† 文芸理論 †

ジョルジョ・アガンベン『裸性』所収「創造と救済」――「自らの内に批評の要請を持たないような芸術あるいは詩の仕事=作品は、忘却を運命付けられているのである」

Photo by  Andrea Tomas Prato
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預言者と天使の差異とは何だろうか?
前者は終末における救済のための仲介者であり、後者は世界創造の代行者である。イスラム教の伝統では、創造よりも「救済」の方が序列的に上位にある。すなわち、預言者の役割の方が天使よりも高いとみなされている。これを定式化して、「救済は創造に先立つ」(主は救済のために世界を創造したのであって、創造によって付属的に救済が生起したのではない)と換言することもできるだろう。
アガンベンの『裸性』収録の「創造と救済」という論考が秀逸であるのは、この預言者と天使の差異の問題を、「哲学」と「文学」、ないし「批評家」と「作家」の差異として類比的に把捉して論じている点にある。イスラム教初期の言行録『ハディース』のテクスト――「神が天使を創造したとき、天使たちは天へと顔を向け、尋ねた。“主よ、あなたと共にいるのは誰なのですか?”主は答えた。“わたしは、不正の犠牲者と共にいる。それを正しく導くまでは、わたしはそれと共にある”」(p10)。
アガンベンの置換した図式によれば、「詩人的なもの」(文学)とは、「天使の創造」を相続している。他方、「批評家的なもの」(哲学)は、「預言者の救済」を相続している。これら二つの異なる力は、神に備わる二つの根源的な力能であり、本来的には“同時”に生じるものである。興味深いのは、アガンベンのプラトン観だ。プラトンは最初、憶説によれば「悲劇詩人」として活動していたという。しかし、ソクラテスの見事な対話を聞く内に、遂に自作を焼却したとされる。これが「批評家的なもの」の始まりだとすれば、そこには常に「天使」の仕事=「詩人的なもの」を抑圧し、それらを高みから分析しようとする欲望が存在していることになる。実際、批評家の仕事と作家の仕事は本質において似ているということもできる。作家自身も常に潜在的には批評家として個別具体的な出来事を読み、それを解釈した上で作品化している以上、「預言者」の力を痕跡化させている。同様のことは無論、批評家にもいえる。
こうした考察から、アガンベンは以下のように読者にメッセージを送っている。

「何らかの形で創造と本質的な関係を保っていないような批評あるいは哲学の仕事=作品は、空虚へと転落することを余儀なくされる。これと同様に、自らの内に批評の要請を持たないような芸術あるいは詩の仕事=作品は、忘却を運命付けられているのである。しかし今日、二つの異なる主体=主題へと引き裂かれながらも、神の二つの実践は絶望的な様子で出会いの場を求めている」(p15-16)


上記で私が引用したテクストは、非常に印象的で私の励みになっている。
実際、通俗的な読者の享楽のためだけにしか書かないような大衆作家というものは存在しているのであり、アガンベンのいっている「自らの内に批評の要請を持たないような芸術」は現代日本に蔓延しているといって良い。常に「天使」でありつつも、「預言者」でもあらねばならない――何故なら、これら二つは本来一つのものだからである。
いつの間にか、神の仕事は二通りに分裂してしまった。作家と批評家は永久に仲違いを繰り返している。天使と預言者の仕事も「分業」化されてしまっている。アガンベンはここに「否」を唱えている。
大切なのは、「創造の力の一部として、救済の仕事を思考すること」――つまり、アガンベンのような「預言者」を相続した仕事に従事する者にとっては、「創造」的な方向性が必要だということである。換言すれば、芸術家を目指す人間には、アガンベンのように自作品を常に批評的に解体可能な視座が必要であるということだ。これら双方性こそ、本来的な力なのである――「より卑近で、肉体的な、被造物としての人間に属する力が世界を救済する」(p13)。




裸性 (イタリア現代思想)裸性 (イタリア現代思想)
(2012/05/27)
ジョルジョ・アガンベン

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