† 文芸理論 †

前田彰一『物語のナラトロジー』

アングル 《パオロとフランチェスカ》
アングル 《パオロとフランチェスカ》


ナラトロジー(物語論)の基礎文献である『物語のナラトロジー』(前田彰一)の理論篇である一章「詩的言語と文学表現」と二章「<語り>の現象学」を読了したのでそのレジュメを残す。

【一章「詩的言語と文学表現」】

言語学者S.I.ハヤカワは言語の機能を以下のように原理的に二大別している。

(1) informative function (情報伝達機能)
(2) affective function(感化的機能)


(1) は新聞記事のように情報伝達に特化した機能であり、(2)は詩的表現やスローガンなど、人間の感情に直接訴えることのできる機能である。
ハヤカワのこの二大別は、ロシア・フォルマリストの理論家L.ヤクビンスキーが言語を「日常的言語」と「詩的言語」に大別したことと相関している。
例えば、

A 「わたしの表皮は旱魃の土地よりも堅くこわばり、」
B「わたしの皮膚は堅くこわばり、」


この二つの表現の場合、詩的言語性はAにあり、Bは一定の感化的機能を有するが、情報伝達機能を持っているに過ぎない。ただし、ボルヘスや円城塔のように、むしろ文体のinformative function において先鋭化した「数学的文体」も「文学」として評価されるものであるので、どちらに「価値」を与えるかはその作品の質に依存する。
二章に紹介されている内容だが、心理学者K.ビューラーの言語伝達理論によれば、言語記号には以下の三つのタイプが存在する。

(1) 叙述機能 … 対象、事態について客観的内容を伝達する働き
(2) 表出機能 … その内容に対する話し手の態度表明
(3) 呼びかけ機能 … 話し手が聞き手に働きかけて反応させようとする働き。


・ 「異化」について

異化についてトルストイはその日記の中で既に以下のように述べていた。

「生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名付けられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常化に見慣れた事物を奇異なものとして表現する<非日常化>の方法が芸術の方法である。…芸術は事物の行動を体験する仕方であって、芸術の中に作り出されたものが重要なのではないということになる」(p22)


これは作家ならではの視点であり、彼はここで制作者にとっての日常をいかに変容させて、生に新しい息吹を与えることができるかを重視している。作品はその結果であり、あくまでも制作プロセスで作家が息吹を取り戻すことに重点が与えられた部分である。

「芸術においては、知覚のプロセスそれ自体が目的である。…芸術は事物を作ることを経験する方法であり、作られた事物そのものは芸術にあっては重要ではない」(p30)


このトルストイの「非日常化」の操作は、フォルマリストのシクロフスキーによって「異化」の概念へと発展する。

「トルストイは絶えず非日常化の方法を用いるが、彼のその方法は事物を初めて見たもののように記述し、また事件も初めて起こったもののように描く。例えば『ホルストメール』では、物語は馬の名において語られ、事物は馬の知覚を通して非日常化(異化)され、あらゆる社会制度の矛盾や不合理が批判の目に曝される。
シクロフスキーによれば異化とは、事物を既存の生活の事実の系列から取り出し、事物を揺り動かすことによって、事物の概念を今までそれが置かれていた意味論的系列の外に出し、別の新しい意味論的系列の中に位置づけることである」(p22)


著者によれば、ロシア・フォルマリスムの理論の中心概念は「異化(非日常化)」にこそある。
ロシア文学の原点とされるゴーゴリの『外套』は「異化」と「グロテスク」の方法論によって書かれた古典として評価される。物語よりも、むしろ作者自身の特異な「語り」のダイナミズムによって構成されている作品である。

「この短編の冒頭では、<私>という語り手が登場して一見したところ一人称小説風の仕立てに思われるが、この<私>と呼ばれる語り手はすぐに姿を消して二度と現れない。つまり、この語り手は実は全知の語り手なのである。全知の語り手が束の間だけ作中人物の住む物語世界に<私>という呼称で顔を出し、すぐまた本来の圏外に戻るという方法は、19世紀に広く流布した物語のしきたりであった。これはディケンズ、ジョージ・エリオット、ジャン・パウル、ヴィルヘルム・ラーベ、フローベールなどに見られる手法である。フローベールは、『ボヴァリー夫人』の語り手をある作中人物の学友として設定しているが、この語り手は小説の初めの方ではまだかなり重きをなしているものの、後には次第に目立たなくなっていく。これは一種の<異化の修辞学>である。
ゴーゴリは『外套』で、いうなれば物語の幕開けを二度行っている。すなわち、初めては一人称小説の領域に越境した<私>という語り手によって、次いで自らの境界侵犯を撤回し、自己本来の領分に再び舞い戻った<全知の語り手>によって」(p26)


『外套』では人物描写も「誇張」と「省略」によってグロテスクに表現されている点が注目される。本作には、著者が指摘するような「初冬」として描かれた時間設定の六ヶ月でも、まだ冬が続いているというようなミスも存在している。ただしこれも「異化」の効果による時間の捻れとみなすことも可能であろう。
ヘミングウェイは『殺し屋』において、人物についての説明を極端に省略し、ほとんど匿名化させることである一面のみを誇張することに成功している。ある書き手が描写においてどのような修辞的態度を取るかによって作家の個性の一端が読み取れる(modality/法性)わけだが、ヘミングウェイの場合、inpersonalであり、法性は欠如し、中立的で無色透明、「無個性的な顔」にまで捨象されているのである。
こうした省略や誇張の一つの例として、「レジュメ(要約)」の手法がある。これは全ての場面描写を逐一丹念に描きいれることは読者の心理的付加を誘発するので、必要なものだけを描いて後は省略、捨象するというものだ。この遠近法を用いたクライストの『チリの大地震』では、新聞的な「要約的報告」と、細かい人物たちの動きを描写した「場面的描写」が洗練された形式で上手く同居している。また、ウェイン・ブースによれば、小説の中のある単一文を、物語全体の「要約」とみなすこともできる。
エイヘンバウムが述べているように、芸術作品は人工性の構築物であって、作者の個人的感情の単純な反映とみなすことはできない。作品内で語られたある価値、信条などがそのまま作者の心理内容と同一視されることは学問にとって誤謬である。
このように著者は一章でロシア・フォルマリスムの中心概念「異化」の概念をまず紹介し、その古典であるゴーゴリの『外套』に見られる「笑い」、「グロテスク」(幻想的なものの介在による日常の歪曲)にも注目している。こうした方法をはっきりと意識していた作家に、我が国では大江健三郎がいるが、著者も本書の最後で『万延元年のフットボール』について論稿を残している。
このように、芸術としての文学は、日常言語の地下に眠る言語本来の「詩的機能」を召喚し、それによって制作者の「生の感覚」を取り戻すことにあるという点で、明らかに「呪術」の起源と相関する。


【二章「<語り>の現象学」】


まず、著者は小説作品としてのコンテクストから切断されたかのようなパラグラフの例として、ムージルの『特性のない男』を引用する。本作は「物語を物語ろうとしない物語」であると評されている。以下は小説の内部に存在しながら、「独立したパラグラフ」としても読める冒頭である。

「大西洋上に低気圧があった。それはロシア上空を覆う高貴あるに向かって東に移動していたが、これを回避して北へ向かう気配はまだ示していなかった。等温線と等暑線はその機能を果たしていた。気温は、年間平均気温……」(p53)


重要なことは、我々が小説を読む場合、たとえこのような独立したパラグラフに遭遇しても、それを小説という制度の内部に帰属させているという点である。

「ムージルの文体によって、我々は現実が別様にも解釈できること、我々が考えているのとはまるで違ったふうにも受け取ることができることを教えられる。ムージルの小説においては、既に観察したように伝統的な全知の語り手による<語り>のスタイルが優勢であるように見えるが、しかしそこでは19世紀的な物語の論理は最早放棄されている。それは年代記的な時間軸に沿ったストーリーの不在、過剰なエッセイ的言説による思考実験、認識のエクスタシー的冒険、厳密な論理性と神秘主義の混在といった傾向に看取されている」(p59)


・ 「小説の語りの三類型」

(1)「筆者」によって俯瞰的に語られる三人称小説
(2)「わたし」(一人称の主人公)によって進行する一人称小説
(3)「映し手」(筆者が寄り添う視点となる人物)による三人称小説



(1)「筆者」によって俯瞰的に語られる三人称小説

代表的な作家には、セルヴァンテス、フィールディング、ジャン・パウル、バルザック、ゲーテ、ディケンズ、サッカレー、ラーべ、トルストイなどが存在する。特にフィールディングの『トム・ジョウンズ』はナラトロジー系統の理論書でよく引用されるので重要である。また、ディケンズはこの方法論によって「場面描写」の精度を卓越化していったと評価されている。
「筆者」が物語の外部から「全知の視点」に立って、論評、説明、描写を加えるというこの方法論は、文学における古典的な制度である。18世紀には直接読者に「親愛なる読者諸賢よ」などと呼びかけたりする手法も多用された。
ここで「筆者」とは何かについて理解しておくことが重要である。ウェイン・ブースは『フィクションの修辞学』の中で、「作者によって書かれた<第二の自己>」のことをimplied author(内包された作者)と呼称した。換言すれば、テクストに表現された「語る私」と、実際に書いている「作者」とは差異化されているということである(ヴォルフンガング・カイザー)。

「今日の小説理論では、作者と語り手を峻別することは最早当たり前であるが、それは<語り手>という概念が物語の構造的なファクターとして小説の分析に適用されるようになり、それとともに小説の構造分析が飛躍的に発展したことに関連している。<語り手>とは一つの便宜的な概念装置ともいえるが、しかし<語り手>に関する考え方はけして一義的に明確なものではない」(p86)



(2)「わたし」(一人称の主人公)によって進行する一人称小説

代表的な作家には、グリンメルスハウゼンの『阿呆物語』、デフォー『モル・フランダース』、そしてローレンス・スターンなどがいる。スターンは「書く行為そのものの劇化」と評されるように、「近代的主体性」の一つの象徴として把捉できる。
この方法論の場合、直接話法で「昨夜の演劇は実に見事だった!」と直接心情を告げることができる。三人称の場合は、「~と言った」という間接話法になるので、こうした生の感覚には一歩距離が置かれる。(ただし間接話法には、人物の発話を分析した上で伝達できるという大きなメリットがある)。
プルーストは一人称で『失われた時を求めて』を書いているが、彼は同時に物語世界の中では「マルセル」という一人の登場人物でもある。「朦朧としたマルセル」の過去の動きを、「明晰な現在の私」が想起する。
また、本書に収録された大江健三郎の『万延元年のフットボール』論(この作品の大きな主題は、帰郷により喪われ傷付いたidentityの快復を見出すことであるが)で解説されているように、大江は「異化された日常世界」を生きる「わたし」という、伝統的な私小説の語りの形式にロシア・フォルマリスムの理論における「異化」を導入している。初期大江に頻繁に登場するナラティブの主体「僕」は、いうまでもなく作者本人ではなく「体験するわたし」であって、このわたしが体験する世界も高度に「異化」を経ている。「体験するわたし」と、彼を「語るわたし」という二極構造は、(2)のスタイルの場合、不可避的に出現する仕組みである。

(3)「映し手」(筆者が寄り添う視点となる人物)による三人称小説

「映し手」(反映者)という表現は、ヘンリー・ジェイムズの小説理論のテクニカル・タームである。
代表的な作家には、フローベール、ヘンリー・ジェイムズ、ジョイス、ウルフ、ブロッホ、ヘミングウェイ、フォークナーなどがいる。この方法では、三人称で表現された、ある特定の人物(映し手)に作者が視点を寄り添わせる。1850年代にフローベールが実践し、その後ジェイムズが『大使たち』、ジョイスが『ダブリンの人々』などの作品によって理論化した。
ジェイムズの場合、たった一人の登場人物に書き手が同化している語りとなっているが、無論「作者」とこの「映し手」は差異化されている。また、ジョイスの場合、三人称であっても感情移入度に応じて「自由間接話法」(一人称の「ぼく」、「わたし」の介在)で書かれている。

現代の小説で最も重要な語り方は、三人称の<意識の中心>である。この三人称の<彼>、<彼女>の意識を通して、作者は叙述や描写を行う。ジェイムズのいう<反映者>が、たとえ複雑な内面の諸事象を映すよく磨かれた鏡であろうと、混濁した鏡であろうと、十分に語り手の機能を果たすことができる」(p94)

「語り手の後退、描写の中立性、場面的描写の優位、会話の多用、体験話法、作中人物の意識による繁栄、視点の固定化といった傾向が、このタイプの小説の特徴である。これによって読者は、語り手の媒介なしに、いわば直接小説世界に向き合うことになる。あるいは読者は一人の作中人物になりかわり、その人物の眼で世界を眺めたり、その人物の感情や思考で世界を体験するようになる」(p129-130)


このように、現代の小説理論においてフローベール、ジェイムズ、そしてジョイスが与えた理論的な貢献には豊かなものがある。
ここでフローベールとジェイムズにおけるperspectivism(遠近法主義)について説明しておく。

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上図のように、語り方には、作者がそのまま外部から物語世界を観察することのできる視点と、物語世界の内部に存在する特定の登場人物に視点を一致させて(共存させて、寄り添わせて)、彼/彼女の視座から世界を覗く視点が存在している。
無論、この二つの視点は一つの作品内部で同居していることもある。例えば、西村清和氏の『イメージの修辞学』の五章における「語りの分類」において説明されているように、ジェーン・オースティンの『自負と偏見』では、ある人物に寄り添いながら、次の描写では別の人物の視点(内面)から捉えられている、などということも古典作品において見出せる。オースティンだけでなく、スタンダールの『パルムの僧院』でも、瞬間的に無人称に近い「筆者」の視点に移動するなどの、読み易さを心掛けた配慮が試みられている。こうした二つの視点の巧みな結合は、トルストイの『戦争と平和』にも見出せる。
前田氏の本書では、「三人称」(映し手)視点による内面の描写において、「無人称」視点によってカメラが遠景にフィードーバックするような、(1)と(3)の混合形式について具体的に詳述されていないので、この点についてはより厳密な『イメージの修辞学』のナラトロジーが参考になるだろう。
著者は近代小説の叙述における「単線的構造」の定式として、「~となった。そしてそれから~」という規則をあげている。こういった時間軸から脱線していくために、ウルフらは複雑な意識の印象、流れ、もつれを再現しようと企てた。意識の流れに自由に身を任せた場合、現在は一挙に二十年前と接続したり、突然ある場所の記憶が再生されるといったことが可能となる。
(3) の方法論で、今なお洗練された印象を与えるウルフらの「意識の流れ」は、元々以下のような「体験話法」のスタイルを発展させたものである。「ジョンはその日の夜、自分の気持ちをスーザンに伝えた。愛している、変わることなく愛し続ける。分かってもらえないだろうか。スーザンは黙って窓の外を見ていて」(p152)。
ここでは、三人称による直接話法が実現している。一人称=直接話法、三人称=間接話法という単純なルールに従属している書き手であれば、このような芸当は思いつかないだろう。この方法論は、(3)のスタイルが(2)の効果をも実現可能であることの証明でもあり、ウルフによって三人称の「意識の流れ」(内的独白)として発展させられた。
元々、「stream of consciousness(意識の流れ)」という術語自体、ジェイムズの兄である心理学者、哲学者のウィリアムが『心理学原理』(1890)において用いた言葉である(最初の創始者は作家のエドゥアール・デュジャルダン)。この方法によって、三人称の客観的な視点に立ちながらも、ある「映し手」の心理の襞の内奥まで描くことが可能になり、語り手はこの瞬間において「映し手」の意識の中へと同化、消失することができる。
ウルフの他に、アルフレート・デーブリンらがこの方法において優れていた。




物語のナラトロジー―言語と文体の分析 (千葉大学人文科学叢書)物語のナラトロジー―言語と文体の分析 (千葉大学人文科学叢書)
(2004/02)
前田 彰一

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