† ジャック・デリダ †

フッサールと、Ghostについて


『イデーン』のみならず、フッサールの著作は絶対に何度も再読して、解釈を更新していく必要があると感じる。
私は今、『イデーンⅠ』の第二章第四十一節の中間まで読み進めている。
ここに至るまで、彼は「方法論」を厳密に論じている。
いわば、現象学的ゲームをするための「説明書」であり、マニュアルには様々な「プレイ方法」が記されているわけだ。
それらをいちいちここで述べるつもりはないが、私がここまで読んだ上で感じたことを少し綴ってみたいのだ。
私が誤読している可能性も高いが、とにかく、フッサールを読んでいてずっと気になり続けていた問題を、ようやく書き始めようと決意したのである。

それは、非常に突飛な考えかもしれないのだが、「Ghost」についてである。
不思議なことに、私には、フッサールが、少なくとも『イデーンⅠ』の170頁くらいまでで、たった一つの命題を密かに念頭に置いて、それを理論的に実証しようとしているかのような気配が感じられた。
前回のプロトコルでも、「燃えるキリンは存在するか?」と題してブログに掲載したのだが、やはりこれと同じことが気になり続けるのである。

私の今の考えによれば、幽霊は存在する。
それに、燃えるキリンも存在する。
問題は、「どこに存在するのか?」である。
フッサールに依拠すれば、それは我々の頭の中、「意識」の内部においてである。
例えば、幼年時代からずっと、燃えるキリンを街のいたるところで目撃し続けてきた一人の青年の存在を想定せよ。
彼の意識においては、燃えるキリンを見る、というのは経験的には既に当たり前となっており、日常生活でも自然の光景となっている。
リビングルームで夕食を取っていると、室内の片隅で突如、首を長くして燃えるキリンがこちらを静かに見つめていたり、大通りを歩いていると、歩道橋の上を優雅に燃えるキリンがゆっくり歩いている、といった光景である。
しかし、どう考えても、このような事態は万人には共通しない。
おそらく、世界中でも、彼一人しか、燃えるキリンを見ている人間はいないであろう。
ただし、この時、非常に重要なことは、彼には確かに燃えるキリンが見えている、ということである。
他の圧倒的多数がそれを否定しても、少なくとも彼にはそれが見える場合、我々はきっとこう判定を下すことができるだろう。
つまり、「この可哀想な青年は、頭がおかしくて、きっと幻覚を見続けているのだろう」と。
この青年が持っている世界観には、燃えるキリンは存在している。
しかし、その世界は万人が認め、確証を得られる客観的な世界ではなく、いわば彼という特殊な( )に入れられた、(世界)なのである。
フッサールが回りくどく特有な術語を用いて語っているのは、この問題に収斂されていくような気配がする。
私の言葉は説得的ではないであろうから、フッサールの言葉を引用してみよう。
以下である。

 私は錯覚や幻覚に陥るわけである。そのとき知覚は、「真正の」知覚ではない。けれども知覚が真正のものであるときには、ということはつまり、知覚が顕在的な経験連関の中で、場合によっては正しい経験思考の助けを借りて「確証されえ」かつ何度も繰り返し確証されえたときには、知覚された事物は、現実に存在するのであり、しかも知覚において現実にそれ自身として存在するのであり、あえていえば生身のありありとしたありさまで与えられているのである。(p173) 



フッサールが「経験連関の中で」といっていること、そして「正しい経験思考の助け」といい、更に「何度も繰り返し確証されえたときには」といっていることに注目しなければならない。
青年には燃えるキリンが見えている。
その青年の母親は、彼を精神病院に通わせて、彼にも何度も「そんな生き物は存在しないのよ。あなたは病気なの。あなたの頭の中にしかいないのよ。早く治療しましょう」などといっている場合、この青年は、きっと自分の(世界)が、「正しい」とは断定できないだろう。
問題は、この「正しい経験思考」の範疇なのだが、例えば、原始的な密林で暮らしている部族民の一人が、幼少時代から常に「燃えるキリン」を見ているとして、集落にも彼を否定する者がおらず、むしろ「我々にも見える」などといって、「正しさ」を形成しているとすれば、どうか?
燃えるキリンが見える、ということは、いわば集落の掟なのだ。
そういったことは先祖代々受け継がれており、一般的にその小社会においては、経験的に何の問題もない事柄だとする場合である。

だが、これはどう考えても、およそ「正しい経験思考」とはいえないのではないか。
どんなに部族民の人口が増えても、客観的に燃えるキリンが知覚されるなどということは絶対に不可能だからである。
ここで私は行き詰ったのだった。
フッサールは一応、このようには述べているのだが。

 知覚的所与そのものの全感性的内実は、それ自体で存在する真なる事物とは別ものであると見なされ続けることになりはする。けれども、やはりいぜんとして、知覚的規定性を支える基体、それを支える担い手(空虚なⅩ)は、精密な方法によって物理学的述語において規定されるものと見なされ続けるのである。(p176) 



燃えるキリン=空虚なXだ。
私はこの空虚なXを「Ghost」と前述して規定していた。
例えば、ヘンリー・ジェイムズの代表的な幽霊譚『ねじの回転』において、家庭教師の女性は、洋館の中で何度も幽霊を目撃する。
それがだんだん当たり前になってきて、最早恐怖さえ感じなくなる。
だが、他の人には幽霊など見えていないし、この作品は(まだ議論は続いているのだが)おそらく家庭教師の妄想説が有力である。
『ねじの回転』でも、「幽霊は存在する」ということを説得的に描写してなどいない。
これと同様に、『イデーンⅠ』においても、「幽霊は存在する」ということについては、かなりクリプト化して、別の表現を用いるなどして保留しているように見える。
しかし、いずれにせよ、フッサールは「存在する真なる事物」とは区別して、「空虚なX」の存在を理論的に規定しようとしているようだ。
これが非常に本書の異常に面白い部分であり、知的刺激に横溢している。
フッサールは「迷宮」を築いているようにも思えたのだが、実際は体系的な「塔」であり、その螺旋階段の途上で、私は壁面に「Ghostが実在するとすれば?」などという落書きを見出すのである。

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実は、このようなことを私が考えた背景には、フッサールの、先述した「プレイ方法」の部分に来歴がある。
例えば、今、私がテーブルの上に置かれているリンゴを見つめているとせよ。
リンゴの隣には、少し離れてレモンが置かれているが、とにかく、私はリンゴに視点を絞っているわけだ。
この時、私が見ている視覚には、「リンゴ」「レモン」「テーブル」「背景の白い壁」「背景の窓」「窓の傍のカーテン」「少しだけ見えている曇天」なども含まれている。
これらは全て「知覚されるもの」であり、現象学的用語を用いると、「コギタートゥム」という。
しかし、私は、何はともあれ、今は「リンゴ」を注意深く見ようとしているのである。
この時、「リンゴ」は、特別に「注意深く知覚されているコギタートゥム」と表現できる。
また、隣の「レモン」とか、「カーテン」などは、確かに視覚には入っているが、それほど注意して観察されているわけではないという点で、「付随的に注意されているコギタートゥム」と呼ぶことが可能である。
そして、これら視覚の全体を、「意識の庭」という。
この「意識の庭」は、そのまま我々の「意識体験」であって、コギタートゥムに対して、「コギタチオ」という。
フッサールが、正直にいって、極めて戦慄すべきことを述べているのは、ここから先のコギタートゥム/コギタチオの関係なのである。

 知覚と知覚されるものとは、本質的に一つの無媒介的な統一を形成し、つまり、ただ一つの具体的なコギタチオという統一を形成している。(p168) 



これは一体、どういうことなのか?
要するに、コギタートゥムが、コギタチオの内部に帰属されるということである。
これは実に戦慄すべきことではないだろうか?
何故なら、我々が当然のように客観的な事物として知覚していたものが、全て、実は我々の主観的な知覚体験に内包されてしまうということだからである。
例えば、ある暗い、ほとんど何もない空室を、二人の青年A、Bがドア辺りに立って見ているとせよ。
この時、Aは部屋の壁の染みの模様が、何となく駱駝の形に似ているように感じられ、特別にその壁の染みに注意を払っていた。
他方、Bは天上を見つめたり、床を見つめたりして、辺りをキョロキョロと忙しく見渡している。
この時、二人は同じ客観的世界としての「暗い空室」を見つめているのだが、彼らのコギタチオ(意識体験)は、差異を持つわけである。
すなわち、彼らは、全く異なる(世界)を見ていることになる。
(客観的)世界は同一でも、(主観的)(世界)は差異を持つことになる。だとすれば、世界は常に一つだが、個々の世界観は、限りなく無限に多細胞化するだろう。
世界は常に一つだが、(世界)の方は、増殖を繰り返し続けるだろう。
フッサールがいっているのは、この(世界)において、Ghostが存在する、ということの証明だと私には、少なくとも現在は感じられた。

補足的に述べるが、フッサールは現象学的なゲームを始めるために、デカルトの「コギト」から出発した。
コギト」は、「我、思考する」と表現されるが、フッサールによれば、このコギトの中には、「我、知覚する/想起する/想像する/判断する…」などといった、自我に関する諸体験も含有されているのである

私がフッサールを、「更新」的に読解せねばならないと確信したのは、デリダに来歴がある。
デリダは、私にとって、既に最も大切な哲学者の一人になっているが、デリダの出発点は、フッサールの『幾何学の起源』であると、一般的には認識されている。
私は初期デリダの異端的フッサール論『声と現象』を、既に途中まで読み進めているのだが、読んでいて感じるのは、フッサールをより深く読めば、デリダがより深く把握できるだろう、ということである。
今の私にとって、最も大切な哲学書は三冊ある。
一つは、デリダの『声と現象』。
二つは、デリダが序説を書いたフッサールの『幾何学の起源』。
そして、フッサールの全著作、とりわけ現在は『イデーンⅠ』である。

これらに共通しているのは、無論、「現象学」だ。
フッサールには多様な読解が可能であるように感じられ、できれば二十代の期間で、全ての著作を読了しておきたい。
そして、今後も「更新」的に読解する計画を立てている。



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