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美術史を学ぶ上での必読書、ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』における「様式」概念について

美術史の基礎概念―近世美術における様式発展の問題美術史の基礎概念―近世美術における様式発展の問題
(2000/09)
ハインリヒ ヴェルフリン

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美術史を学ぶ上での必読書であるハインリヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』(原著1915)についての記録を残す。

○ 序

まず、「序」の中で彼は芸術家個人間にもスタイル上の「差異」があるが、より大きく「様式」、「時代」上の差異がまず横たわっているということを主張する。例えば初期バロックを代表する画家の一人であるアンニーバレ・カルラッチと、新古典主義を代表する画家であるジャック・ルイ・ダヴィッドは、まず「個人様式」の差異が浮上する以前に、「時代」が差異化している。時代の差異は様式の差異でもある。また、たとえ同じ様式、時代に属したとしても、「民族」(フランドル人の重量感、オランダ人の緻密さなど)上の差異や、同じ民族でも活躍した「地方」の差異がある。
ヴェルフリンがまずもって序で示すのは、芸術作品を鑑賞する行為において最も強制力を発揮する「分類原理」そのものである。ヴェルフリンは国民それぞれの「形態心理学」上の体系を看取している、と自負している。また、そもそもこうした「分類」(差異の体系化)に注目したのは、同じ17世紀でもオランダとフランドルという「地方の差異」が際立った特徴を示していた、というような分析、比較に起因する。

「われわれは個人様式、民族様式、時代様式の三つの実例を略述しながら、美術史というものの目的を解説してきた。これによると、美術史は様式をまず第一に表出として、つまり個人の気質の表出、時代的気分の表出や民族的気分の表出として捉えるのである。これらと作品の芸術的品質を混同してならないことは明白である。確かに気質は芸術作品を作るものではない。しかし、広い意味で(個人や何らかの集合体の)特有の美の理想もそのもとに包括されるということにすれば、気質は様式の素材的部分と呼ぶことのできるものである」(p15)


このテクストは、ブルデュー社会学における「趣味論」に多少なりとも触れたことのある読者には、何かデジャ・ヴュを感じさせるものではないだろうか。実際、ブルデューはプレ『ディスタンクシオン』である『美術愛好』の中で、「文化貴族」は統計学的に「様式」から入り、個別具体的な画家を常に「美術史」上の分類体系に帰属させることができる力を有すると述べている。これが「芸術的能力」であると、ブルデューは述べている。
ヴェルフリンは本書の序で、「気質は様式の素材的部分と呼ぶことのできるものである」という、かなりインパクトの強い表現を使っている。ゴッホは確かに極めて激しい気質を有するが、彼は「後期印象主義」、「フォービズム」というカテゴリーに帰属可能である。ゴッホという個体の「性格」は、ヴェルフリンにとっては何の意味も持たない。彼が着目するのは、「後期印象主義」、あるいは「フォービズム」の様式に属する「同じ画家」の中での、ゴッホと彼らの一致点、相違点なのである。
ヴェルフリンにおいては、バロックはクラシック(ルネサンス)の退化でも進化でもなく、全く時代背景の異なる別種の芸術に他ならない。したがって「様式」の理解なく、個別具体的な画家の研究に着手することは致命的な問題的行為なのである。まず「様式」があり、「気質」は「様式」に内包されている。美術を分析し、愛好する「眼」とは、こうした様式上の分類原理をマスターして、初めて獲得可能である。ヴェルフリンの理論に立脚すれば、我々は彼が対象にした「ルネサンス/バロック」の様式上の差異原理以外にも、同じ視点を立てて分析することが可能となる。(ルネサンスは、ヴェルフリンにとって「イタリアの国民的長所の本来的開示」であった)
「人は<形式>において自然を見るのであり、芸術は<形式>においてその内容を表現する」、あるいは「いかなる種類の自然再現も、既に一定の<装飾的図式>の中で進行する」といったヴェルフリンの確信に満ちた信条は、美術史の中にはいかなる「特異点」も存在せず、一切はまず社会的文化的背景に基く「様式上の差異」原理が機能していることを意味する。ある様式において傑出していたり、稀有な個性を有する芸術家は、続く次の様式においては「規範」の一様態に過ぎない。一切は「様式」の差異が反復しているのである。
我々がヴェルフリンをブルデューの趣味論(芸術論)と相関させる最大の理由がある。ブルデューは「眼は文化的産物である」と述べ、事物がどう「見える」のかは、個人が有する文化資本、学歴資本、社会関係資本の多寡によって差異化しているという社会的構造を暴き出した。ヴェルフリンはブルデュー以前に、既に序で以下のように類似することを述べている。

「<眼>がそれ自体で発展を成し遂げるとは、誰も主張しようと思わないであろう。<眼>は規制され規制しつつ、常にほかの精神的領域と干渉を持つ。自己の前提からのみ生じ、いわば生命なき型紙のように世界に押し付けられる視覚的図式は存在しない。しかし、人は常に自分が見たいように見ているのだとしても、このことはあらゆる変遷の中で一つの法則が作用している可能性を排除しない。この法則を認識することが、科学的美術史の主要問題であり根本問題である」(p26)


ヴェルフリンは「自己の前提からのみ生じ、いわば生命なき型紙のように世界に押し付けられる視覚的図式は存在しない」と述べているが、これはブルデューの『ディスタンクシオン』の定式である「眼は文化的産物である」と交換可能である。換言すれば、我々が芸術作品を「観る」つもりであるなら、何らかの「視覚的図式」(美学理論、視座の体系)が必要不可欠なのである。どのような眼差しも、常に何らかの「図式」を通過した上で解釈されている。


○ 「ルネサンス(クラシック)とバロックの差異」


以下に極めて名高いヴェルフリンの「五つの差異化原理」を記載する。ただし、これはその後の美術史研究者が述べているように、多少の判り難さを孕んでいる。そこで、まずヴェルフリンが規定した五つの差異化原理をまずそのまま列挙した上で、わかりにくい点を彼の言及している内容に基いて“言い換え”てみようと考える。

【ルネサンス(クラシック)】

(1) 線的なもの
(2) 平面的なもの
(3) 閉じられた形式
(4) 多数的なもの
(5) 絶対的明瞭性

【バロック】

(1) 絵画的なもの
(2) 深奥的なもの
(3) 開かれた形式
(4) 統一的なもの
(5) 相対的明瞭性


以上が、ヴェルフリンが規定するルネサンスとバロックという二つの様式を差異化する原理である。原理は五つあるが、このバロックは今日でいうマニエリスム(プレ・バロック)とも連続している。
これら五つの原理の詳密な展開こそが、ヴェルフリンの主著である本書の内容なのである。
まず、我々は(1)~(5)までの二つの様式上の対比的な差異原理についてヴェルフリンの記述を丁寧に読み解いていきたい。最後まで説明が終わって、これらの原理の具体的な意味-内容が可視化された時点で、この判り難い(1)~(5)の表現を、予告したように“言い換え”てみようと考えている。


(1) 「線的なもの/絵画的なもの」


【ルネサンス/線的なもの】

「クラシックの素描の輪郭線を絶対的な権力を行使する。輪郭線が事実的な形を強調し、装飾的現象の担い手となる。輪郭線が表出を担わされ、輪郭線の中に全ての美が宿る」(p47)。
ルネサンスにおいては、可視性そのものが徹底的にくっきりした「線」に隷属していた。代表例としては、ジョルジョーネ《横たわるウェヌス》、ラファエルロ《システィーナの聖母》であるが、以下のように他の諸作品にも同じ特徴がすべからく見出せる。
デューラーの《エヴァ》は、確かに輪郭線がくっきりしている。
アルデグレーヴァーの肖像画でも、実にくっきりした輪郭線が描かれている。
ホルバインの衣装は、襞による陰影が濃厚である。
ヴォルフ・フーバーの植物画では、葉の一枚一枚、幹、枝までもが全て印象的なまでの濃い「線」で表現され、縁取られている。こうして、個々の事物の存在感が強調されている。
また、ヴェルフリンはドイツ画に関して、「根本的にドイツは線的なものが嫌いである」とも解釈している。

【バロック/絵画的なもの】

「絵画的なもの」とは、「可触的性質(触れるかのような立体的な躍動感)」、「輪郭と面」が際立つことにその特徴があり、カラッチ(絵画)とベルニーニ(彫刻)に顕著に見出すことができる。
レンブラントの裸婦では、輪郭線がぼやけていて、影によって生成されたような印象を与えられる。独特な「浮遊感覚」が「線」に優越する。
リーヴェンスの頭部像では、線が消失したり、突然強調されたりとリズミカルである。全体的には輪郭線は薄く、どこか幽霊的でもある。
メツーの衣装は、画面の中に溶け込んでおり、陰影は濃くない。
アドリアーン・ファン・ド・フェルドの風景画においては、「色彩」によって「線」がその機能性を弱化させているのが判る。「霧のヴェールに包む」ことで、個物の存在感よりも、全体的な「雰囲気」が重視される。
絵画的なものの系譜の最後に位置するのはゴヤである。

【周期性】

ヴェルフリンの「周期性」の概念に基く簡易的な予測によれば、15世紀半ばのルネサンスは「線的なもの」の優越した様式であり、17世紀になると「絵画的なもの」が優越し始める。これは18世紀後半まで続くが、19世紀になると再び「線的なもの」(新古典主義)が復興する。すなわちここには抽象化された「線的なもの/絵画的なもの」という概念の変遷における、「周期性」が窺える。
換言すれば、美術史は常に「クラシック(古典主義、規範の構築)」と、「バロック(規範からの逸脱、ねじれ)」を反復しているということである。したがって、新古典主義は15世紀半ばの「クラシック」の諸原理の再現前である。もちろん、これも新しいバロック的原理によって駆逐されていく。


(2)「平面的なもの/深奥的なもの」


【ルネサンス/平面的なもの】

「16世紀には平面への意思があり、図像を舞台の前端と並行に置かれた層として考える」(p111)。
ルネサンスの絵画空間は平面的であり、たとえ舞台のように装置として想定したとしても、事物は並列的で、「横列の層」を成している。換言すれば、ルネサンス的絵画空間は、垂直/水平線によって構成された様式である。

【バロック/深奥的なもの】

「17世紀には眼から平面を取り除き、平面の価値を低下させ、平面を見えなくする傾向がある。こうして前後の関係が強調され、見る者は深奥との結びつきを余儀なくされるのである」(p111)
バロックの絵画空間は「奥」へと向かっており、常に「襞」のように視点が折り目を持っている。因みに、クラシック以前の15世紀にも、17世紀のバロックにおける「深奥的なもの」は見出せる。


(3)「閉じられた形式/開かれた形式」


【ルネサンス/閉じられた形式】

「閉じられた形式」(構築的様式)では、画面の「余白」まで満たされて描かれている。ルネサンスの絵画においては、額縁は作品とほぼ一体的である。装飾性によって、あるいは空間的配慮によって、絵と建造物、額縁は連続している。
また、画面の両半分が「均衡」を志向している点も特徴である。絵画空間がシンメトリカルか否かという視点は重要であり、クラシックにおいては法則化してこそいないが、構図的にはシンメトリカルになり易いとされる。例えばラファエルロの《論議》は、天上の雲の長さがキリストを中心にしてシンメトリーであった。
クラシックでは人体の黄金比に基くシンメトリーも神聖視された。この様式は「自然=宇宙=法則性」という規則で貫徹され、それが守られ、それに基いて絵画の原理まで構築された時代であった。換言すれば、ルネサンスの美的原理それ自体が、クラシックの体系内で閉鎖している(限界付けられている)のである(ドゥルーズ&ガタリのいう、ツリーに相当する)。
ルネサンスという一つの抽象機械そのものが、「クラシック以前の世紀は無意識的に構築的な時代であった」(ヴェルフリン)というテクストにも見出されるように、中世神学以来の閉鎖的な宗教システムであり、本質的に樹木状の体系であったということができる。
色彩の調和と、シンメトリーは「閉じられた形式」を持つルネサンスの特徴である。
ラファエルロの《奇蹟の漁獲》、《アテネの学園》、デル・サルトの《マリアの誕生》などが代表例として例示される。


【バロック/開かれた形式】

バロックは、クラシック時代の「安定した配分法」を「生気のないもの」として退けた。バロックが求めるのは、「生き生きした気息、流動性」である。美の原理も必然的にクラシック的な美的規範体系の外部へとはみ出していき、限界付けられていない。つまり、システムとして見ればバロックは「開かれた形式」(非構築的様式)なのである(ドゥルーズ&ガタリのいうリゾームに相当する)。
バロック的絵画空間においては、画面は周辺の余白から離れている。つまり、最初から額縁に近い部分には瑣末なものしか置かれない。額縁からの遠ざかりは、ピーテル・ヤンセンスの室内画において顕著に見出せる。
ラファエルロの《論議》における雲は、バロック時代の模作において右端が短くなっており、シンメトリーは意図的に破壊されている。
また、グリューネヴァルトの描いたキリストの後光は、ルネサンスの一般的な規範として描かれるものであったが、バロックのレンブラントがそれと同じ表現を踏襲する時、それは「擬古的」な調子を帯びたものとなる。


(4)「多数的なもの/統一的なもの」


【ルネサンス/多数的なもの】

ルネサンス絵画においては、絵画の中の事物(各部分)が独立して語りかけることが可能である。また、部分は全体の有機的連関の構成要素でもありうる。
例えばダニエーレ・ダ・ヴォルテッラの《キリスト降下》は、人物たちがそれぞれ独立しつつ、しかも互いに協力している。部分の独立が可能でありつつ、全体の構成要素としても活きているわけだ。ヴェルフリンはこれを「分節された形式体系」と呼称している。
このように、ルネサンス絵画では部分は独立しており、断片化可能である。因みに、クラシック以前の絵画には「散漫」、「ばらばら」、「過剰なものの錯綜」というバロック的特徴を見出せる。

【バロック/統一的なもの】

バロック絵画においては、人物、事物たちは全体的に溶け合っており、部分的には抜き出せない。抜き出すと部分は即座に意味を失効してしまうのであり、この点でバロックは「統一的なもの」である。例えばリューベンス(バロックの唱道者の一人)の絵画にこうした特徴が顕著である。
バロック絵画は「無限の流れ」であり、「主導的な総体的モティーフの出現」がその特徴である。
このように、バロック絵画では全ては繋がり合っており、断片化(部分が独立して存在を主張できる)の力はルネサンスよりも弱化している。


(5)「絶対的明瞭性/相対的明瞭性」


【ルネサンス/絶対的明瞭性】

この五つ目の規定は、(1)~(4)の意味の異表現であり、以下のようにまとめることができる。つまりルネサンスの「明瞭性」とは、輪郭線のくっきりし、個々の事物が独立して存在感を発揮でき、しかも作品そのものはクラシックの美的規範内部で閉鎖しているということである。これを一言でいえば、「絶対的明瞭性」だといえる。

【バロック/相対的明瞭性】

相対的明瞭性とは、「不明瞭性」のことであり、要するに輪郭線よりもマッス(量塊)で捉えられるようになり、個々の事物は全体的で一つの雰囲気を形成しているのでけして個別的に部分として独立しえないということである。
「17世紀は形をのみこんでしまう“暗さ”の中に美を見出していた」とされ、印象主義も「線的なもの」よりもマッスと色彩で画面を構成する点で「不明瞭性」としてのバロック的原理を受け継いでいる。


○ 五つの分類原理の再解釈


【ルネサンス(クラシック)】

(1) 線的なもの→「輪郭線によってくっきり描かれる」
(2) 平面的なもの→「奥行きは並列的で、横の層として描かれる」
(3) 閉じられた形式→「美の原理・規範(完全な比例)の枠内で自己充足している」
(4) 多数的なもの→「個々の事物は部分として独立可能」
(5) 絶対的明瞭性→「明瞭」

【バロック】

(1) 画的なもの→「あたかも触れるようなマッス、面の躍動感」
(2) 深奥的なもの→「事物の前後関係が斜めに屈曲したりして複雑化する」
(3) 開かれた形式→「ルネサンスの美的原理を放棄した、システムの外部へと逃走し続ける動的原理(生成)」、「興奮と運動」(ブルクハルト)
(4) 統一的なもの→「個々の事物は緊密に全体の中に溶け込んでいる」
(5) 相対的明瞭性→「不明瞭」



○ 「まとめ」


そもそも、何故「様式」は変化するのであろうか?
この本質的な問いについてヴェルフリンは本書の最後の「まとめ」で考察している。ただ、回答自体は「序論」の以下のテクストに既に見出せる。

「バロック美術が線を消して、その代わりに動きのあるマッスを取り入れるならば、それが起こるのは新しい自然の真のためばかりでなく、新しい美の感情のためでもある」(p23)


「新しい美の感情」の背景にあるのは、文化的社会的背景である。ヴェルフリンによれば、人間の「直覚形式(視覚の体制)」それ自体は、(1)文化的社会的背景、(2)文法とシンタクスによって差異化する。時代が動けば様式も変わる。それは社会が変化したことで人間の事物に対する視点が変化したことを受けている。
ヴェルフリンは「まとめ」で以下のように述べている。

「異なる時代の作品を並べて眺め、それらが<自分に与える印象>から出発するならば、美術史の中に誤った判断が入り込むことになる。それらの異なる表現方法を純粋に情趣的に解釈するわけにはいかない。それらは異なる言語を話すのである」(p332)


ここでヴェルフリンは自分の素朴な印象で、異なる時代の作品をそれぞれ好き勝手にピックアップして語ることが、美術史においていかなる貢献も果たさないと強調している。それでは、「皮膚」のテマティスムから美術史を新たに再構築しようと企てた谷川渥のような美学者の研究はどうなるのであろうか?
私が考えるに、ヴェルフリンが「美術史」を紐解く上で拠り所にしている概念は「様式」であり、これはそのまま美術史の概念である。谷川の場合、「様式」より「皮膚」の概念が先立っているため、異なる時代の諸作品を同じコンセプトの下で驚異的に集結させて論じることが可能である。換言すれば、ヴェルフリンが批判しているのは「単なる印象論に堕した美術評論」であって、「美術史をある概念から再構成する」行為ではない。ゆえに、谷川の研究はヴェルフリンの美術史の理論と矛盾しない。何故なら、谷川は「皮膚」の概念を軸にして美術史を横断し、新しい美術史の視座を提供したからである。

「どんな形式のもとで観察されるかを知らない限り、自然観察とは空疎な概念である。自然模倣の全ての進歩は装飾的感情に根差すものである。…絵画の歴史は付随的にばかりでなく、まったく本質的にも装飾の歴史である」(p336)


これは「序論」でも一貫し、「まとめ」でも再度強調されているヴェルフリンの理論の骨子、定式である。それはまた、ブルデューのいう、「見る」あめには「文化的産物としての眼」が必要であるということと本質において同じである。社会学者ブルデューを「美術史」へと脱領土化させた人物こそがハインリヒ・ヴェルフリンその人であろう。二人は「眼」の仮設的体制の概念の点で一致するのである。

「全ての芸術的直観はある種の装飾的図式に拘束されている。あるいは――同じ言い回しを繰り返すが――可視的なものは<眼>のためにある種の形式のもとで結晶する。しかし、全ての新しい結晶形式の中で、世界内容の新しい側面も現れ出るであろう」(p336)


「全ての芸術的直観はある種の装飾的図式に拘束されている」とは、換言すれば「あらゆる芸術作品は例外なく様式の枠内にある」ということである。これは「様式」抜きに個別的な作品を位置付けることは不可能であるということもである。アウトサイダーアートは一つの「分類上」の、いわば「亜様式」であり、これも全体的に俯瞰すれば幾つかの共通した諸原理に分類可能であろう。一切の作品から、こうして「画家名」が消え、「様式名」だけが残ることになる。ヴェルフリンの名高い「人名なき美術史」とは、まさにこれをいうのである。
忘れてはならない「まとめ」での要点としては、まずヴェルフリンがブルデュー的な「眼の構成主義」に立脚している点と、「眼の差異」が生まれるのは「ハビトゥス」に基くという点で通底することである。
更に、西欧美術の様式変遷は一定の法則化した「周期性」を有し、語の抽象的意味において「クラシック」(規範の構築)と「バロック」(規範の破壊)を絶えず繰り返す。この点では、先の「五つの差異化原理」は、今世紀以降の来るべき様式の諸特徴にも類似したものを見出せるのではないか、という一つの予測を立てることができる。
ルネサンスという規範の時代があり、続いてバロックという規範破壊の時代があり、1800年頃に再び「新古典主義」という規範(クラシック)が再現前する。こうした様式上の変化が際立っているのは、端的に「建築」分野である。
分類原理は絶えず意識していかねばならない方法論である。例えば同じゴシック建築でも、イタリアとドイツでは当然ながら差異化できる。一切は「分類」に基き、この差異の体系が「美術史」(様式史)なのである。
ヴェルフリンの取った方法論には問題点も指摘されているが、現代でも大いに活用可能な、ラディカルな理論であることがこれで証明できたのではないだろうか。何故なら、芸術作品を論じるうえで、今日「美術史」を何も学んでいないような人間など一人もいないからである。その中から、個別具体的な画家よりも、むしろ社会的システムの一部である様式というマクロな単位に興味を持った人間が現れてもおかしくはない。彼にとっては、ヴェルフリンの理論はまさに天恵ではなかろうか。





「ロマネスク、ゴシック、ルネサンスまでの流れについて」

(1) ロマネスク 11世紀後半~12世紀


安定した農村社会の中心である修道院が、学問・美術の発信基地であった。修道院建設も盛んであり、質素なクリュニー会と、荘厳なシトー会が代表的なものであり、各派によってそれぞれ図像表現も差異化している。


(2) ゴシック 12世紀後半~15世紀


各地に聖母のための聖堂が相継いで建立された時代である。この時代の精神を最も顕著に示唆しているのは、建築である。基本的に、シュジェール修道院長のもと、サン=ドニ修道院の内陣が献堂された1144年から、「ゴシック」時代が始まったと考えられる。
ゴシックという語は、ゲルマン系部族の「ゴート」に由来する。
盛期ゴシック時代の代表的な美術としては、ステンドグラスがあげらえる。14世紀になると「シスマ」、「ペスト」、「英仏百年戦争」などが起こり、社会情勢は悪化するが、14世紀後半になるとヨーロッパ各地に「国際ゴシック様式」が花開く。建造物としては、《ルーアンのノートルダム大聖堂》が名高い。
ゴシック時代の重要な芸術家には、以下の人物がいる。( )内は注記。


・ ジオット
・ マルティーニ
・ ピサネッロ(ロンバルディア地方)
・ ジャン・ド・ブリュージュ(シャルル5世の宮廷画家)
・ ランブール兄弟(『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』)
・ メルヒオール・ブルーデルラム
・ クラウス・ヌリューテル

P isanello

ピサネッロ《鶉の聖母》


(3) 初期ルネサンス 15世紀前半(フィレンツェ中心)


ルネサンスは、イタリア語の「リナシダ(再生)」に由来し、この言葉は後世が分類上名付けた時代様式ではなく、彼ら同時代人たちの実際的な「理念」を意味している。ギリシア・ローマ時代の芸術の復興、ヒューマニズムの回復を理念とし、共和国から有力商人たちの寡占によって統治されていた商業都市フィレンツェが舞台である。
初期ルネサンスの三人組としてまず記憶すべきなのは、ブルネレスキ(建築)、ドナテルロ(彫刻)、マザッチオ(絵画)である。この時代には絵画の分野で「透視画法(線遠近法)」も成立し、初期ルネサンスの世界観を体現している。


・ ブルネレスキ


《パッツィ家礼拝堂》は、初期ルネサンスの美学原理「調和と秩序」を体現する代表建築である。彼の建築方法は、後にアルベルティによって理論化された。


・ ドナテルロ


《ダヴィデ》はフィレンツェのシンボルでもあり、また「裸体」である「少年」という姿の旧約聖書中の預言者の姿として、ギリシア彫刻の「裸体性」への回帰が見出される重要な作品である(谷川渥の『肉体の迷宮』によれば、ギリシア・ローマのヘレニズム文化は基本的に〈裸体の文化〉であるが、キリスト教的ヘブライズムの文化は〈布の文化〉とされている)。ドナテルロには、明らかに「布の文化」から「裸体の文化」への回帰が見られる。

Donatello- David

ドナテルロ《ダヴィデ》

ドナテルロの彫刻は初期ルネサンス彫刻に重大な影響を与えた。
ロレンツォ・ギベルティ、
ルカ・デルラ・ロッビア、
ヴェロッキオ(レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠)などが彼について研究している。


・ マザッチオ


マザッチオは「遠近法」を成立させた画家として特筆される。初期ルネサンス絵画は基本的に「壁画・聖堂装飾」中心であるが、マザッチオはジオットを継承して「空間の奥行き」を表現するためにはどう描くべきかを考えた。二十六歳で早世したが、「一点消失透視図法」を発案するなど、ルネサンス絵画において決定的な影響を残している。マザッチオと比較されているのが、空間への配慮が乏しく遠近法における功績の少ないファブリアーノであるが、彼の画風には色彩的な美が感じられる。

マザッチオ 「貢の銭」
マザッチオ《貢の銭》


マザッチオの影響を受けた画家は数知れず、
フィリッポ・リッピ、
フラ・アンジェリコ、
ドメニコ・ヴェネツィアーノ、
ピエロ・デルラ・フランチェスカ(完璧な透視図法の統合)、
ボッティチェルリ、
マンテーニャ、
ベルリーニなどが存在する。

他方、15世紀後半のネーデルランド(ベルギー・オランダ)絵画も重要であり、ルネサンス文化のヨーロッパへの波及を感じさせる。代表的な画家は以下。


・ ファン・エイク兄弟《ニコラ・ロランの聖母》(彼らは室内と外景の完全な統合を実現したと同時に、奥行き豊かな遠近法を使って重要な作品を残した)。
・ ハンス・メムリンク
・ ファン・デル・フース
・ ロベール・カンバン
・ ジャン・フーケ
・ ファン・デル・ヴェイデン
・ ヒエロニムス・ボッス(ルネサンスにおいて「様式の持つ類型的同一性」の枠外に位置する異色の画家である)。
・ マルティン・ションガウアー(銅版画の発展に寄与)。

ヤン・ファン・エイク 「アルノルフィーニ夫妻像」

ヤン・ファン・エイク 《アルノルフィーニ夫妻像》

地上の虚栄と神の救済のトリプティク

ハンス・メムリンク《地上の虚栄と神の救済のトリプティク》

ファン・デル・ヴェイデン  十字架降下 部分Descent from the Cross

ファン・デル・ヴェイデン《十字架降下(部分)》


(4) 盛期ルネサンス 15世紀末~16世紀初頭(ローマ・ヴェネツィア)


初期ルネサンスが商業都市フィレンツェ中心だったのに対し、盛期になると文化的範囲はイタリアを越えて拡大した。特にイタリアではローマとヴェネツィアが拠点となる。この時期に活躍した芸術家たちは、19世紀半ばまでの支配的芸術観を形成させる。重要な人物はレオナルド、ミケランジェロ、ラファエルロ、ジョルジョーネ、ティツィアーノである。
また、初期ルネサンスが「自然模写」を美学原理としていたのに対し、盛期になると「幻想性」が浮き立ってくるという興味深い現象が垣間見られる。これは後に続くマニエリスムの特質である。その理由は時代背景にあり、「宗教改革」や、ドイツによる「ローマの掠奪」などの劇的な出来事が生起して、人々の意識が揺らぎを与えられ、「不安」や「混迷」が前景化してきたことの反映ともいわれている。
グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』で言及されているように、ルネサンス的個人主義の公理とは、マルシリオ・フィチーノの言葉「人間はDeus in terris(地上の神)である」によって表現される。これは神人同形説的(アントロポモルフ)な考えであり、神中心の精神から人間中心へとシフトしていることを反映している。
ホッケは20世紀の「シュルレアリスムの原型」を、盛期ルネサンスからマニエリスムへと繋がる時期に見出している。1500年頃のフィレンツェでその前兆ともいうべき「魔術」が流行していた点について、ホッケは以下のように述べている。

「魔術的な風景が形成される、世界は夢として、あらゆる秘薬の目もあやな象徴像として、汲めども尽きせぬ驚異の母胎と思い描かれ、神の秘密が世界のうちに反映されるのである」『迷宮としての世界』(岩波文庫上巻p116)

盛期ルネサンスは1527年の「ローマ掠奪」によって、マニエリスムへと移行することになる。
また、16世紀にヴァザーリは『芸術家列伝』を刊行している。彼は最初の美術史家として重要であるが、本書では「盛期ルネサンス」と「マニエリスム」という今日の分類上の差異は設けられておらず、双方は連続している。




・ レオナルド


《モナ・リザ》での「スフマート(ぼかし)」の技法と、「空気遠近法」などを駆使して、幅広い分野で重要な作品を幾つも残した(未完成が多い)。盛期ルネサンスを代表する芸術家の一人である。


・ ミケランジェロ


ネオ・プラトニズムの影響を受け、石塊という物質の牢獄から彫像を解放することを使命とした。ミケランジェロは、芸術とは本質的に芸術家個人の内的像に宿る「イデア」を表出することだと考えていた。
初期ミケランジェロは、古代ローマ彫刻の復活を理念とし、《バッコス》などのヘレニズム的「裸の文化」への回帰を見せている。《アダムの創造》の「アダム」は、この時代の理想的人間のモデルともいわれる。《システィナ礼拝堂天上画》、《サン・ピエトロ大聖堂》(新築工事)などを任されたが、特に《ジュリアーノ・メディチの墓碑》には、時代精神としての「不安」や「混迷」が具現化しているとされる。彼はメディチ家専属の建築家でもあった。

ミケランジェロ 「ジュリアーノ・メディチ家の墓」
ミケランジェロ《ジュリアーノ・メディチの墓》

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ミケランジェロ《ジュリアーノ・メディチの墓》(部分)

1524年頃に制作された《メディチ家礼拝堂》の有名な「仮面のフリーズ」では、おぞましい顔が並んでいる。また、1526年頃の《ラウレンツィアーノ図書館》の「玄関の間」では、古代ローマ風の神殿の円柱を、パロディ的に壁に埋め込んでしまい、その機能性を奪取して表象に堕すなど、既に「マニエリスム-バロック」の祖としての側面が垣間見える。
ヴァザーリは特に《メディチ家礼拝堂》の建築の新奇さを論じて、以下のように述べている。

「他の人々がそうしたように尋常の方法で、ウィトルウィウスや古代の典範に従って、比例、方式、規則に則って作り上げるのとは全く異なった風に――そういったものには頼りたくなかったからだが――作り上げた」ポール・バロルスキー『とめどなく笑う』p110


バロルスキーは、ミケランジェロの建築はその「幻想の剽軽ぶり」において「ラブレー風」であるとも表現している。
マニエリスムの特徴としてパノフスキーやホッケらがあげている「セルペンティナータ・シュティル(蛇状曲線様式)」を最初に進めたのはミケランジェロであった。20世紀においてパウル・クレーは、マニエリスムという「不安」の時代においてこそ、芸術は真に純化したのだと評価している。システィナ礼拝堂天上画における聖バルトロマイの「皮」として自画像を描いた彼について、ホッケは『迷宮としての世界』七章「美と恐怖」の中で、「迫害された挫折者」としてのミケランジェロ像を押し出している。ミケランジェロの性格について、ホッケは「巨人的な孤独への沈潜とサトゥルヌスのメランコリーへ向かう気質」と評しており、画家自身のテクスト――「わたしの歓びはメランコリー、わたしの憩いは憂悶だ」――にはこうした気質を窺わせるものがある。
続くマニエリスムにおける「マニエラ(様式)」とは、特にミケランジェロのスタイルに対して名付けられた表現でもあった。


・ ラファエルロ


彼はレオナルドやミケランジェロの方法論を学習し、盛期ルネサンス様式を代表する存在になる。マニエリスム、バロックの萌芽が観られるのみならず、17世紀から19世紀にかけての美術の絶対的規範として神聖視された。
アレグザンダー・スタージスの『顔』によれば、西洋絵画における「女性美」の顔の規範を創出した最初の画家(現実的な特徴の具体性より、イデア的な美化を重視した女性像を描く)としても評価されている。


・ ジョルジョーネ


彼は物語のプロットに厳密に従うよりも、画面全体の感情的魅力を追求し、初めから色彩によって造形した。こうした方法はヴェネツィアの画家たちに普及した。

ジョルジョーネ 「眠れるヴィーナス」
ジョルジョーネ《眠れるヴィーナス》


・ ティツィアーノ


色彩美と絵肌の魅力を追求し、「近代油彩画」の創始者と評価される。

ティツィアーノ 「イザベラ・デステの肖像」
ティツアーノ《イザベラ・デステの肖像》

ウェヌスの祭典
ティツィアーノ《ウェヌスの祭典》

この作品は、盛期ルネサンス絵画における「笑いと官能の一つの絶頂」(ポール・バロルスキー)と表現されている。

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ティツィアーノ《ウェヌスの祭典》(細部)

バッコスとアリアドネ
ティツィアーノ《バッコスとアリアドネ》

盛期ルネサンスにおいて、「バッコス」は当時の社会の通俗性、卑俗性の象徴でもあった。

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ティツィアーノ《バッコスとアリアドネ》(細部)

バッコスと アリアドネ
ティツィアーノ《バッコスとアリアドネ》(細部)

サテュロスの少年は牛の首を引きながら歩いている。

アンドロス島のバッカナリア
ティツィアーノ《アンドロス島のバッカナリア》


・ピエロ・デ・コジモ


盛期ルネサンスにおいて最も特異な画家として名高いのが、ピエロ・デ・コジモである。彼の代表作の一つが、ボッティチェリの《ウェヌスとマルス》の有する優美な趣を性的に誇張した同名の作品である。この作品について、「機知・滑稽」のテーマからルネサンス‐マニエリスムの絵画を再構成したポール・バロルスキーの論稿『とめどなく笑う』の二章でのピエロ論には、以下のように記されている。

「ピエロの絵の兎は、ヴィーナスの豊饒性の象徴になっていると思えるし、その一方では情景の性的な性質に対するスケルツォ(揶揄)でもあるように見える。この動物は、ヴィーナスの臀部越しに顔を覗かせ、ヴィーナスの秘部を覆う薄衣を握り締めるクピドの手に鼻を擦り付けている。兎を意味するラテン語のcuniculusは、女性性器を意味するcunnusにかける地口としてルネサンスには度々用いられたのである。例えばポリツィアーノが『乙女に』の冒頭の数行で、カトゥルスに倣って恋人を兎に譬え、Puella delicatior lepuscolo et cunicoko(小さな野うさぎよりも家うさぎよりも柔らかき乙女よ)と歌っているが、これなどが良い例である。ピエロの絵では兎がヴィーナスの秘部のごく近くに置かれていることからしても、画家が同様なことをいわんとしていたものと思われる。ピエロの絵の露骨な性的表現はまら、アントニオ・アラマンニの同時代のソネット作品の冒頭の数行、“マルスは腰布の下から狙う/ヴィーナスの脚と脚の間に一突きせんと”に一段とあからさまに表現されたようなユーモアを思い出させもする」p78


PIERO-DI-COSIMO- Venus-Mars-and
ピエロ・デ・コジモ《ウェヌスとマルス》

要するに、この絵はヴィーナスと若き軍神マルスが、おそらくは激しい愛欲に憑かれて性の饗宴を遂げたであろう時間の、「直後」を描いている。ボッティチェリよりもピエロは性的な側面を強調しているわけだ。

Piero di Cosimo  蜂蜜の発見
ピエロ・デ・コジモ《蜜蜂の発見》

シレノスの災難
ピエロ・デ・コジモ《シレノスの災難》

ピエロの代表作《蜂蜜の発見》は、オウィディウスの『祭事暦』が典拠になっていると考えられる。この作品では、でっぷりと太った笑う小男シレノスや、サテュロス、バッコスなどが登場しているが、彼らは浮かれ、酩酊していることから、atti rozzi e brutti(醜く猥雑な振る舞い)などとも表現されている。この絵は《シレノスの災難》を含め、「ストリエ・バッカナリア(酒神祭の物語)連作であり、ジョヴァンニ・ヴェスプッチのために制作されたと伝えられる。バロルスキーは《蜜蜂の発見》の異様な「滑稽さ」に注目して、本作はヤン・マビューズ(ヤン・ホッサールト)の《ネプトゥヌスとアンフィトリテ》における「貝殻ペニス」に匹敵するほど奇妙で、どこかエロティックであると記している。


・マティアス・グリューネヴァルト

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イーゼンハイム祭壇画(Isenheimer Alter)1512-1515年頃
269×143cm | Oil on panel | Musee d'Unterlinden, Colmar

「The Crucifixion 磔刑」

私が最も敬意を寄せている磔刑画。
イーゼンハイムの祭壇画は、まずこれが扉になる。
これを開くと中から「キリスト復活」が現われる。
つまり、閉じている状態では「磔刑」が。
開いている状態では「復活」が、というように、開閉行為が「磔刑」「復活」と概念的に照合しており、グリューネヴァルトの天才的な独創性を窺わせる由縁である。
ちなみに、子羊は聖体拝領のシンボルだとされる。


グリューネヴァルト(1470/75-1528)も時代的には盛期ルネサンスと重なるが、彼は20世紀に再評価されるまで長らく日の目を浴びないでいた。
1531年の時点で、既にメランヒトンはデューラー、クラナッハと共にドイツ絵画の代表者として彼を位置付けているが、奇妙にも以後は忘却されてきた。
この「忘却の謎」には、実は政治的な理由があると研究者の間では考えられている。というのは、彼はドイツ農民戦争に「農民軍」として加担して敗北したという履歴を持っているのである。
そもそも、彼はルター派の教えに強いシンパシーを覚え、常に農民には共感を抱いて暮らしてきた。戦争の火種になったニクラスハウゼンに近い街ヴェルツブルクに出生地を持つ彼にとって、ドイツ農民戦争でどちらの味方になるべきかは、既に答えが出ていたのである。
しかし、戦争は農民軍の敗北に終り、結果的に彼は宮廷画家としての地位を喪失、フランクフルトに亡命することになってしまう。フランクフルトでも不穏な日々を余儀なくされた彼は、その後逃亡者としてハレに身を潜めている。そして、以後この卓越した画家の偉大な画業は意図的に「抹消」され、歴史は20世紀になるまで彼の復活を赦さなかったのである。
逃亡した後のグリューネヴァルトは、一体何をして生活していたのだろうか? 無論、「画家」としては最早公認されていない。彼は「絵の具屋」、「石鹸屋」、「風車設計士」などで細々と生活を立てていたとされる。
このように、彼の生活は、実は大作《イーゼンハイム祭壇画》における「キリスト磔刑」の宿す悲劇的な様相と重なっているのである。いわばグリューネヴァルトの苦難に満ちた人生の象徴としても、この作品は大きな意味を持っていると解釈できるわけである。
グリューネヴァルトの名高い磔刑図は、キリストの身体の「物質性」を徹底的に追及することによって、逆説的に「聖性の開示」にまで到達した稀有な例である。この絵は《イーゼンハイム祭壇画》が「閉じた」状態において正面に存在する作品だが、「開いた」状態になると「キリスト復活」が現れる。祭壇画の開閉構造に、ちょうどキリストの「死」と三日後の「復活」という神学的意味が象徴的に二重化されているわけである。
我々は扉を「開く」と、「キリストの復活」を目にすることができる――ここには、祭壇画の構造そのものを利用したグリューネヴァルトの天才が感じられるに十分である。
日本芸術院会員でフランス文学者、美術評論家としても名高い粟津則雄氏は、『自画像は語る』の中のグリューネヴァルト論で、この画家の「聖性」について以下のように印象的なテクストを残している。

「聖性は、人間を聖性から切り離し、その物質性の極点まで追い詰めることによって、物質性のなかに絶対的に閉じ込めることによって、初めて掴み取り得るものなのである」(p215)


また、粟津氏は謎が多いグリューネヴァルトの「肖像画」について、少なくとも以下の作品群に断片的に自画像が描かれているという研究を紹介している。

・ 『リンデンハルトの祭壇画』の聖クリストフォルス
・ バーゼルにある『キリスト磔刑図』におけるローマ百人隊の隊長
・ 『キリスト嘲弄』におけるターバンを巻いた男
・ 『イーゼンハイム祭壇画』における聖セバスティアヌスや使徒ヨハネ、そして隠遁者聖パウロ
・ 『雪の奇蹟』の貴族
・ 『聖エラスムスと聖マウリキウス』における聖堂参次会員





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