† 文芸理論 †

芸術制作における「アダプテーション」の現在ーーリンダ・ハッチオン『アダプテーションの理論』

Mikus Lasmanis  by Bell Soto
Mikus Lasmanis by Bell Soto

物語制作の方法論としてのadaptationに注目している。カナダの文芸評論家リンダ・ハッチオンによれば、アダプテーション(適応)とは、多くの場合「異なるメディアへの移し変え」を意味している。例えば小説の映画化、あるいは映画のノベライズ。または映画のゲーム化、ゲームの映画化、ノベライズ。こうした他ジャンルへの移動も含めた「作品」の微分的差異を孕んだ「反復」のテーマが、ハッチオンの思考対象である。小説が映画化される場合で、具体的に何が捨象され、逆に何が付加されたのか――そこには双方のメディア形態を活かした、同じ作品に依拠しながらも全く新しい様態が見出される。
文芸理論の系譜としては、クリステヴァのIntertextuality(間テクスト性)論、デリダのディコンストラクト、フーコーの「統合された主体性」への挑戦、ナラトロジー、カルチュラル・スタディーズなどとアダプテーションの理論は袂を一つにしている。

【Adaptationの定義】

(1) ひとつ、もしくは複数の認識可能な別作品の承認された置換。換言すれば、プロダクト(記号変換)。
(2) 私的使用/回収という創造的かつ解釈的行為
(3) 翻案元作品との広範な間テクスト的繋がり(ひとつの記号体系[たとえば言語]から別の記号体系[たとえば映像]へ間記号的に置き換えられる形態での翻訳)。この点でアダプテーションはPalimpsestuous intertexuality(パリンプセスト的インターテクスチュアリティ)の一形態である。


【Adaptationの概念規定】

ハッチオンが本書の第一章の理論篇で強調しているのは、芸術作品の様々なジャンルを越えて互いに「相互交通」することの大切である。文学から映画という従来の流れだけでなく、映画のワンシーンから文学へ、あるいは詩から演劇へ、更には彼女がいうように漫画、ゲームの中の印象的な場面から文学へ、あるいは映画へ――などといった幾つもネットワークで間テクスト的関係性を深めていくことが可能なのである。これによって可視化される新しい地平においては、芸術の制作はより自由度の高いものになるだろう。

「いずれかの形態が、本質的にあることに適していて、別のことには適していないというのではなく、それぞれが自由に利用できる異なった表現手段(メディアやジャンル)を有しており、そのため別の形態よりもうまく、特定のことを目標とし達成することが可能であるということだ」(p30)


したがって、映画から先に入って後でその原作に関心を持つに至るという、往々にしてベクトルとしては“あまり高尚とはいえない接触方法”も、アダプテーションの観点からすれば正当化され得る。何故なら、映画には「映画」というメディアに適した、映画でしか表象し得ないものがあり、それは原作の内実の「残余」を、有機的に吸収して発展させていることすら考えられ得るからである。この点について最高の例こそ、ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』と、マンの『ヴェニスの死す』の「差異」の問題である。
マンの作品では、映画のラストにおけるほど光り輝く美しい海辺での神話的な指の仕草を想像することはできない。ヴィスコンティはこの海辺の、急迫する「死」と「美」の切実な感覚を見事に描き出しており、原作者マンはむしろアシェンバッハの「意識」の内部で沸き起こる真理的なドラマ、神話的なイメージ力をダイナミックに表出することに成功している――双方には映画ならではの美と、文学ならではの美がある。どちらもが傑出した作品であり、どちらか一方をもし「下位」に位置づけるとすれば、マンがそもそも『ヴェニスに死す』を執筆する上で影響を受けた過去の作品とのインターテクスチュアリティを想定せねばならないだろう。
ここで浮上しているのは「映画」と「文学」の根本的差異であるが、ハッチオンは以下のように双方を的確に把捉している。

「興味深いことに、語る形態で不可能で、見せる形態で可能なことは、ベートーベンの曲をわたしたちに実際に聞かせることだ。しかしながら、登場人物たちが聞いているときに、私たちは彼らの精神の内部に入ることはできない」(p32)


「本を読んでいる人」を描写するのであれば、映画でも可能である。だが、それを読んでいる人物が過去を想起し、ある懐かしい言葉を意識し、ページを捲り、今度はまた新たに別のことを意識する――こうした細やかなプルースト的文体をシネマ化することは原理的に不可能である(映画が2時間弱の長さという制限下にある限り、この差異性は今後も保存され続ける)。
他方、文学ではベートーベンの音楽を流すことができない。プルーストは数知れない絵画、音楽について引用しているが、どれ一つ「視覚化」、「音声化」されていない。全ては文字を読み解く人の「記憶」に委ねられているのである。しかし、映画では音楽や絵画を実際に観る者に与えることができる。ここには差異があり、文学が数年後に読むと同じ人物でも変容して感じられることがあるのに対して、映画では常に同一の表象が直接的に、いわば“生のもの”として発信されている。文学のテクストには、読むたびごとに意味を更新させる“襞”があるが、映画においてはそれは直線的であり続ける。

「ストーリー(あるいはファーブラ)の個々の構成部分についても、要約版にまとめられたり、別の言語に翻訳されたりできるように、メディアを越えて移し換えることが可能である。…プロットでの順序だけでなく、語りの速度も、時間を圧縮したり拡大したりして変えることができる。翻案した物語で焦点や視点が変更されることは、大きな相違を生み出すだろう」(p15)

「動機が何であれ、翻案者の観点から見ると、アダプテーションは私的使用あるいは回収の行為であり、そこには解釈とそれから新しいものの創造という二重のプロセスが常に存在している」(p25)

「ロラン・バルトがいうように、アダプテーションとは、“作品”ではなく“テクスト”として扱うこと、複数の“模倣、引用、言及の立体音響”として扱うことに等しい。アダプテーションはそれ自体で独立した美的存在でもあるが、アダプテーションとして理論化できるのは、本質的に二重(または多重)の層からなる作品として見られる場合のみなのである」(p8)

リメイクは、コンテクストが変更されるので、どんなものでもアダプテーションだ。したがって、変更されることが多いが、必ずしも全てのアダプテーションでメディアや関与形態の変更が起こるわけではない」(p211)

「アダプテーションは、機械的にせよそうでないにせよ、いかなる形での再生産によるコピーではない。それは反復だが、複写ではない反復だ。定まった儀式の安心感と、驚きや目新しさを見つけたときの喜びとを一つにするものである。アダプテーションとして、アダプテーションには記憶と変化、持続と変形が含まれている」(p214)



ハッチオンのアダプテーションは、クリステヴァがバフチンから抽出して理論化したIntertextuality(間テクスト性)の一形態である。ハッチオンはバフチン、クリステヴァ、バルトの理論を看取して、全てのテクストは常に既に「引用のモザイク」であるという、帰結的には「作者の死」の概念を前提にしている。

「たとえばカレル・ライス監督の映画『フランス軍中尉の女』でのハロルド・ピンターの脚本は、ジョン・ファウルズの小説の物語を、まったく映画的なコードに置き換えている。小説では現代の語り手とヴィクトリア朝のストーリーとが並置される。同様に自己投影的な映画版では、ヴィクトリア朝のシナリオを現代の映画にするように変更されており、それ自体が19世紀の物語を映画にすることの映画となっている」(p21)


とはいえ、アダプテーションが「想起の親しみ」だけでなく、「落胆」をも与えかねない点はハッチオンも顧慮している。

【ルキノ・ヴィスコンティの映画手法としてのアダプテーション】

「翻案には、、私的使用のプロセス、つまり他人のストーリーを我が物として、ある意味で自分の感性、関心、そして才能というフィルターを通すプロセスが入りうる。それゆえに翻案者は、まず解釈者でありそれから創造者である。このことは、トーマス・マンの1911年の中編小説『ヴェニスに死す』を、ルキノ・ヴィスコンティが1971年に製作、監督をした同じタイトルのイタリア映画が、そのすぐ二年後に初演されたベンジャミン・ブリテン作曲、ミファンウィー・パイパー台本による同名のイギリスのオペラと、焦点の面でも衝撃の面でもまったく異なっている理由のひとつだ。もうひとつの理由は、当然ながら翻案者が選んだメディアの相違である」(p23)


ヴィスコンティの映画は基本的に小説の翻案であり、(ランペドゥーサ『山猫』、ダヌンツィオ『イノセント』、ソフォクレス『エレクトラ』など)これは彼だけに顕著ではなくむしろ映画全般において一般的に見出されうる傾向に他ならない。「1992年の統計でさえ、アカデミー最優秀作品賞に選ばれた全作品の85パーセントがアダプテーションであるのは何故なのか」(p5)。この点では、ハッチオンの本書は「文学」から「映画」への翻案という従来のプロセスを、その逆のベクトルの可能性も理論的に示すことで「翻案」それ自体の意味の外延の拡張を目指すものである。

【アダプテーション理論によって何が可能か?】

ハッチオンのアダプテーション理論だけでは、単にあるジャンルから別のジャンルに「内実」を同一にしつつ「翻案」するという可能性しか見えてこない。しかし、ここに『熊座の淡き星影』においてヴィスコンティが実践した制作スタイルを鑑みて再度考察してみよう。ヴィスコンティはこの映画をソフォクレスの『エレクトラ』のアダプテーションとして制作しているが、タイトルはダヌンツィオの詩からの引用であり、けして単数の作品だけからの翻案を意味しない。いわば、この映画には彼が見聞きし、読解し、解釈してきた様々な作品の「断片」からのアダプテーションが生起しているとみなすことも可能なのである。
アダプテーションの理論に、ガタリがバフチンを看取して『分裂分析的地図作成法』で展開した「異質生成」の概念を融合させると、より「制作の自由度」は増すと筆者は考える。何故なら、一つ、あるいは幾つかのの作品の私的翻案に、他の様々な作品の「断片」を吸収させ、可能な限りその「引用の織り目」の縫い後を抹消するという作業は、基本的に多くの芸術作品においても見出され得るからである。「アダプテーション(クリステヴァ、ハッチオン)+ハイブリット(バフチン、ガタリ)」=芸術作品という、一つの抽象化された制作における定式がここに現前する。(因みに、ハッチオンは「ハイブリット」を、「異なる種の集結点」と規定している)。

【ミームとしてのアダプテーション】

一章理論篇でのラストで、ハッチオンはドーキンスの名高い「ミーム」を「テクスト」の問題として解釈している。

ミーム――それは文化伝達の単位、あるいは複写の単位であり、遺伝子と同様に“複製子”である。しかしながら、遺伝子的伝達とは異なり、ミームは伝達される際に必ず変化する。というのもミーム(=アダプテーション)は、ひとつには“ミーム・プール”の中での生存に適応するために、“継続的な変更と混合”を免れないからだ。ドーキンスはミームのことを書いたときに、それを観念として想定していた。だとすればストーリーも観念である以上、同じように作用するといえるだろう。…遺伝子と同様に、変異のおかげで、その子孫あるいはアダプテーションにおいて、ストーリーは新しい環境に適応する」(p39-40)


この末尾の結論は、ドゥルーズが『差異と反復』で展開していた「変身としての永劫回帰」(微分的差異を含む反復)と接続する。また、同じことであるが、ドゥルーズが愛したボルヘスのエッセイ『永遠の歴史』で展開されていた、「異なるものの永劫回帰」とも相関する――「反復」には「差異」が滑り込むのである。
この観点を更に発展させるためには、我々は本書よりも厳密に「引用」の問題を考究した、コレージュ・ド・フランスでフランス文学を教えるアントワーヌ・コンパニョンの処女作に向かわねばならないだろう。




アダプテーションの理論アダプテーションの理論
(2012/04)
リンダ ハッチオン

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