† 美学 †

ジャン=リュック・ナンシーの崇高論「崇高の捧げもの」(『崇高とは何か』所収)について (2)

Abbey Lee Kershaw by Daniel Jackson,  Dazed  Confused3
Abbey Lee Kershaw by Daniel Jackson, Dazed Confused

ナンシーは近代美学における崇高に関するテクストとして、ボワローとフェヌロンの以下の規定を紹介している。

「我々を魅了し、それなしには美そのものが魅力も美も持たないであろうような、曰く言い難いもの」ボワロー

「ただ美しいだけの、つまりは輝くだけの美は、半ばしか美しくない」フェヌロン


ナンシーはルネサンス的(クラシック)な「調和・秩序」に基いた「美」の規範からの「はみ出し」、「跳躍」として近代美学を把捉しており、これはまさにバークの『崇高と美の観念の起源』での戦略と一致している。近代美学とは、直言してしまえば「結局のところ、それは美としての主観性である」(ナンシー)。
ナンシーは本論でバークについて何も触れていないが、本論をバークの崇高・美論として読解することも無論可能である。何故なら、ナンシーにおいても近代美学はクラシック時代の「ツリー」(図式、体系)から、主観性に基いて自由に直覚可能なものとして受容されているからである。そしてこの端的な移行の象徴こそが、まさに「崇高」へのシフト(近代化)なのだ。
「崇高」はけして「無限なもの」という安直で実態のない観念に帰されるものではない。

「崇高とともに問題となるのは、有限なものの表出の傍らに置かれそれと類似のモデルに従って考察されるような、無限なものの表出でも非表出でもない。そうではなくて、限界付けられぬものの運動が問題なのであり、そしてそれはまったく別の事柄なのである。より厳密にいうと、問題となるのは、限界の縁の上で生起し、それゆえ表出=呈示の縁の上で生起する、限界付けられずにあること(die Unbegrenztheit)なのである」(p66-67)


「崇高」はけして美学的体系のシステム内部で閉塞化するものではなく、「限界付けられぬもの」である。このような否定神学的な弁証法によってしか、「美」とは明らかに差異化された「崇高」の本質を把捉することはできない。偽ロンギノスが『崇高について』の中で、「崇高」とは芸術の中で最も「」において表出されるものであると(ホメロスを称賛しながら)述べたことと、このナンシーの崇高論は通底する。何故なら、詩もまた「限界付けられぬもの」であるからである。

「それゆえ美と崇高は、同じものとはいえないが――それどころではない――、同じ場所に生起するのであり、いわば一方が他方の上に、一方が他方とじかに接して、そしておそらく、後に触れるが、一方が他方によって生じているのである。美と崇高は呈示である。しかしそのあり方というのは、美が呈示作用のなかの呈示されたもの(スタティック)であるのに対し、崇高は動いている状態にある(ダイナミック)呈示作用である――つまりそれは、あらゆる限界に沿ってある限界付けられぬものの絶対的な浮き上がりである、そうしたあり方なのである。崇高は美“よりも大きい”のではない。崇高はより高くあるのではない――それは逆に、あえていうが、より浮き上がっている。つまり崇高はそれ自体、美の限界付けられぬ浮き上がりであるという意味でそうなのである」(p72)


この箇所はナンシーの崇高論の心臓部分といって良いだろう。彼は崇高を美とキアスム的な関係性の内で捉えており(すなわちヴィーナスとマルスの共犯関係)「崇高」は「美」が、限界付けを越えて「浮き上がった」姿であると表現している。この表現の時点で既に「詩的」な調子を不可避的に帯びていることからしても、「崇高」が魂を高揚させ、畏怖させる新しい美の変容の様態であることが理解できる。「構想力は己をはみ出す、これが<崇高>である」と、ナンシーはいう。この限界点の突破においては、まさに「すべてが起きる」。

「美において図式とは呈示の統一である。崇高において図式は統一の律動である。すなわちその絶対的な価値(大であること)と同時にその絶対的な膨張であり、崇高において問題となるのは一致の縁取りのリズムをとるシンコペーション(syncope/失神)である。すなわち限界が、それ自身にずっと沿って、限界付けられぬものすなわち無のなかで、“痙攣的に気を失う”ことである」(p80)


このナンシーの規定は、いっそう崇高の本来的な「神的な場」に近付いている衝迫力のあるものである。ナンシーは基本的にバークの美学を踏襲し、「美」とはあくまでも「呈示の統一」、それによって構成される社会文化的な規範と結んでいる。しかし、崇高においてはそれら図式を織り成す糸が炸裂し、いわばエクスタシスを伴うアレス的な「狂乱」に近い「シンコペーション(切分音)」に達する。崇高とは美が「痙攣的に気を失うこと」なのである。
このナンシーの崇高論は、我々の芸術制作に対する態度を見直す最良の機会を提供するだろう。崇高、それは「失神」、「痙攣」を伴う美の「変容」である。神話的なコンテキストに置換すれば、崇高とはまさに「マルス」の心性と関与している。マルスは残虐で戦争においては驚嘆すべき異常な闘争本能を発揮するが、ヴィーナスから愛されている。ヴィーナス(美)にとって、マルス(戦慄)は、必要なのである。彼女は自身に足りない属性として「崇高」を欲している。したがって、崇高の核心としてバークが規定した「恐怖」の擬人化であるダイモスの父親(マルス)と、彼をめぐる人物の相関図こそ、本源的な「崇高と美の起源」を問う神的な場に他ならない。

「崇高とはひとつの感情であり、普通の意味での感情である以上に、限界における主観の情動である。崇高の主観というものがもしあるとすれば、それは衝き動かされた主観である。崇高の思考において問題となるのは、主観の情動であり、この情動を考えることは、主観と美の哲学にも、虚構と欲望の美学にもできはしない」(p83)


崇高がもしも極点まで達すれば、我々はナンシーのいう「感性的なものの消失の感性」を体感するだろう。ルイ・マランが愛した偽ロンギノスの言葉を使えば、それはまさにekstasisである。
崇高はこの限りで、明らかに「死」とも密接に関わっている。或いは、「性愛」が「神聖さ」を取り戻す起源的な場とも関わっている。ナンシーも実際、崇高は「生が中断されること」でありながら、「心臓が鼓動している」様態であるというアンビヴァレントな表現を用いているのである。カントは「崇高な観想においては、事物の形や構想力や構想力を拡張するだけの理性には注意を払わずに、心は放棄されてしまう」(p90)と述べていた。崇高は究極的には、何が崇高であるのか判断不可能なほどの、感覚における「絶頂」に達して心を放棄させるに至る。
こうした「崇高」としての「名付けられぬもの」を表出する(しかしそれは対象性を持たない、何らかの魂のうねり、渦、竜巻、雷雨としか表現できないが)芸術家を、ナンシーは「天才」と表現している。「天才は“名付けられないものを表現し伝達する(カント)”」。したがって、個別具体的な作品の中で「崇高」が「何であるか」を、対象性に帰属して語ることは本質的に不可能である。何故なら、崇高は崇高である限り、「言葉」を「溢れ出る」のであるから。

「カントの時代以降――ディドロの、カントの、ヘルダーリンの時代以降――芸術は崇高に差し向けられる。芸術は、我々の使命に達しながら、我々に触れるべく差し向けられている。これ以外の仕方では、最終的に芸術の目的=終焉を理解してはならないのだ」(p95)


エクリチュールにおける「崇高」のカノンとは何であるか? それをナンシーは、カントを意識しつつやはり「聖書の定言命令」に見出している。律法がモーセに与えられる瞬間、彼の前を神が「通り過ぎる」衝撃的な箇所、詩篇における愚民への「憎悪」と、神の民への絶大な「信服」――こうした、激越な魂を秘奥に有する「高貴な文体」に、カントだけでなくナンシーは現代人としてやはり注目し続けている。

「崇高な諸芸術は命令の様式を持つことになるのであろうか。むしろ命令こそが、定言命令こそが、自由以外のなにものも命じないがゆえに、崇高なのである」(p96)


アポカリプス、詩篇、そしてイエスのパロールの息吹を宿した福音書記者たちの書いた主の御言葉――それらは確かに命令的であるが、神を信じる善き人間にとっては最大の恩寵であり、魂を活気付け、主の慈愛のもとで歓喜に震わせる、「崇高なものにおける自然の様式」(p96)に他ならない。

「文学が自分自身を引き離そうとする努力はそれ自体、崇高な捧げものである。それは結局、文学それ自体の捧げものであり、アート全体の――この表現のすべての可能な意味において――捧げものである」(p97)


文学が「崇高」に達するための条件とは何であろうか?
ナンシーによれば、「語の音響的=装飾的意味での」過剰さを持ったボルヘスの文体は崇高とはいえない。しかし、これはボルヘスのテクストを文体面からのみ印象的に述べている程度のもので、彼の作品が孕んでいる「曰く言い難い慄き」(例えば短編「神学者」の中に登場する異端の教祖の火刑の間際の言葉を想起しよう)にまで切り込んでいない。ナンシーは崇高を、「様式、スタイル」を習得することによってしか到達し得ないものであると考えている点には賛同できるが、ボルヘスに関しては印象論に堕落している。
ナンシーは本論の最後で、崇高な作品というあらかじめ題打ったようなものなどないが、それはかろうじて「悲劇的歓喜のなか」から顔を覗かせると考えている。そして、聖書的な文体が有する「素朴さ」、「単純さ」に未来を託して本論を結んでいる。



関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next