† 美学 †

ミシェル・ドゥギーの偽ロンギノス論「大-言」について (1)――『崇高とは何か』所収

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Witkin Joel-Peter

 パリ第八大学フランス文学教授で詩人でもあるミシェル・ドゥギー(1930-)の崇高論「大‐言」を読了したのでその記録を残す。本稿は彼の偽ロンギノス論である。ドゥギーは偽ロンギノスのテクストについて、「この書が扱う高貴な内容、すなわちmegalogoreuein(大-言)」と表現している。大言とは、いうまでもなくgrandiloquence(大言壮語)に平易に反転しまいかねない危うさを持っている。
 偽ロンギノスはロンギノス(213頃-273/アテナイのプラトニズム哲学者、修辞学者)とは別人であり、おそらく起源一世紀頃のローマに出現し、ホメロス論を残したとされている程しか今日定かではない、謎に包まれた起源の美学者である。偽ロンギノスによれば、ホメロスこそは「崇高」の巨匠である。「崇高」とは「人間的な事象を越えて外に突き出ること(超出)」をその条件とし、越え出た地平には「死にまつわる戦い」があると規定されている。偽ロンギノスを解釈しながらドゥギーは以下のように書いている。

「高みの尖った切っ先は、臨界点にあって、死すべきものと不死なるものとの分割を作り直す先端である。死すべきものに抗して立ち上がり、死すべからざるものの形象を探し、その拡大を目指すことがないような生など、生きるに値するものではない」(p11)


これは極めて力強い魂の宿ったテクストである。偽ロンギノスは「崇高」を、「神々の偉大さへの近付き」であると本質的に捉えている。ドゥギーの崇高論が興味深い点は、「崇高」を偽ロンギノス的に、本来的な「神的なるもの」と相関させて把握している点である。

「崇高はわれわれの挫折を測定する尺度である。崇高をなすのが神的なるものへの聖なる関係であるとすれば、われわれの挫折は聖なるものに対するわれわれの距離に、われわれの無信仰に相当する。そしてこの挫折は、不死なるものと死すべきものの差異の辺域へと遡ることがわれわれにはもうできないということに等しい」(p8)


崇高が「死」や、存在に対する「不在」とも相関していることも暗示されている。大切な人間がいなくなること、世界から消え去ること――この出来事が、彼ないし彼女の「最期の言葉」に圧倒的な重みを与える。

「崇高は遺言に残されるものと関係がある。崇高なる言葉は最後の言葉だからである。匿名作者(偽ロンギノス)が集めた例の内容は常に死について語っている」(p14)


 ドゥギーは「音楽の崇高」については、おそらく個人的な嗜好性も入っているのであろうが、シューマンの《ピアノ五重奏曲作品44》を高く評価している。この曲を聴いていると、彼は「約束の地が見えてくる……」とすら告白している。
 ドゥギーは単なる思考ドキュメントを跳躍して「詩」にまで踏み込んでいるが、それが端的に崇高論と結合した以下のテクストは見事である。

「崇高な作品とは、一つの箱舟であり、それが洪水の上で、生き残っている者たちのために、イメージを積み換えていく。美しき無秩序は芸術の効果である、このボワローの格言が思い起こされる。というのも、ロンギノスの崇高論から学んだと人が考えたものをそれが要約しているからである。崇高についての論の構成そのものが秩序を欠いていることは、問題となる事物(崇高なもの)とその事象についての問い(論文)のあいだの相同性――この相同性自体が崇高の理論的標識となる――によって伝統的に正当化されてきた」(p15-16)


 ここでドゥギーは詩人らしく「箱舟」、「洪水」という表現を用いているが、これはランボーの『イリュミナシオン』からの借用であると本人が記している。ドゥギーにとっても「詩」は端的に最も崇高な芸術である。
崇高=大洪水はひとつの起源的な奔流であるが、これを後世の人びとは多様な形で影響を受けつつ「再生産」する。ここに古典の意味があり、制作とは古典から学習することでしか達成されないものである。

「この大洪水、この崇高は起源を、起源の単純さを再生産しながらそれを装い、装いながら再生産する。…前提として立てられた同への遡行が達成されうるのは、ただ再生産の中においてのみであり、差異を認識すること、まら差異と差異の差異を忘れたふりをするメカニズム(テクニック)を知ることにおいてのみである」(p16)


 ここでのドゥギーの解釈をまとめると、芸術とは、「崇高な古典」の「再生産」としてのみ達成されるということである。それは惰性的で月並みな「反復」ではなく、能動的な「変身」(「微分的差異を伴う反復」ドゥルーズ)である。まず何よりも先に遺産相続されていくのは「エクスタシス」、「稲妻」、「雷撃」であり、この感覚的な次元での「反復」が生起する。これを新しい時代において再現前させるためには、「テクネー(技術)」を学ぶことが必要である。これを換言すれば、どのような崇高も「テクニック」なしでは成立し得ないと断言して良い。
 さて、ここで一度ドゥギーのいう「崇高の五源泉」を図式的にまとめておこう。

「崇高の五源泉」

(1) 思考
(2) 激情
(3) 図式を形成すること
(4) 真正なる言葉遣い
(5) 総合


 崇高をもしも幾つかの属性に分離すればこうなり、これら五つは「崇高」を形成する上で決定的に重要な要素である。さて、(1)と(2)は「ピュシス」(自然)に属している。いわば古典を読んでいる時にひらめいた「インスピレーション」や、人生の旅路を歩んでいるうちに湧き起こった崇高な感覚の、表現への奔流を意味している。それは失恋、両親の喪失、愛の苦悩、孤独など、まさに個人によって違っているだろう。
 (3)、(4)、(5)は全て「テクネー」(技術)に属する。つまり崇高の大部分は、実はテクニックを学習することで獲得可能なのである。あとはそこに何らかの猛烈に飛来する「稲妻のようなインスピレーション/アイディア」が到来するように自分を発揚させるだけである。
 偽ロンギノスの解釈によれば、芸術に必要なのは二つだけである。一つは、thaumasion(唖然とさせるもの)、もう一つはekstasis(恍惚)だ。そして、肝心なのはこれら二つを発現させるために「テクネー」の練磨が必須であるという点である。
 このような図式を看取した上で、ドゥギーはポール・ヴァレリーの『テスト氏』を「崇高に忠実」と評している。崇高は「ロゴス(理性的な学的アプローチ)」によって、本当の意味で獲得されるのである。ゆえに、ドゥギーが我々に強調しているのは以下の定式である。すなわち、「ピュシス=テクネーの総合が常に行われねばならない」。
 偽ロンギノスを現代に改めて再生させるドゥギーによれば、「崇高」の実現は根源的にやはり「ミメーシス(模倣)」であるという点に尽きる。微分的差異を持って、新たに突然変異をして環境に適応しつつ反復を繰り返すという点で、ドーキンスのいう「ミーム」、最近注目されている文芸理論家リンダ・ハッチオンの「アダプテーション」(映画から小説などの、他ジャンルへのリメイク制作)とも相関するだろう。ただし、ドゥギーはテクネーに匹敵してやはり「ピュシコス(生まれながらのもの)」を重視している。「教えられるもの」であるテクネーは、技術的練磨を絶え間なく繰り返し修行するプロセスによって、必然的に「生まれながらのもの」に導かれていくというのだ。
 最初に「天啓」があるのではない。「天啓」を得るためには、「学習」が必要である。そしてテクネーとピュシコスが見事に上手く溶け合った時、はじめて「ピュシコスがテクネーを“拉致する”(enlèvement)」という輝かしい事態が生起するのである。偽ロンギノスのテクストを使えば、「本性からして人間はロゴス的なものである。言うことのなかで人は人間的な事象を超え出るものを求める」ということだ。そしてピュシコスが、レダを襲う白鳥のような威厳と高貴さを帯びる時、そこにはSunenthousian(共に熱狂すること)という芸術上の共同的な地平が成立するというのである。
 ドゥギーが述べるように、我々は今後以下のような発言をしている芸術家に対しては懐疑的にならねばならない。

「一つは超人間的なものとみなされる偉大さを忘却することであり、もう一つは十分綿密に技巧を凝らすことを怠ったり、そうしたことに無知であることである」(p26)


より判り易くいえば、我々「詩的なものへの参入者/芸術家にならんとする存在者」は、「崇高への志向性/偉大さへの慄き」の念を忘れてはならず、また同時に己のセンスを過信して、「技巧を凝らすことを怠る」ことに甘んじてはならないということだ。先述したように、崇高はピュシコスがテクネーを拉致する瞬間に生起するのであるから、依然テクネーの練磨は必要であり続けるのである。




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