† 美学 †

小針由紀隆『ローマが風景になったとき――西欧近代風景画の誕生』

ローマが風景になったとき―西欧近代風景画の誕生ローマが風景になったとき―西欧近代風景画の誕生
(2010/02)
小針 由紀隆

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近代ヨーロッパにおける風景画黎明期について、ローマで活動した画家たちを中心に論じた小針田紀隆の『ローマが風景になったとき――西欧近代風景画の誕生』(2010)を読了したので、その記録を残しておく。
慶応義塾大学大学院、フィレンツェ大で学び、国立西洋美術館客員研究員として美術史を講義している著者の専門は17世紀から19世紀前半のイタリアにおける風景画に関する諸問題であり、いわばヨーロッパ近代風景画のスペシャリストである。

○ 近代風景画の成立背景

風景画が一つのジャンルとして公認されるために重要な役割を果たしたのが、フランス・アカデミーに風景画部門を創設させるためにpaysage historique(歴史的風景画)という新しいカテゴリーを考案したピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ(1750-1819)であった。パリ王立絵画彫刻アカデミーの分館として1666年にローマに設置されたフランス・アカデミーにはローマ賞という画学生のための制度が設けられていたが、これはあくまでも「歴史画」部門に限定されていた。
既に前回の記事でも見たように、絵画はその描かれるジャンルによって厳格にヒエラルキーが存在したのである。近代風景画の確立に多大なる貢献を果たし、『実用遠近法入門』(1800)によって後の印象主義の時代からも理論面で重視されたこのヴァランシエンヌの存在は、近代西欧風景画を語る上で避けては通れないものとして位置付けられている。
彼の尽力により、paysage historiqueは1816年にアカデミーで公認され、1820年代(新古典主義)には近代風景画の礎石が成立していたと解釈されている。この年代の特徴としての、風景画成立の諸条件としてあげられている四つは以下である。

(1) ローマ賞での歴史的風景画部門の創設
(2) 理論的な風景画論が刊行される
(3) 風景画家がアカデミーに招待される
(4) 18世紀グランド・ツアーに連なる戸外制作による油彩スケッチのピーク



歴史的風景画が公認されたのは1816年だったが、既に1724年の段階でアカデミー館長ニコラ・ヴルーゲルは、ティツィアーノ、プッサン、カラッチと同じく「ローマ周辺の自然や見慣れぬもの」を描くように画学生たちに指導していた。フランス人にとって、イタリアはエキゾチックでピクチャレスク(絵画的で奇異な場所)だったのである。
では、こうした19世紀初頭のフランスにおける風景画の伝統とその源泉はどうなっていたのだろうか? 著者は少なくとも以下の三つの伝統をあげている。

(1) 17世紀ローマの古典的風景画の伝統(カラッチ、ドメニキーノ、プッサン、ロランの中でも、特に1810年代にはプッサンが崇敬された)
(2) 17世紀オランダの写実的風景画の伝統(ヤン・ファン・ホイエン、ヤーコプ・ファン・ライスダール、マインデルト・ホッベマ)
(3) 1830年代からは、特にイギリスのコンスタブルが重視される。


特に(1)は新古典主義時代の風景画に貢献した。(2)と(3)は1830年代から再評価されていく。


○ 近代的な概念としての「エチュード/断片性」


著者が近代風景画を論じる上で非常に重視している概念が、「習作」と「下絵」である。完成作ではないこれら断片的なものは、大きく三つに大別される。

(1) étude(習作)/エチュード

これは「風景画家」にとってのデッサンを意味する。エチュードは1856年の辞典によると、既にそれ自体で「作品」として認められている。
エチュードは自然に基いて描かれた「部分」であり、断片性、多中心性という概念を既に含意している。

(2) esquisse(下絵)/エスキス

これは「歴史画家」にとっての、完成作のための想像力に満ちた解釈、企てを意味する。

(3) ebauche(練り上がった下絵)/エボーシュ

エスキスの更に練り上がった次の段階である。



この中でも特に言及されるのが、エチュードである。
著者によれば、「風景習作(エチュード)は、伝統的な芸術実践の内側に抜け道――リアリズムを要求する近代絵画に繋がるバイパス――をつくることを可能にしたのだった」(p74)とあり、近代絵画の萌芽が風景画のエチュードにこそ見出せる点が強調されている。
エチュードとは必然的に戸外制作における観察によって描かれた「自然の断片」であり、しかもそれは完成作へと繋がらない(エチュードとして終了するもの)ものも多い。世界を自分の直覚に基いて切り取るエチュードの視座は、ターナーの「今日目にしているように、私たちには断片bitsから作り上げられた絵画ではなく、<断片の絵画>が残されているのです」という講演(1811)にも読み取れる。この自然を主観性に基いて切り取る視座は、クロード・ロランの方法論でもあった。社会制度の変化に応じて起こった「近代的な視」の様式として、風景画習作における「断片性」の概念は評価されている。
そもそも、風景画には方法論において二つの種類がある。一つは、理想化され、あるべき姿として描かれた自然である。もう一つは、「眺めの風景画」ともいわれ、断片を主観的に切り取り、そのありのままの姿を描写するものである。ボードレールは、近代風景画の成立において重要だった後者のスタイルを批判した。彼によれば、「写真」も芸術足りえないものに過ぎなかった。しかし、後に紹介するトマス・ジョーンズの《ナポリの壁》は、写真のように自由に都市の断片を切り取ったスタイルを見せており、その点ではこの当時新しかったメディアと相関的である。
著者もボードレールの絵画鑑賞能力に疑問を感じていて、今日では自然の断片を主観的に切り取った風景画も、一つの「詩」のあり方として充分通用していると解釈している。
本書の「おわりに」で、著者はロダンにおける1880年代の人体断片の制作(いわゆるabattis/四肢)を、「断片化していても一つの作品としてみなせるもの」として、風景画習作と接続させている。著者の考えによれば、「近代性」は風景画史から見た場合、1780年代からローマ周辺で動き出していたとされる。

○ 近代風景画の舞台

(1) ローマ

18世紀のグランド・ツアーブームに伴い、古典主義から「自然」重視のスタイルへの変化が起きたのがローマである。ローマの当時の人口は15万前後で、その2/3はカンパーニャと呼ばれる緑野であった。この頃、風景を描く際に、「あるがままの自然」をそのまま描くべきか、それとも「理想化された自然」を描くべきか、というテーマが浮上した。近代風景画成立に貢献した風景画家たちが取ったスタイルは、主観的に自然から切り取った断片をあるがままに描くというものであった。
ローマはフランスの画家たちから、そのエキゾチックな側面を評価されていたが、実際には寂れて退廃的な街角も存在した。「壮麗/醜悪」、「高貴/卑賤」が際立って特徴的な街だったのであり、それがいっそう風景画家たちの関心を惹いた。
ローマだけでなく、イタリアのナポリ、ティヴォリも舞台として好まれた。

(2) フォンテーヌブロー

イタリア留学をアカデミーから約束されたエリート画家とは違い、留学できなかった他の多くの画家たちは「イタリアの代替地」としてフランスのフォンテーヌブロー、アルダンヌ、コンピエーニュ、ヴィレール=コトレ、ナヴァールの森などを舞台として見出した。特にフォンテーヌブローは後に印象派のモネ一派らも描いた「戸外制作のためのもう一つ学校」であった。
この森はもともと王侯貴族の娯楽地であったという。写真家ギュスターヴ・ル・グレ(1820-1882)などが撮影した当時の森の様子が今日にも伝わっている。
また、フローベールの『感情教育』にも、この森についての具体的描写が登場する。戸外制作のブームによって、この森で風景を描くアマチュアリズムも続出した。


○ 近代風景画黎明期の画家たち


(1) クロード・ロラン(1604-1682)

ロランは19世紀初頭の近代風景画家たちからカノンとして尊敬を集めた画家の一人であり、風景画というジャンルにおいて先駆的存在として位置付けられている。ロランは友人の画家仲間たちと自然観察に出かける「戸外制作」のスタイルを行っていた点でも特筆されている。これはテントを用意する、18世紀のグランド・ツアー流行に近いもので、彼はそこで様々な風景習作を描いていたと考えられる。
ベラスケスの《ヴィッラ・メディチの庭園》と、ロランの《山羊飼いのいる風景》が本書でも掲載されているが、これらの風景画は19世紀初頭の風景画家たちにとっても大きな影響を与えていたと考えられる。シャトーブリアンからもその才能を絶賛されていたロランは、森に自らの「居場所」を見出す心性を持っていた。
ロランの制作の秘密について、本書でM.キトスンの貴重なロラン評が引用されている。

「素描することによってクロードは、“自然の中で行った、変わり行く大気と光の多様で実に見事な観察”を、自らの記憶に固定したのだった。したがって、アトリエで制作するときに彼が必要とした効果とは、いわば心象によって補完される部分だった。そうした記憶は再生され、彼の絵画様式の中で理想化されたイディオムへと意のままに変形されえたのである」(p29)



(2) ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ(1750-1819)

先述したように、彼は近代風景画の確立に多大なる貢献を果たし、『実用遠近法入門』(1800)によって後の印象主義の時代からも理論面で重視された。「戸外制作」(実際に外に出て自然を観察しながらデッサンを描く行為)というスタイルでも大きな影響を与えた画家である。彼は因みに、戸外制作においては30分から二時間程度でスケッチするのが望ましい(空は刻一刻と様相を変化させるので)とした。
彼は風景の中でも特に「木」を重視し、「最高の装飾」であるという考えに共感していた。彼の断片的なエチュードは完成作と直接結び付かないものも多く、それらはアトリエに堆積しつつ、教材としても利用された。彼は大都会での快さは常に偽りに過ぎず、真実は常に大自然にこそあると信じていた。彼がイタリアでスケッチした風景画は、やがて彼のノスタルジアへと変わっていった。
《木の幹の習作》には、ヴァニタス画にはない、どこか落ち着いて静謐な、エチュードならではでの温かみが宿っている。

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(3) トマス・ジョーンズ(1742-1803)

18世紀後半のイギリスの風景画家たちは、ローマに修行にやって来ていた。トマス・ジョーンズはその一人であり、20世紀中頃に再評価され始めた注目の画家である。彼は観光名所として優れたヴェスヴィオ火山が周辺にあるナポリ(そこには貧困に喘ぐ界隈も存在する)に滞在した。この1782年でのナポリ滞在期間の作品群が、後に「早熟のモダニティ」と評されるものである。
最高傑作の一つ《ナポリの壁》は、現代スペインの画家ロペス・ガルシア描いたの乾いたクールな都市の片隅や、エドワード・ホッパーの寂寥、ハンマースホイの孤独で静謐な室内画を感じさせる世界とも感覚的に通底している。「壁との交感」ともいわれる極めて洗練されたその描写と構図は、後にローレンス・ゴウイングから「孤立した天才」と称された。
因みに、ジョーンズの《ナポリの壁》とヴァランシエンヌの《ローマの屋根》は同時期(1780年代)に同じ方法論(全体から最も良い場面を断片的に、主観的に抽出する)で描かれた風景画として注目されている。この二つは「西欧絵画史におけるrooftopの眺め」の伝統において重要である。

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(4) クリストファ・ヴィルヘルム・エガスベア(1783-1853)

デンマーク人のエガスベアは、デンマーク室内画において傑出した才能を発揮したヴィルヘルム・ハンマースホイに多大な影響を与え、その後のデンマーク絵画黄金時代を築き上げた画家である。彼はコペンハーゲン王立美術アカデミーで伝統的な歴史画を学び、1810年には新古典主義の代表的画家ダヴィッドに学んでいる。また、優秀だった彼は1813年~16年までローマに滞在して、孤独な生活を送りながらも風景画への関心を高めていた。
コペンハーゲンに帰還した二年後にはアカデミー教授に就任し、一番弟子だったコンスタンティン・ハンセン(1804-1880)らを育てた。エガスベアにとっても、「ローマ」は外国人を受け入れるコスモポリスであり、近代風景画成立にとっての中心地であったことが判る。

(5) アシル=エトナ・ミシャロン(1796-1822)

ミシャロンは、ヴァランシエンヌの尽力により実現した1817年ローマ賞風景画部門の受賞者である。彼は二十六歳で早世してしまった画家だが、ローマに五年留学した。フランス・アカデミーのシャルル・テヴナンはミシャロンを筆頭にして、「歴史的風景画」という新しいカテゴリーを創設しようと考えていた。
ミシャロンの《滝と神殿のあるティヴォリの眺め》には、森と古代ローマ神殿が叙情的に描かれており、秘境の雄大さを感じさせるに充分である。この時期のローマの留学生たちにとって、ローマだけでなくナポリ、ティヴォリはまさに風景画のための恰好の舞台であった。

(6) コロー

コローは若くして逝去したミシャロンの模写を行い、この若き師から多大な影響を受けた画家である。コローはミシャロンから、paysage composé(構成された風景画)の優位性を教わった。これは17世紀ローマの古典的風景画の伝統(カラッチ、ドメニキーノ、プッサン、ロラン)から学ぶということである。
コローもまたローマの自然(カンパーニャ)を描いたが、やがてフランスのフォンテーヌブローの森やシャルトル、オンフルールなども描き、イタリア以外でも風景画の舞台を見出すようになっていく。
コローは事物の細部にこだわる画家ではなく、むしろ全てを色彩美において洗練させるために単純化の道を選んだ風景画家であった。

(7) ジョン・コンスタブル(1776-1837)

コンスタブルは大気や雲を徹底的に探究し、描いた画家として注目される。彼は大気現象、特に「雲のパターン」を自由自在に描けるように、その組み合わせについて観察していた。彼は戸外制作によって「観察」し、切り取った自然の習作を「収集」して完成作に繋げていくという、近代科学のアプローチに近いスタイルで風景画を描いた者の一人である。

(8) テオドール・ルソー(1812-1867)

ルソーは当時サロンの審査員として、また新古典主義的スタイルに固執していたジャン=ジョゼフ=グザビエ・ビドー(1758-1846)から激しい批判を受け続け、「偉大なる落選者」の異名を取った画家である。

(9) シモン・ドニ(1755-1812)

彼の《ローマの日没》には、ルネサンス的なアルベルティの「線遠近法」からの離脱が窺える。自由に自然を切り取る(断片化する)こてゃ、近代的な多中心化した「視と知の体制」である。

(10)ジャン=アントワーヌ・コンスタンタン(1756-1844)

彼はローマの、緑に覆われた廃墟としてのコロッセオの断片(まるで自分の居場所と化した聖域の如き)を描いた画家である。著者はこのスタイルを「廃墟の局部表象」と表現している。

(11)グラネ(1755-1849)

グラネはコンスタンタンのアトリエで学び、同じく廃墟的な世界に自分の「隠れ処」を見出し、それらを孤独に描き出した画家である。


○ 本書で名前があがっているが、深くは言及されていないその他の風景画家


・ アントワーヌ=フェリックス・ボワスリエ(1790-1857)

彼の《ズビアコ、聖ベネディクト修道院の眺め》は、「静(遠景の修道院)と動(近景の岩肌、滝)」の対比が見事である。

・ ネアリー、カムッチーニ、ワリス

彼らにはフリードリヒ的な孤独、「崇高」が感じられる。

・ カール・ヨハン・リンドストゥルム(1801-1846)

彼は国別に画家のスタイルの特徴を戯画化したパロディを発表した。

・ フラゴナール(1733-1803)

彼の風景画《ティヴォリ》は長い間、ユベール・ロベール作と信じられていた。











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