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ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』――ベルトルッチとヴィスコンティの根本的な違い

暗殺の森 [DVD]暗殺の森 [DVD]
(2012/06/23)
ジャン=ルイ・トランティニャン、ステファニア・サンドレッリ 他

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ベルナルド・ベルトルッチ監督の『暗殺の森』(1970)を観た。原作はアルベルト・モラヴィアの小説『孤独な青年』で、本作によりベルトルッチは全米映画批評家協会賞を受賞した。
主人公のイタリア人イタロ・クレリチは没落の予兆漂う貴族階級(あるいはブルジョワ階級)の男性で、十三歳の時に運転手の男から男色を受けたことをトラウマにしている。母親は屋敷で愛人と堕落した生活を送り、父親は広大な神殿めいた精神病院にいる。このような来歴からか、クレリチには人一倍「正常な人間になりたい」意志が強い。そして、彼が辿り着いた最終的な道こそが、「真のファシスト」になることであり、秘密警察に入って暗殺を請け負うことであった――このように、主人公は美貌の妻ジュリアがいるにも関わらず病んでおり、孤独な男である。
妻の台詞にこんなものがある。「教会に行っても信者なんていないわ」――ここには第二次世界大戦前のヨーロッパ人の根本的な「不安」の感覚が端的に表明されている。
クレリチの暗殺相手は学生時代のフランスの教授であった。現地で彼は教授と話をする。教授はプラトンの有名な「洞窟の比喩」を話をして、「イタリアは影を見ている」と語る。教授の妻アンナは美貌の女で、クレリチをスパイと直観しつつも一夜の情愛を交わす。
クレリチ、ジュリア、教授、アンナの四人で庶民的なダンスを踊る場面がある。ベルトルッチはそれなりの舞台を用意してはいるが、ヴィスコンティの『山猫』には到底及ばず優雅さに欠けている。また、男女の情愛の描写に細やかな仕草や印象的な場面が用意されているわけでもなく、直線的で気品に欠けている。
やがてクレリチは教授とアンナを暗殺する。ファシストたちの衰退が見え始めた頃、彼は娘と聖母祝詞を唱えている。寝室には素人の描いた聖母子画が掲げられている。そして廃院のような場所で、かつて自分を男色した男に再会し、彼に全ての罪をなすりつけて叫ぶ。
本作は人間の「救われ難さ」を描いている。しかし前回この監督で観た『ラスト・タンゴ・イン・パリ』でも感じたが、根本的にベルトルッチの映画はセンスが悪いように感じる。最も華やぐべき場面で一定の優美しか披露されず、ファシストとして没していく男の悲愴な感覚との対比において欠けている。やはり同じイタリア映画では、名実ともに貴族の出自であるルキノ・ヴィスコンティの高貴な香りの足元にも及ばない作品といえるだろう。

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