† フェミニズム †

ヨーロッパ近代の裸体表象について――アラン・コルバン、ジャン=ジャック・クルティーヌ他『身体の歴史』読解


身体の歴史 2 〔19世紀 フランス革命から第一次世界大戦まで〕 (身体の歴史(全3巻))身体の歴史 2 〔19世紀 フランス革命から第一次世界大戦まで〕 (身体の歴史(全3巻))
(2010/06/18)
アラン・コルバン、ジャン=ジャック クルティーヌ 他

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近代的な「視」のあり方を「身体」のテマティスムから論じた、アラン・コルバンらが編集した『身体の歴史2』第五章を読んだので、その記録を残しておく。本章はアラン・コルバン自身によって執筆され、フランス革命後の身体についての考え方を、主として「性愛」のテーマから分析した論稿である。

そもそも、ヒポクラテスによれば「快楽がなければ何も存在できない」とされてきた。特に女性のエクスタシスについて彼は、「内分泌液が出る瞬間こそが女の快楽の頂点である」という見解を示していた。
18世紀の医学者カバニスによれば、「学者と作家は若くして不能になる」確率が極めて高いとされた。とりわけ、文学的天才には独身者が多いとされている。逆に、「暇な人、頭を使わない人、痴呆、クレチン病(巨大な性器)の人々は、極めて激しい性欲を感じる」傾向にあると考えられた。「狂気は時に性器に宿る」という印象的なテクストも、カバニスによるものである。
1828年のロンドンで、リチャード・カーライルという急進的改革主義者でもあったジャーナリストの男が、『女性の書』という本を刊行したことにコルバンは注目している。カーライルは、「性のためのヴィーナスの神殿」を建立せよと説き、ポルノグラフィーの読書を人々に推薦し、情熱の解放を謳った。
カーライルのような人間がイギリスで登場したのは19世紀前半であるが、ヨーロッパにおいて18世紀には「官能文学」がジャンルとして登場し、「ポルノ」も出現したとされている。18世紀後半になるとこれらは広く流布し始めた。コルバンはこの当時の欲望に憑かれた上流階級の紳士たちの快楽実践について、「射精の快楽はそれ自体で衝撃であり、放電現象であった」とすら述べている。
ピエール・ラルース編集の『19世紀大百科事典』の「性」の項目も、この時代の身体観念について知る上で有益な資料である。そこでは男女の肉体的差異性があくまでも強調されており、また男女の「結合」とその「快楽」が重視されている点も見逃せない。
18世紀後半までのヨーロッパでは、以下のような医学俗説が広く一般にまで浸透していたと考えられている。精液は実はその一部が、全身の血液と混ざり合って循環しており、男性的肉体美の維持に著しく貢献している。したがって、度重なる快楽によって精液を多量に喪失すると、男性から彼自身の肉体美(男性らしさ)を奪ってしまうというものである。こうしたことから、「新婚夫婦はあまり激しい快楽に耽ってはならない」というのが暗黙の掟であった。無論、こうした快楽忌避観の背景には、キリスト教的道徳観が横たわっていることはいうまでもないだろう。とはいえ、ニコラ・ヴネットが1687年に刊行した『性医学書』の中にある、性行為においては正常位が最も大きな快楽を喚起する体位であるという考えも受容されていた。女性を妊娠させたい時は、後背位で性向するのが最良であるとも考えられていたという。
18世紀のフランスの作家ボワイエ・ダルジャンは有名な『哲学者テレーズ』という宗教的な官能文学を1748年に刊行し、話題を集めた。主人公であるヒロインのテレーズは、「霊的指導者」から性において自由になるように教訓を受け、「自慰」を積極的に行うように推奨されるという内容である。
この本だけでなく、18世紀後半から19世紀全般は上流階級に官能文学を読む趣味が流行した時代であった。特に中東の性愛術の古典的名著である『カーマ・スードラ』はアンシャン・レジーム末期の貴族階級の「放蕩」にも少なからず影響を与えた書であると目されている。
フランス革命が終り、美術史における新古典主義、ロマン主義、更に写真の発明と相関する写実主義ーーと新たな様式が花開く時代は、実はこのように「快楽」までもが市民に広く解放される方向へと進んでいく期間でもあった。現代のポルノグラフィや官能文学といったカテゴリーの黎明期は、この時代のヨーロッパにおいて明瞭に見出すことができるのである。
官能文学だけでなく、ゾラの『制作』、『ナナ』、『ジュルミナール』や、ゴンクール兄弟の『マネット・サロモン』には、断片的ではあるがテクスト化された「身体」についての興味深い表現を見出すことが可能である。この時代の文学の特徴は、体液的身体を生々しく描写するのではなく、「衣服」や「地位」に結び付いた間接的に迫ってくる「肉体」のエロティシズムや、肌に刻印されているであろう人物の過去へのイマジネーションを喚起させる効果を狙っていたと考えられている。写実主義以前の絵画における裸体表象でも、基本的に女性の下腹部は曖昧にぼかされており、そこにリアリティーは存在しない例が多い。
近代における身体表象が決定的な変革を果たすのが、19世紀後半に発明された「写真」という新しいメディアの普及である。新たなメディアは、今日のSNSが新たな人間同士のコミュニティを形成しつつあるように、新たな「視覚のシステム」を生み出した。これが端的に「裸体」と結び付いたものが、オーギュスト・ベロックやウージェーヌ・デュリウらを代表とするヌード写真家の出現である。
写真は絵画と異なり、アレゴリー抜きの「純然たる現前」を作り出す。そこでは品位を保つための下腹部のぼかしなど存在せず、全てが露わになる。ただ、世紀末には写真家たちも一種の絵画的なスタイルを取ることを重視しており(ピクトリアリズム/絵画主義)、靄に包まれたような、けして生々しいとはいえない「裸体の象徴主義」が流行していく。

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しかし、「写真」が全てをありのままに写し取る裸性を持ったメディアであることは、当時の画家たちにも大きな影響を与えた。例えばマネの《オランピア》、クールベの《世界の起源》、《白いソックスの女》には明らかにこの当時の「写真」における裸体表象の影響が窺えるのである。絵画と写真の相関、キアスムーーこうした現代のゲルハルト・リヒターの「フォト・ペインティング」にも連なる興味深いテーマは、この時期に生まれた。
第二帝政が始まる前の1840年代には、既にポルノのネガが登場していたとされている。50年以降は一般化し、特に顧客はブルジョワ階級の男性たちであった。1865年にはポルノが店舗にも並び始めるが、これにはパリ市警の規制も厳しく多くの押収物が上った。ポルノは以後一つの市場として瞬く間に身体表象の主犯格的地位を帯びるようになったが、パリ市警の押収したポルノ写真は実に10万枚にも達したとされている。
近代の西洋の人々にとって、東洋の人々の「身体」はどのようにイメージされていたのだろうか? この興味深い例としてコルバンがあげているのが、好色な作家フローベールが敢行していた東方への「セックスツアー」である。この時期の男性の中には、更に新しい女性の肉体を求めるためにエジプト、コンスタンティノープルなど東方へ出発し、「肉体のエキゾティスム」を愉しんでいた。植民地の女性は、ただそこで生まれただけで「娼婦」扱いされていた。特に未開のアフリカ部族の女性に対するイメージには露骨な性的誇張も見出された。
また、19世紀にはホモセクシャル、レズビアニズムも新しい男女の関係性の形として注目され始める。1870年代のある症例報告によれば、これらは全て「先天的な病」であり、社会的に見ても危険であるという一方的な負のレッテルを貼られていた。修道女と在俗女性が肉体的に愛し合ったという記録は中世において既に見出されるので、同性愛の歴史は近代において始まるということはできないだろう。ただ、一つこの時代の特徴としていえるのは、同性愛者は基本的に上流階級の男性(例えばプルーストの小説に描かれたシャルリュス男爵)に多く、19世紀後半になると既に「第三の性」として独自のアイデンティティを認められ始めていたということである(とはいえ、プルースト自身は自らの同性愛的傾向を隠すために、現実で恋した男性をアルベルチーヌという女性に変身させている)。
コルバンはハヴロック・エリスによるレズビアニズム論の興味深い考察を引用している。それによれば、レズビアンの女性はたいてい、失恋の果ての擬似的な恋愛を女性同士で求め合うということに起因するという。真性のレズビアンである女性も、実は男女の「異性愛」のカップルを代理的に再現したものであると解釈されている。
この時代の男性も、レズビアニズムに対しては一種の「ハーレム」的な魅力を感じていた。何故なら、彼らは女性同士が裸で愛し合う姿を見て、そこに自分を参加させるイメージを持つことができるからである。しかも、女性同士であればけして妊娠してしまうこともない。したがって、ある男性の妻が実はレズビアンで、女の愛人を抱えていたとしても、男性にとってこの「クリトリス中心主義」は、「安全」であるとみなされていた可能性が高いのである。あくまでもレズビアニズムは「大きな子供」たちの「精液不在」の代理的な愛欲に過ぎないという、以上のような証言を読む時に大切なのは、これらの見解が全て「男性側」から書かれていたという事実である。この点で、19世紀のレズビアンについてのテクストは、男性原理によるファロゴセントリズム(男根ロゴス中心主義)に支配されており、ドゥルシラ・コーネルやジュディス・バトラーの理論を看取した新しい、女性自身によるテクストからの分析、脱構築が期待される。
忘れてはならないのは、コルバンが述べているように、「19世紀を通じて女性が身体の細部を見つめることは禁止されていたし、あらゆる過激な真理から遠ざけられていた」という点である(第三共和制期になると女性の身体への可視性も拡大したと評価されているが)。いうまでもないが、《世界の起源》が影響を受けたであろう女性の局部の写真(あるいは医学図版)の撮影者も、それを描いた画家も、皆「男性」であり、ポルノという市場自体が男根中心主義的な市場であるという事実である。裸体を表現する人々が、常に一方だけの性別に限定されているという異常な事態は、19世紀ヨーロッパにおいては一般的であった。
我々が身体についての記録や芸術作品に触れる時、絶対に見落としてはならないのが背景の文化的、時代的なコンテキストとそれを制作した人物の有するジェンダーに関する考え方である。これを捨象してしまうと、我々はいつの間にか著しく反フェミニズム的な思想に知らず知らずに汚染されてしまっている可能性すら起こり得るであろう。
「身体」の歴史の「語り方」をめぐっての問いは、常にラディカルな地平へと開かれている。





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