† 映画 †

「現代的であるためには、古典的であれ」ーージャン=リュック・ゴダールの名作『はなればなれに』の中の、classique=moderneについて

はなればなれに [DVD]はなればなれに [DVD]
(2001/12/22)
アンナ・カリーナ、サミー・フレイ 他

商品詳細を見る


 久し振りにジャン=リュック・ゴダールの『はなればなれに』(1964)を観た。『彼女について私が知っている二、三の事情』や、『中国女』などを観ていて私が感じているゴダールへの印象というのは、この監督のテーマがエクリチュールそのものであり、「文字」に対する強度の嗜好性が随所に示されているということである。例えば、ヒロインのアンナ・カリーナが活字、看板、ポスターを背景にして立っている場面がけっこう多く登場する点や、冒頭の英語教室での「書く行為」と「文字」のズームアップなどだ。
ゴダールはこの英語教室の場面で、T.S.エリオットの詩について短く彼なりに解釈しており、教師は黒板に「classique=moderne」と書く。現代的であるためには、古典的であれ。「古典的=現代的」という定式。これは小説を書く時に、古典から積極的に多くを学び続け、それを現代において「再生産」することが結果的には「現代的」な作品へと昇華することを暗示させる興味深い定式である。小説だけでなく、これは映画、絵画、音楽芸術全般にも言いうることだろう。
ゴダールは本作で若者三人の「ドロボウ計画」というハリウッド的なストーリーラインを取り入れつつ、そこから明らかに距離を置いて撮影している。白熱したり、スリリングな展開はなく、商業的な物語性の構造があくまでも「傍観」されている、アンニュイに。それがよく伝わるのが、地下鉄でアンナ・カリーナが呟く台詞ではないだろうか。「地下鉄の乗客(=我々現代人)って寂しそう」。そして、「アルチュール・ランボー」役の俳優は彼女に、表情に対する解釈によって顔は全く違って見えてくると伝える。
ルーブル美術館近くのセーヌ川の風景の描写があった。私は十八歳の時に、おそらくここでゴダールが撮影していた場所(おそらくカメラに映っていない川沿いのホテル。オスカー・ワイルドら文豪の滞在客写真がロビーに掲げられていたはず)から同じ景色を眺めている。十代の真夏に、私はたった一人でフランスを二週間あまり放浪したのだが、その時ルーブルとオルセーの両美術館にも訪れた。まさか映画を何気なく観ていて、あの時観た風景がモノクロの状態で映像として再び現れてくるとは思っていなかっただけに、この箇所は短いながら私にとって貴重である。
三人の若者がルーブルを疾走する描写(最短コースでもルーブル美術館を一周するのに9分43秒はかかる)にも微笑ましいものを感じた。それと同時に、ここには何か「粗暴さ」を感じもする。映画では十分間の存在としてルーブルの名画たちが「結晶」されてしまっているが、ここには何か映画の絵画に対する「放蕩息子の帰還」に似た複雑な感情が横たわっている気がしないでもないのだ。いうまでもなく、ルーブル美術館を真面目に観るつもりなら、三日あっても到底足りないはずである。
この映画は日曜の雨降りの朝に、のんびりと珈琲でも飲みながら眺められるような作品だった。どこか寂しいが、どこにでもいそうな若者たちの生態が描かれている。

関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next