定的に操作していくであろう米国の企業グーグルにおいては、「ネット」が神学的視覚として「代補」されている。
グーグル社員は、本質的に有神論的であり、毎朝、讃美歌「あらゆる情報をオーガナイズして、全ての人間に与え給う」を唱えている。(企業理念と使徒信条の微分的差異関係)
「修道院」的体制は、形式を変容させて、Web2.0以後の現代世界においても受け継がれているのである。

我々が、新しい我々で常にあり続けるためには、失明し、それでもなお、視覚を仮設せねばならない。「生きる」ということは、盲目的平面が地層化し、盲点を無限に分散させる過程である。

 ユダヤ教徒は真理を見なかったということだろう、つまり、たとえば、キリストが生まれつき盲目の人を、自分の唾液に泥を混ぜ、それを彼の目に押し付けて癒すことができたということを。この盲者が罪を犯したのではない。彼の親の罪でもない。そうではなく、視力が回復したということのことによって、彼が神の御業を証する必要があったのだ。一風変わった天命によって、盲者が証人となるのである。真理について、あるいは神の光について、彼は証言をしなくてはならない。可視性の証書保管人――要するに、素描画家と同様に。(p24) 



我々の日常生活においては、イエズスの御言葉を一瞬であれ、やはり忘れてしまうことはある。
他者に身に覚えのない不名誉を与えられたとき、身内に不幸があって、世界が終わってしまうような深い絶望の淵に立たされるとき…。
このような状況において、我々は「盲者」となる。
すなわち、日常には常に、盲点が待機し、遍在しているのだ。
デリダは、福音書を「盲目性のアナムネーシス(想起)」として解釈している。

ボルヘスの作り出したテクストの迷宮は、自画像である。
彼は迷宮で失明してしまった一人の探索者のように、手にした全ての「地図」を内的領土へと吸収する。
探索者自身が、ダイダロス化する。




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