† 美学 †

栗原隆編『世界の感覚と生の気分』 第十二章/宮﨑裕助「美的情動のアンビヴァレンス――カント、シラー、美学イデオロギー批判――」についての記録

Kristen Stewart  by Craig McDean in Interview
Kristen Stewart by Craig McDean in Interview

『世界の感覚と生の気分』(2012)所収の12章「美的情動のアンビヴァレンス――カント、シラー、美学イデオロギー批判」(宮﨑裕助)を読んだので、記録を残しておく。
この本を私は美学関連の最近の論文集として読み始めたのだが、12章は明らかに「政治×美学」という非常に重要な問題をめぐって考察されていて、特に注目した。
政治と美学がどのように結び付くのか、関連するのかといった問いは私にとってずっと謎のままだった。ランシエールが『不和、あるいは了解なき了解』や『民主主義への憎悪』といった政治学書を書いているのに、何故美学系統の本『感性的なもののパルタージュ』へと接続しているのかといったことや、ストイキツァの翻訳者として知られる京都大学の岡田温司氏に『アルス(芸術)とビオス(生政治)』といった著作があったり、エスポジトの翻訳があったりすることに対して、私はこれまで“どう繋がっているのだろう?”と素朴に感じていた。
今回、本論を読んで私は、特にシラーの「美的国家」論がナチズムへと接続していったというプロセスを理解することができた。政治と美学という二つの軸をどのように相関させて位置付けていくかというテーマについては、もう少し良書を読み、更に深めていくことが望ましいかもしれない。
それでは、以下に12章の私なりの要点をまとめておきたい。

○ 『判断力批判』における「主観的な普遍妥当性」=美的なもの

the aesthetic(情感的なもの、美的なもの)の由来はギリシア語「アイステーシス」(感覚、感情、知覚)である。18世紀にドイツにてバウムガルデンがエステティクス(美学)を創始する。「真・善・美」という人間が総じて探究すべき価値の総体の一翼「美」を担うのがエステティクスであり、これは『判断力批判』で初めて系統化された――という、入門的な前書きがまず説明される。
カントの『判断力批判』は、『純粋理性批判』における「認識原理」と、『実践理性批判』における「実践原理」の総合を企画した書として位置付けられる。美を判断するのは、カントによれば「純粋に主観的」なものであり、いわば“生で出会った先入見なし”の「快」が「美的なもの」とされる。換言すれば、「一切の関心(先入見)を欠いた快」が、「美的なもの」の成立条件である。
主観的に把捉される美であるが、普遍性を備えていなければならないといわれる。カントは、「美的なもの」の世界では「主観」が「客観」と一致しうると考えた。この「主観的な普遍妥当性」(8節)こそが、「美的なもの」のみに成しうる力であると評価されている。

○ シラーの美的国家論

続いて、シラーの国家論が説明されている。シラーは国家を「多様な主体がその中で合一しようとしている客観的で、基準的な形式」と定義した。更にシラーは国家を三大別した。

(1) 自然国家(力学的国家)

物理的な実力行使の世界、いわばカオス状態である。

(2) 道徳国家(倫理的国家)

普遍的な法の強制下にある社会であるが、不自由でもある。

(3) 美的国家

「美的なもの」の経験によって、コミュニケーションが生まれ、やがて共同体が生成していく世界。(シラーによれば、社交界のダンスはそれぞれの踊る男女の単位が互いにぶつかり合わず、優雅に尊重し合いながら交流する。これが美的国家の最小単位としてイメージされている)。



美的国家は、「美を共有する感覚」(共通感覚)によって成立する。このプロセス自体は、根本的な共同体実践として今でも要請されている、と著者は述べている。
しかし、本論でシラーはむしろ批判的に摂取されている。ナチスの宣伝相ゲッベルスが自身の小説にも引用していたテクストが引用されている。

「政治とは、絵画が色彩の造形芸術であるのと同様に、国家の造形芸術である。それゆえ、人民なき政治や人民に抗する政治は無意味である。大衆をひとつの人民へと、そして人民をひとつの国家へと変形すること――これは最深の意味で、つねに真の政治的な課題であり続けてきた」シラー、p254


シラーによれば、「政治」とは、実は国家の作り出す「芸術作品」である。だとすると、「政治家」とは、まさに「芸術家」と等号で結ばれる。これは単なる表現上のレトリックではなく、実際にナチスの「レニ・リーフェンシュタール」は、アーリア民族による神話的な祭典を再現前させた「美的政治」として機能していた。シラーのこのような考え方からすれば、「戦争」とは「美的スペクタクルの上演」になってしまう。

○ ベンヤミンの批判点

ベンヤミンは、シラーの美的国家論から生成したナチズムによる「美的政治」を、「政治の美学化」として批判したとして評価されている。反対にコミュニズムは「芸術の政治化」として、やはり批判されている。ファシズムにおいては、「国民の政治的判断が<美的形象>によって覆い隠されてしまう」ことが最大の誤りの核心である。政治的判断が麻痺化した状態では、国家ぐるみのシミュラークル(メディア操作に基く)が行われるだろう。
このように、政治と美学の結合は「共同体生成」のポジティブな側面よりも、むしろ20世紀の負の遺産であるナチスによる危険性の方が特筆されている。ベンヤミンによれば、政治の美学化は、「その効果において、anesthetic(麻酔=没美的な)状態を招いてしまう」と懸念されており、ここにおいて我々は、aesthetic(美的なもの)が、容易にanesthetic(麻酔的なもの)に変わってしまうという危険性を知るのである。
カントの「主観性」に基く「美的なもの」の概念がシラーによって国家の三大別の一つである、「美的国家」論として政治化され、これがナチスによって実際の「政治の美学化」=「レニ・リーフェンシュタール」へと失墜してしまったという、美学→政治化の危険なプロセスがここで可視化してくる。

○ ド・マンの美学イデオロギー批判

そもそも、カントによれば「美的なもの」には、物事を全体化してしまう原理に対して批判的になるための本来的な力が宿っていたはずであった。つまり、美は己自身を内省するという自省的な力能を宿しているがゆえにこそ、美として成立し得るのである。それが盲目的に美のみを追い求めるようになり、それ自体が「美的形象」のヴェールに覆われて可視化されなくなった時、このようなことを可能にしてしまう麻痺的なイデオロギーのことを、ド・マンは「美学イデオロギー」と呼んだのだった。
既に規定されていたように、カントによる「美的なもの」の定義は、「一切の関心を欠いたまま」(実際に眼の眺めが示すがままに、“詩人がそうするように”)、「もの」を純粋に眺めることによって初めて獲得され得るものであった。つまり、カントの定義からして既に、人は「もの」を観る上で詩人的な純粋性に至らねばならず、目的論的な作用が喪失されているというのである。換言すれば、世界にただ「もの」が存在しているということを感じれば良いわけで、「もの」と「わたし」との<あいだ>に位置し、関係性を成立せしめる社会的背景や目的論的なコンテキストが捨象されてしまうということである。カントの「美的なもの」の規定にはこのような非常に本質的なエラーがある。
ド・マンはこうしたカントの視座を「物質的な視覚」と呼び、そこに「唯物論」を指摘したのだった。
ここまでのカント、シラー、ベンヤミン、ド・マンへと至る「美的なもの」についての考察を著者は以下のようにまとめている。

「議論の要点は次の通りである。一方で<美的なもの>は全体化をもたらすイデオロギーの源泉であり、美学イデオロギーはこのカテゴリーの安定性を恒久化すること(美学化)に存している。しかし他方、<美的なもの>の核心に規定不可能な残余として「物質性」が見出されることによって、このカテゴリーは常に不安定化されうるのであり、その限りで<美的なもの>自身が、美学イデオロギーに対する抵抗の場をもたらすのである。<美的なもの>は美学イデオロギーの条件であるとともに、その批判自体の根拠でもあるのだ」p258


著者がまとめているように、「美的なもの」はアンビヴァレントな価値を持っており、一方的に美的形象を追求して全体主義化する側面(美学イデオロギー)と同時に、それを批判し、いっそう根源的な美へと顧慮する機会(美的なものの有する詩人的で純粋無垢な視座による事物との対峙)を与える側面をも併せ持つ。危険を生み出すものが美であるならば、その危険を批判する潜在的力能を有するのもまた美であるということだろう。

○ ハンナ・アレントの『判断力批判』論

アレントの解釈によると、『判断力批判』は実は高度に「政治的判断力の書」であるという。「美的なもの」は個と集合を架け橋し、最終的にひとつのコミュニティを生成させ得る点で、政治的なものを潜在している。したがって、この本は「公共的な場を開くための書」として政治面が強調されている。「美的なもの」が、共同体への統合のためには必要である。

○ まとめ

以上、美はカントが述べたように、「主観/客観」のあわいで揺らめく独特な位相を有する。「美の政治化」(ベンヤミン)は麻酔的で危険なものであるが、一方で「美的なもの」それ自体は「生の喜び」(カント)の本質である。著者はシラーの「美的国家」論を棄却しているのではなく、その“批判的継承”を課題にしている。その上で、著者は21世紀のグローバル化(SNSによって互いに差異を有する諸民族、諸国家が即座に繋がるネットワーク網による新しい“世界”)を視野に入れつつ、「紐帯」の新しい形式とは何かを問うている。それはブランショ、デリダ、ニーチェの系譜に連なる「明かしえぬ共同体」、「友愛のポリティクス」(著者は“友愛の紐帯”と表現している)、「遠人愛」(隣人愛を発展させたニーチェの来るべき道徳律)などの概念とも相関することになっていくだろう。民族、宗教、国家的な「差異」を越えて接続する新しい「紐帯」は、マイノリティなものであり趣味判断によって組織化された「美的なもの」によるコミュニティとしての、「友愛の場」であるのかもしれない。SNSを介しての、政治上の共通概念を媒介にしてネット上の「共同体」(しかしそれは即座に離散可能で、充分に生活に溶け込んだものであることが条件であろう)が成立していく今日の現象に、我々は宮崎氏のいう新しい「紐帯」の姿形を見出すことができるだろう。




世界の感覚と生の気分世界の感覚と生の気分
(2012/05/10)
栗原 隆

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