† 美学 †

マルスとウェヌス、あるいは「崇高」と「美」について――ジャン=リュック・ナンシー、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、エドマンド・バークからの美学的交叉路

Abbey Lee Kershaw  by Daniel Jackson, Dazed  Confused
Abbey Lee Kershaw by Daniel Jackson, Dazed Confused

このページでは、ナンシーの崇高論「崇高の捧げもの」を読んだことを受けて、更に発展的に私が考えたことを展開する。
周知の通り、「美・愛・性」の神であるウェヌス(金星)は女神として表象されてきた。一方、「戦い・武勇」の神マルス(火星)は男神であり、どちらもオリンポス十二神が認める突出した美貌の持ち主である。
ウェヌスの夫であるウェルカーヌスは、ギリシア神話ではヘパイストスと呼ばれ、彼は「雷と火山」の神である。後に「炎と鍛冶」を司る神になるが、ウェヌスとの夫婦仲は常に最悪である。ウェヌスが夫の「醜さ」を憎んでいるためであり、もともとこの婚姻自体がウェヌスの意志の届かないところで決定されたものだからである。
しかし、ウェヌスにはヘシオドスが伝えるとことによると誕生秘話があり、彼女はクロノスが切断したウラノスのペニスについた「血と泡」から誕生したとされている。「泡」はaphrosといい、これがアフロディテの語源であろう。この出生の秘密にまつわる残酷さに注目したのはユベルマンの『ヴィーナスを開く』であった。ウェヌスは生まれながらに「血と泡」に親近感を抱くような先天的気質を宿していると考えることができるのは、彼女が後にウェルカーヌスへの失望に端を発しているとはいえ、マルスという「戦争」の神と愛欲に耽り始めるからである。
ギリシア神話のアレスは、ローマ神話ではマルスであるが、アレスの不人気はそれ自体で注目に値する。もともとアレスはゼウスとヘーラーの子であり、オリンポス十二神の名誉ある一柱である。しかし、アレスは「戦い」の中の「狂乱」を神格化した荒ぶる闘争の神であり、その性格は神に相応しくなく「粗野、残忍、不誠実」であったとされている。同じく「戦い」の一側面を担う神アテナは、アレスと違って戦時の「名誉、計略」を支配する神であるので対照的であるといえよう。アレスのこの残忍無比な性格は愛知を愛するギリシア人には頗る不評であり、蛮地トラキアで崇拝されたと伝えられる。
このような兇暴な神アレスであるが、その姿は神々の中でも一、二を争うほどの美男子であったと伝えられる。闘いを愛し明け暮れたアレスに仲の良い神はいなかったのだろうか? 数少ないが、交際していたとされるのが冥界の王ハデスである。そして、愛人であったアフロディテ(ウェヌス)である。
アレスはローマ神話では転じて農耕神マルスであり、非情に人気の高い男神であった。そして、マルスはウェヌスと共にその愛し合う姿がこれまで多くの画家たちによって描かれてきた。ボッティチェルリが特に有名であるが、ピエロ・ディ・コジモの描いた両者はポール・バロルスキーが『とめどなく笑う』で述べたように「行為の後の至福の余韻」に浸っていて官能的である。このようなマルスとウェヌスの愛人関係により、フォボス(混乱、狼狽、敗走の神)とダイモス(恐怖)という息子が生まれる。この兄弟のほかに、二人はハルモニア(調和)という娘も設けている。
また、マルスには妹、姉とされる女神が二人いて、それぞれエニューオー、エリスと呼ばれている。エニューオーはマルスの娘、或いは母だとする伝承もあるが、「都市の破壊者」である。エリスもまた「不和、争い、口論、殺人、災い」の神であり、ローマでは「ディスコルディア」と呼ばれた。特にエリスはマルスと似て兇暴残忍であり、血と埃に塗れた鎧を着て槍を持ち、火焔を吐いたと伝えられる。
さて、我々はこのようにマルスとウェヌスの二人を中心軸にして幾人かの神々について見てきた。これらの神の相関図としては、マルス(戦い)とウェヌス(美)という父母からフォボス(混乱)、ダイモス(恐怖)、ハルモニア(調和)という子供たちが生まれており、マルスの戦地には息子たちが同伴していた。またマルスの血族であるエリスとエニューオーの二人も戦地でマルスと共に猛威を振るったとされている。
このヨーロッパの古い神話体系に登場する神々を、今日再評価が目覚しい美学における「崇高」論のテマティスムと結び付けて把捉することは不可能だろうか? これが私のこのページでの戦略に他ならない。
マルスは残忍で兇暴な「戦い」の神であり、敵を倒すためには手段を選ばず勝つためには何でもする神である。この神が齎すものは戦争による災いであり、したがって「ダイモス」(恐怖)の特質を有する。エドマンド・バークが近代美学の礎を築いた『崇高と美の観念の起源』という二十代の著作によれば、芸術において重要なのは「美」だけでなく「崇高」であるとされる。「崇高」の本質は「恐怖」である。恐怖を与えるほどの自然災害(雷撃、大洪水、大津波、大地震、竜巻、嵐、火事、地割れ、隕石の衝突など)は、おしなべて「崇高」の感覚と通底している。戦慄し、畏怖させるものを人間の心性が神格化したものこそが、古今東西の神話に見出される自然の擬人化された神々である。
マルスは「戦い」という最も「恐怖」と繋がった現象の神である限りで、まさに「崇高」の神である。他方、ウェヌスは「美」を支配している。この女神の美貌はオリンポス十二神も認め得るほどである。そのウェヌスが、マルスと危険な恋に落ちる。この関係性こそ、現代においてジャン=リュック・ナンシーらが「崇高」と「美」を「分かち難く結び付いたもの」として捉える基底であると解釈することができる。我々がこのように神話化させるのは、「崇高」と「美」という対象性に帰属し得ない観念を、一定の神話的対象性に帰属させることで、むしろイメージ喚起力が増大することを目論むからに他ならない。
二人の娘であるハルモニアは、ルネサンス的な「調和・秩序」の女神である。一方、ウェヌスが愛したマルスは「恐怖」の父である「崇高」と相関する点で、極めて近代美学的な様相を帯びている。
ナンシーは崇高と美の関係性について、「美が真に己固有の性質を獲得するのはただ、美自身から外に通じるもう一つ別の出口からであり、崇高を通してである」と述べていたテクスト(『崇高とは何か』所収「崇高な捧げもの」)はこの場合、極めて示唆深い。何故なら、これを以下のように置換可能だからである。すなわち、「ウェヌスが真に己固有の性質(血と泡から生まれた出自)を獲得するのはただ、ウェヌス自身から外に通じるもう一つ別の出口からであり、マルスを通してである」。
これは以下のように美術史上の運動と結合させることができよう。ルネサンス時代の美的原理「調和・秩序」は「美」というより、「ハルモニア」である。ハルモニアはウェヌスの娘であり、ウェヌス自身ではない。ウェヌス=美は、「マルス」に惹かれる女だからである。マルスは「恐怖」、「苦節」を与える「戦い」の神であり、戦乱におけるエクスタシスを何度も経験してきた――この神の「崇高」的側面。端的に、サッコ・ディ・ローマ(ローマ掠奪)によってルネサンスがマニエリスムへと変貌する瞬間に、おそらく「マルス」が姿を現していたとみなして良かろう。これはバロック的な運動へと接続する。このように美的なものはバロック化することでハルモニア/ルネサンスを棄却したが、これはウェヌスの本来性の獲得なのである。
結論としてここでいえることは、「美」と「崇高」は分かち難く結ばれ合い、互いに不可分離的である。それは芸術そのものを根本から支える「情動性」の原理であるといえるだろう。






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