† フランツ・カフカ †

ジョルジョ・アガンベンのカフカ論「K」(『裸性』所収)――『審判』、『城』についての解釈

裸性 (イタリア現代思想)裸性 (イタリア現代思想)
(2012/05/27)
ジョルジョ・アガンベン

商品詳細を見る


ジョルジョ・アガンベンのカフカ論「K」(『裸性』収録)を読了したので記録を残す。

【『審判』について】

古代ローマ法からカフカの『審判』が読解されている。
Kはkalumniator(誣告者)の頭文字であり、アガンベンはカフカのイニシャルであるというマックス・ブロートらの一般論を退けている。
言葉の意味を説明すれば、「誣いる」(事実を曲げて悪く言う)、「告げる」ことから、Kが何らかの出来事の中傷者、悪評者であるということになる。Kalumniaとは、中傷、誣告を意味している(ダヴィデ・スティミッリの解釈)。
よく知られているように、『審判』はKが特に何の理由もないのにも関わらず法システムに束縛されてしまうところに重大なメッセージがある。私も本作を十代の頃から繰り返し読んでいるが、実際的にKが訴訟を起こされる明確な理由はどこにも存在しない。何故なら、アガンベンがいうように中傷しているのはヨーゼフ・K自身だからである。
法システム、裁判所はKを告訴などしていない(司祭の言葉)。つまり、彼は自分で自分を抽象し、自分に対して自分を訴訟しているのである。ここにはカフカという作家の強烈無比な「喜劇性」が存在する。
興味深いのは、カフカの原罪についての認識である。曰く、人類は神への罰によって堕罪したのではなく、「人類に対して成された過ち」のために楽園を追放されたとされている。カフカの名状し難い罪責感は彼の作品を一貫しているテマティスムであるが、もしかすると彼は何かに責められ、罪人であるという自覚を持つことによって、“生の息吹の奪還”を図っていたのかもしれない。そうでなければ、「偽りの自白」など常人がするはずがないからである。(カフカにおける“自己誣告”のテーマ)
「告訴」を意味するギリシア語はkategoria(カテゴリー)である。アガンベンは語源学的に、「法は本質において告訴であり、カテゴリーである」と述べている。そして、カフカというこの不穏な主体は、「法に絶え間なく挑みかける」存在として規定されている。

「自己誣告はカフカにとって、絶え間なく法へと近付き、絶え間なく法に挑みかけるための戦略の一部である。自己誣告は、まず罪に対して、つまり罪なくして刑罰はないという原理に対して問いを投げかける。そして、罪なくして刑罰はないという原理に対しても、問いを投げかけるのである」(p44)


ブロートという編集者の解釈に従うことをアガンベンは批判して、上記のようにカフカを古代ローマ法のコンテクストに沿って解釈し直そうとしている。法それ自体を攪乱するという点で、おそらくカフカはこれまでの文学の中でも最もラディカルな抵抗者である――そしてここに、カフカの今日、未来において最も先鋭的で独創的な点があるといえる。

「この訴訟においては、訴訟に召喚されたのと同じもの、つまり告訴そのものが、まさしく訴訟に召喚されている。訴訟を開始することに罪が存するのならば、判決とは訴訟そのものでしかありえない」(p45)

「たとえ人間が常に潔白であり、一般的にどんな人間も有罪であるとはいえないとしても、それでも常に人間は自己誣告という原罪の中に、人間が自分自身に突きつける根拠のない告訴という原罪の中に、留まり続けるのである」(p47)


カフカの原罪観が、『審判』において極めて重要な鍵になっていることはいうまでもない。アダムとイヴは「神」に対して罪を犯したのではない。カフカによれば、二人は後世の人類全てに罪を犯したのである。人類の始祖による人類への過ち、これは「自己誣告」のカフカ的構造それ自体であり、『審判』の構造そのものがカフカの原罪観のアナロジーになっていると解釈可能である。

「カフカはあらゆる自白を徹底的に拒絶するという伝統の中に、自らの立ち位置を定めていたようである。その伝統は、自白を支持するユダヤ=キリスト教的な文化に反するもので、むしろ自白を“不愉快で危険に満ちている”と定義したキケロから、“けして自白するな”と率直に忠告したプルーストへと続く伝統である」(p48)


このように、カフカはユダヤ教神学、カバラという「制度」の外部にはみ出さざるを得ない存在であり、そのように解釈して、初めて本来の生の、裸性としてのカフカが開示される、とアガンベンは考えている。
刑罰においては、quaestio(探求)は、「審問」をも意味している。「拷問」は的確なquaestio veritatis(真理の探求)であった。カフカの「何かに責められ追い立てられている感覚」がよく判るテクストが1920年9月の日記に記されている。

「拷問は、私にとって極めて重要です。拷問にかけられることと拷問にかけること、これこそわたしの従事している全てです。何故か? …呪われた口から呪われた言葉を聞くためです」(p50)


実際、カフカは独自の「拷問機械」を発案しており、本論にはそのテクストも引用されている。彼にとって「拷問機械」は「原罪」から発しており、作品全体を統率していると見て良いだろう。だが、罰せられることへの欲望、苦節への志向性は何故これ程までに強くならねばならないのだろうか?
『審判』は1914年10月に一時的にストップし、カフカは数日間で短編『流刑地にて』を執筆している。この一時的中断に伴う短編の生成は、『審判』における「罰」を考える上で極めて重要である。アガンベンの傑出した分析によれば、Kは実は『流刑地にて』の囚人であり、Kを処刑するための機械こそが、「カフカの機械」であるquaestio veritatis(真理の追究)――すなわち「拷問機械」なのである。拷問の特徴は、その苦によって受けてが死んでしまう点にある。拷問は本質的に受けての死による中断を想定した行為なのである。
カフカの『審判』にはいかなる救いも存在しない。彼はユダヤ・キリスト教の外部への永遠の逃走であり、主人公が無慈悲な拷問によって息絶えるまでエクリチュール機械は作動し続けるのである。

【『城』について】

agrimensorとは「土地測量士」を意味し、ジョセフ・リクワートが『まちのイデア』で述べていたように、古代ローマにおいては極めて神聖な職種である。「境界線を定める存在者」が原義のagrimensorは、constitutio limitum(境界画定)を仕事にしている。
『城』のKは測量用語ではkardo(カルドー)を意味し、これはqood directum ad kardinem coeli est(それが天球の軸の方を向いているから)を含意している。そして、カフカの場合、「測量士」は神聖であるにも関わらず、「村で必要とされていない仕事」である。
『城』の草稿を練っていた時期のカフカの精神状態について、非常に印象的なテクストが残っている。

「孤独、大部分はずっと昔からわたしに押し付けられ、また一部は自分の方から追い求めてきたもの(だがこれとても無理強いではなくて何だろう?)、この孤独は、いまやまったく疑う余地のないものとなり、極限に達している。どこへ通じているのか? それは狂気に通じているかもしれない、いや、ほとんど不可避的にそうなると思われる、これより他に言うべきことはない、狩りはわたしの内部を横切り、私をずたずたにする」(p61)


カフカはここで、自分が何かに「狩られる」感覚を切迫して抱いている。おそらく、この「狩る」主体が、顔の見えない城の主人ではないだろうか。
この頃のカフカには、自分にとってもしかすると救いになり得るかもしれない一つの宗教的体系が横たわっていた。アガンベンも指摘しているように、カバラである。しかし、作家カフカは常にあらゆる場所に居場所を持てない人間である以上、そこから逃走していかざるを得ない。彼は永遠の移民である。
カフカにとって「測量士」とは、「村/城」=「人間/神」というこの二重の境界線を測量する存在なのである。

以上、アガンベンの『審判』、『城』読解を読んできたが、彼の読みは語源にまで遡及し、かつ執筆時の意識まで丁寧に参照している点で非常に説得的かつ論理的である。


関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next