† 映画 †

アレクサンドル・ソクーロフの短編ドキュメンタリー映画『マリア』について

sokurov  -elegy

タルコフスキーに見出されたロシアの映画監督アレクサンドル・ソクーロフのドキュメンタリー映画『マリア』(1978-88)を観た。
本作はウェジェーニノ村というロシア辺境の田舎の街で暮らしている平凡な農婦の女性マリア・ウォイノワが送った「ある夏の記憶」を核にした美しく喉かな作品である。特に毎日通勤で高層ビルの影になって歩いている我々都会人にとって、この映画が宿している「農婦の手」が持っている独特な優しさには、癒されるところが多いだろう。「癒し」、「長閑さ」、そして少しばかりのシリアスな「別れ」の感覚――そういうテーマを私は感じた。
マリアには中学生の時に亡くなった息子がいて、森の墓前で今でも欠かさず祈りを捧げている。舞台の村はアンドリュー・ワイエスの描いたどこかリリシズムと孤独の漂う平原に近い。明るく、村の自然には独自の時間が流れている。
マリアの手は美しい土の汚れを感じさせる。「土の汚れ」は我々が喪いつつある本源的な「美」の一つではないだろうか。大地を耕し、土や石や砂を触ることで手がそれらに“馴染む”ということは美的なものであると感じられる。
マリアとその家族の農作業が慎ましく撮影されている。そして九年の歳月が流れ、ソクーロフは再びマリアの下を訪れる。車道沿いの農村はどこまで行っても似た風景だ。到着したソクーロフは「マリアのいない場所」で、九年前に撮影したマリアたちの農作業の様子を上映する。家族には変化が起きている。マリアの夫は別の女性と再婚して、マリアの娘タマーラも若い夫と結婚している。マリアだけ存在していない――そう、彼女は実は亡くなっていたのである。
この瞬間、この映画のはじめの一章(農作業)は、「喪」としての意味を担い始める。それはかつて村にいた逞しい女性の「痕跡」であり、「母の働く姿」なのである。マリアという彼女の名前は、「聖母マリア」の素朴な実態を暗示しているとも解釈できるだろう。ソクーロフはナレーションに声として登場し、時間を隔てて変化した家族の「今」を映し出す。
マリア・ウォイノワというこの『マリア』という映画以外には出演せず、日本でもこの映画を通じてしか出会うことのできない特別な女性――彼女は1936年に生まれ、1982年に亡くなった。冬のロシアの村は雪に包まれている。それは厳かで、そして物悲しい。
映画のラストでは、マリアの血を受け継ぐ娘タマーラの生まれたばかりの長男が映っている。彼女は父親の再婚に対して悲しんでいるが、夫と息子には大きな愛を感じているようだ。「聖母子」の光景は、マリアから娘へと受け継がれたのである。
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