† 美学 †

ミシェル・ドゥギーの偽ロンギノス論「大-言」について (2)――『崇高とは何か』所収

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Witkin Joel-Peter

 ひきつづきドゥギーの傑出した崇高論「大‐言」を読んでいこう。前回の記事で、我々は彼が「崇高」の五つの源泉について(これが芸術制作を志す者にそのまま直通する規定である)語っているのを確認した。その上で、ドゥギーは「ピュシス(自然)」=天性の直観も重要ではあるが、それ以上にまず「テクネー(技術)」=古典教育が必要不可欠であり、教育があってはじめて「天性」のものがうまく融和的に炸裂するという見事な「制作論」を展開していた。これは基本的に現代において最も重要な社会学者であるピエール・ブルデューが若い頃に仕上げた『美術愛好』での定式「教育がどの様式、画家を好きになるかを決定する」、ないし「<眼>は文化的産物である」といったテクストと通底しているといえよう。
ドゥギーのテクネー主義(ピュシスに達するためのものとしての)は、突き詰めていってしまえば「ミメーシス」論に還元される。ドゥギーはミメーシス(模倣)について、「先にあったものを後の中で、飾りの中で、特別な努力によって、始まりにおけるかのように、表象=再現前することである」と見事に定義している。それは学んだ古典=起源に忠実でありながらも、同時代的に異化し、かつ古典から学んだ「痕跡」を抹消し、新たな古典への戴冠を主張する、欲望する。制作とはこのような「古典への衝動性」に他ならない。
「崇高」論でのコンテキストに沿ってミメーシスを位置付けると、それは崇高な古典を「もう一度立てる」行為である。そして、「始まりにおけるかのように」振舞う点で、それは前衛的でもある。「崇高を基調にしたミメーシス」――まずもって多くの学生に文学、美学を教えてきたドゥギーから学べる骨子は、このようなクレドとなるであろう。
さて、ドゥギーはこうした定式を改めて主張した後に、以下のように『崇高と美の観念の起源』の著者に賛同している。

「詩人たちが追求するもの、それはエクプレーシス、すなわち恐怖ないし打撃である。詩人は神話的なものへと拡がり、信憑性を超えていこうとする。ところが演説家が求めるのはエネルゲイア、すなわち明快さであり、呈示における明証性である」(p27)


詩人が希求し表現すべきものを「エクプレーシス(恐怖、打撃)」において見出すこの“異常な”感性は、美学上ではとりたてて特殊なものでもなく、むしろ近代美学的崇高論の範囲内であるに過ぎない。バークが述べたように、「崇高」の第一の核心は「畏怖」である。畏怖を与えるものは、美を感じさせるものとはまた異なるものである。それは「崇高」である。
畏怖とか、恐怖とか、何が美しいものであるか、といったテーマは全て「感覚主義」的であり、かつ主観的な判断がそのまま「存在」(カント)に達する。しかしこれをより詩的にいうと、美学とはやはり結局「」を扱う学問であるということがいえるかもしれない。ドゥギーは魂について、「魂は、自分にとって、自然なもの、つまり高さや光であるものの近くにありたいという欲求を持つ。比喩形象はそこでこの接近を手助けするにあたり、比喩形象のテクネーに育まれた崇高を光輝かせる……」(p37)という非常に印象的で美しいテクストを残している。美学=霊魂論、否、美学=霊魂の「様態」論。
以下のテクストも、解釈することに僭越を覚えるほどの高貴で力強い衝迫力を宿している。

「芸術が極まるのは、自分の技巧を隠蔽し、自分のやり口を覆い隠し、自分の比喩形象をあまり公けにできぬ策略同様に表面に現れないようにする時である。崇高の炎はその成分すべてを溶かし込み、聴くものたち(読むものたち)をekstasis(自己の外に立つこと)へと熱狂させ、火の輝きしか見えないところにまで連れ去ってしまう」(p37)


 崇高はその極点において、おそらく「崇高」それ自身を自ら燃焼させ、火炎の中で微笑み始めるだろう。読者を「自己の外にまで導く」力を、我々は久しく感じていないのではないか? もしそうであるならば、我々がそれを創出せねばならない。芸術とは、崇高の炎であり、その「火の輝き」の内部でエクスタシスを与えるものなのである。それは天空の割れ目、大地が泡状に気化しながら四肢の切断された古代のトルソが地の裂け目から浮上してくる、その瞬間のような「畏怖」である。それをthe sublimeという近代美学的な崇高のキータームで表現し続けることにドゥギーは批判的だ。崇高=syncope(失神)=ekstasis、この三つ組の定式を我々は今後も魂に刻印しておくことにしよう。
以下に印象的なドゥギーの詩を掲載しておく。

「近寄せる」 [奇数/5 熱帯地方に:2001]

近寄せるには二つの反対の意味があるようだ――

 隔たりを決める、真ん中を、妥協点を探す、「私は議論の中で彼らの見解を接近させた」と人が言うときのように……
 そして二つの両極端または二つの無縁のものを並列する並列する、二つの極を、デュカス―ルヴェルディ―プルトンの言う二つの「とても離れた現実」を同格に置く、等。それは程度を弱めること、あるいは極端化することだろうか――それらの極が「触れ合うほど」、さらに重なり合うほど隣接するように、「コントラスト」が、それ自体分離できる第三者であるかのごとく「飛び出す」ように? 目標は矛盾語法(オクシモール)または曲言法(アンダー-ステイトメント)だろうか? 曲言法は矛盾語法の巧妙な凝った味方であり得るだろう――コマ落としのスローモーションのように。

※出典:ミッシェル・ドゥギー選集『愛着』(丸山誠司=訳)






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