† 文芸理論 †

あらゆる物語のナラティブ(叙法)はたった三つのパターンから成立している――西村清和『イメージの修辞学』読解

Dernier Tango a Paris by Ellen von Unwerth
Dernier Tango a Paris by Ellen von Unwerth

表象文化論のための選書リストの一冊にも入っている、西村清和(東京大学大学院人文社会系研究科教授)氏の『イメージの修辞学』(2009)の第二部「小説の映画化」第五章「語りのモード」を読了したのでレジュメを残しておく。
因みに、私は現在四章、八章も読了したが、本書は分厚い理論書であるにも関わらず、非常に厳密に分かり易く丁寧に書かれており極めて有益である。テーマは副題にもあるように、映画と文学、絵画などの交叉であるが、目下私のテーマは「ナラトロジー」にあるので重要な理論的基礎が提示される五章を先に記録しておきたい。

「小説におけるナラティブの三類型」

ジェラール・ジュネットによれば、mode narratif(叙法)とは、物語を語る際の<物語情報の制御>の様態である。「人は自分が物語る対象をより多く物語ることも、より少なく物語ることもできるし、その対象をあれやこれやの視点から物語ることもできる」(p161)。
ジュネットは、20世紀中頃におけるナラトロジー研究の本質的な誤謬のひとつとして、「どの作中人物の視点が語りのパースペクティヴを方向付けているのか、という問題と、語り手は誰なのか、という全く別の問題が混同されている」件を提示している。この混乱を受けて、ジャン・プイヨンが『時間と小説』(1946)の中で行った分類は、その後バルト、トドロフ、ジュネットへと受け継がれ発展された基礎的な定式として重要である。
以下、プイヨンは「視点」と表現していたが、ジュネットはfocalisation(焦点化)という術語を採用している。
尚、この分類は前回掲載した千葉大文学部教授の前田彰一氏の『物語のナラトロジー』と大部において重なるが、西村氏は「人称」よりも、映画との相関で「内面」をどう描写するかによってカテゴライズしているため、あえて分類を総合化することをしていない。

(1) la vision par derrière/<背後から>の視点

このスタイルを、バルトはl’a-personnel(無人称法)と呼称している。トドロフは「語り手>作中人物」という公式で表現し、一般的には「神(全知)の視点」と呼ばれる。
基本的に語り手(筆者)が登場人物を俯瞰する形式の三人称小説である。

「優越した視点、神の視点から物語内容を発信する。この語り手は、登場人物たちの内部にいる(というのも、彼らの内面で起こることを全て知っているからである)と同時に、外部にもいる(というのも、特に一人の人物と同一化することはけしてないからである)」(バルト、p163)


ホメロスの『イリアス』にあるように、語り手にとって登場人物たちの「内面」は常に一義的で透明であり、隠しだてがない。全知の視点という「客観性」を帯びたかに見える表現は、厳密には作者があくまでも限定的で主観的な視点の持ち主である限り不正確であるので、ここでは「操り人形―人形遣い」の関係として、登場人物―作者の図式を把捉しておくのが良いだろう。
この形式の語りは、「古典的心理学」に基いて書かれた「古典的小説」において多く見出せる。どの人物もヘンリー・ジェイムズ的な意味における「映し手」にはなっておらず、ジュネットの言葉にあるように「非焦点化のディスコース、または焦点化ゼロのディスコース」である。
代表的な例はフィールディングの『トム・ジョウンズ』(1749)である。この作品では、登場人物の「振る舞いの理性的な根拠付け以上の描写」(例えば人物の内的独白、意識の流れ)は成されない。ジェイムズ以後の現代の小説では、三人称による俯瞰的な語りに、ジョイス、ウルフ的な自由間接話法を応用した「意識の流れ」が混合されているものが多い。この点をバルトも以下のように指摘している。

「今日では、数多くの、それも一番普通の物語が極度に速いリズムにしたがって、しばしば同一の文の範囲内で人称法と無人称法を混ぜ合わせるのが見られる」(p165)



(2)la vision avec/<ともにある>視点

トドロフは「語り手=作中人物」で定式化し、ジュネットが「内的焦点化のディスコース」と呼んだスタイルである(バルトは「人称法」と呼称)。
この語りでは、フローベールの『ボヴァリー夫人』にその先駆が見出されるように、「ある人物Aのフィルターを通して世界が捉えられる」。この方法論はジェイムズが「映し手」と呼んだものであり、プイヨンはこれを看取して、「世界=主体(映し手)という複合体」と等式で結んでいる。いわば映し手から見られた世界が物語として提示されるわけである。
ハイデガーは「世界にある<わたし>の存在情況としての感情や気分」を、Befndlichkeit(情態性)と呼んだが、これはまさにフローベールが確立した「近代的なナラティブの主体性」である。「近代」について考える上で、ナラトロジーのコンテキストではフローベール、ジェイムズ、ジョイスと続く「映し手」の系譜学は非常に重要な概念であろう。
このように、<ともにある>視点とは、トーマス・マンの『ブッデングブローク家の人びと』でも踏襲されていたように、「そのつど個人が否応なく置かれた存在情況を描写しようとする小説」の方法論に他ならない。これを換言すれば、「近代小説」の根本的特徴とは、まさに「映し手」による「内面のリアリスム」にあるといえる。

「内面のリアリスム」

(2) の核心である「内面のリアリスム」とは何だろうか?
これは19世紀に広く活用され、ジェイムズが体系化し、20世紀においては文学システムの「制度」になった規則である。17世紀ではラ・ロシュフーコーらモラリストによる「エッセー」の形式にその萌芽を見出すことができる。18世紀になると、「内面のリアリスム」を準備した二人の先駆的作家が出現する。一人はリチャードソンで、彼は18世紀全般に流行った「書簡体小説」を先鋭化させた。もう一人はデフォーであり、彼は「自伝的回想形式の冒険小説」を残した。特に前者は「近代的な一人称小説」を先取りした存在として評価されている。
18世紀のナラティブの問題点を改良し、進化させたのが19世紀初頭のジェーン・オースティンである。オースティンは<ともにある>視点と、(1)のいわゆる「全知の視点」とを混合した三人称小説を実現させた。
『自負と偏見』(1813)の方法論によれば、「映し手」がある人物Aから人物Bへと移行するという現象が見られる。これは物語により良い多面性を持たせるための作家の方策であり、<ともにある>視点を固定せず流動化させたり、<全知>の視点をも混在させることでよりダイナミックな小説空間を構築することに成功している。
このオースティンの視点の流動性は、「映し手」そのものの遊牧性として把握することができるだろう。無論、作品の統一感を出すためには「映し手」を一人に限定することも必要であるが、章ごとに中心人物をずらしたり、そのつど「内的焦点化」を変移させるという方法は物語世界がスタティックなものと化してしまうことを防ぐ機能になるだろう。
スタンダールの『パルムの僧院』でも、<ともにある>視点から瞬間的に「無人称の視点」へ移動するなどの方法が取られている。換言すれば、作者は寄り添っていたある人物の心の襞の奥を描写しつつ、その次に遠近感を持たせるために「風景の中の人物」として彼/彼女を再配置させ、描写することができるわけである。
トルストイの『戦争と平和』では、「映し手」視点に「全知」の叙述者の位置が混合され、先のオースティン、スタンダールのように「内面のリアリスム」の発展した形式が見られる。
さて、このように(2)の方法論は<ともにある>視点として、特定人物に作者が視点を合致させることに第一の操作があり、その上で改良者たちはそこに第二の操作として「全知の視点」を混在させ、作品をダイナミックで遠近感のあるものへと進化させたのだった。こうした(2)の手法において浮上する「全知の視点」は、(1)の古典主義的小説群のそれとは区別して、西村氏は<情況>の視点と呼称している。
以上のことをまとめると、近代小説のナラティブとは、以下のような二つの主要因子に分解することができる。

近代小説のナラティブの基本形式

・ <ともにある>視点
・ <情況>の視点


この合理的に確立されていった方法論こそ、現代でも文学の制度として広く一般化され、今日も多くの作家志望者たちによって「小説の基礎学習」として暗々裏に看取されている「制度」に他ならない。今日の「基礎」は、このように文学史の過程で多くの失敗や企てが試された結果成立したものなのである。我々は(2)の方法論を先鋭化させた、フローベール、ジェイムズ、ジョイスらの鋭意にやはり深い感謝を捧げなければならないだろう。

※<ともにある>視点という観点から見ると、一人称「わたし」と三人称「彼は」は基本的に同一であるが、一人称小説には以下のような特徴がある。

・ 自己反省(内的独白そのものの現前)
・ 追憶や悔恨の自然な展開


こうした一人称の「意識の流れ」は『失われた時を求めて』や『大いなる遺産』において見出すことが可能である。

(3)la vision du dehors /<外部から>の視点

これは20世紀のアメリカ映画から逆輸入された形で発展したスタイルで、一般的にハードボイルドタッチの描写(代表例として、ドス・パソス)において見出すことができる。筆者は淡々と人物の行動を描き、内面にはけして入り込まない。客観的・行動主義的叙述法とも呼ばれる。
トドロフはこれを「語り手<作中人物」と定式化している。ジュネットは「外的焦点化のディスコース」と呼んだ。
このスタイルは警察調書に雰囲気が似ている乾いた文体のため、「探偵小説」に最適であると考えられている。C=E.マーニーは「調書の美学」と形容している。
ただし、映画からの影響が強いと目されるこのスタイルにも19世紀において先駆が見出されている。ジュネットによれば、ウォルター・スコット、アレクサンドル・デュマの筋本位の「外的焦点化」にその萌芽が見出せるのだという。20世紀中頃に出現したラテン・アメリカ文学の旗手ボルヘスの文体も、「探偵小説」に近い「内面の捨象」に特徴を見出せる。
デヴィッド・ボードウィルによれば、1960年代以前の映画理論の一つに、the invisible observer(不可視の観察者)というものがある。これは遍在する目撃者を意味し、カメラの視点をそのまま監督自身の視点として把捉する見方である。いわば視聴者はこのカメラの視点から映画を覗いている、という考え方だ。メッツはこの視点を、omnivoyant et invisible(全てを見通すが自らは不可視)と表現している。
だが、元々登場人物をカメラで覗き、観察するという方法は映画撮影における「文法」そのものなので、これを素朴に「目撃者の視点」と表現してしまうと、あたかも不可視の第三者が映画の全てを何処からともなく観察していたように受け取られてしまうだろう。「目撃者」ではなく、正確には「報告者」が正しいとされる。映画でのカメラワークは、映画に内在する一定の「語りの記号論的装置」であるに過ぎないのである。
ここから、著者は「映画での<語り手>はディスコース(物語言説)が表現される仕組みの一構成要素である」と規定している。






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 近代小説のナラティブの基本形式の一つである〈ともにある視点〉の結実として、ヘンリー・ジェイムズの『大使たち』が挙げられる。本作はジェイムズ後期三部作の一つであり、ジェイムズの方法論を知る上でも極めて評価が高い英米文学の古典的名作の一つとして位置づけられている。
 『大使たち』の「文体」は近代文学の遺産を相続した上での「前衛理論」を視野に入れている我々にとっても重要なので、以下に判り易くまとめておきたい。

『大使たち』の文体の特徴

・精緻極まりない心理分析(心の細やかな動きが、実に丁寧に描き出される)
・登場人物一人に「視点」を限定する、いわゆる〈ともにある視点〉の徹底化
・( )や「 」、ーー、を多用した複雑に構成された文体
・「視点」人物による込み入ったイメージの多様な交錯


このうち、ジェイムズ研究者にも共通して認められているのが、他でもない「登場人物一人に〈視点〉を限定する、いわゆる〈ともにある視点〉の徹底化」である。これは19世紀までの、いわゆる神視点のナラティブからの脱却であり、ジェイムズはそう創始者である。『大使たち』の場合、主人公であるストレザー一人である。仮に他の登場人物の心理描写をどうしても描かねばならないような場面になった時、当然ながら原理から外れないようにストレザーからの「推量」として他の人物の心理を描く。『大使たち』には、幾つかこの原則から逸脱している箇所があるが、もしもこの方法に束縛を感じてしまう場合、書き手にはそれ以外のナラティブの手法も広がっていることをここで念のために付記しておこう。
 中期の作品『アスパンの恋文』でも、やはり「〈わたし〉の心理」が中心で構成されている。この〈わたし〉は「作者」ではなく、あくまでストーリー内部の登場人物である点で、原理的には『大使たち』の厳密な〈ともにある視点〉と相関している。『大使たち』と三部作をなす『金色の盃』では、前半・後半にそれぞれ「視点」人物が二人用意されるという手法である。『鳩の翼』では、複数の「視点」人物の交代が不規則に起こるために、作者自身も統一感の無さを自覚していた。
 以下に、『大使たち』におけるストレザー中心によるナラティブの徹底されたテクストの一部を紹介しておく。

「…疑いもなく数分間、メイミーによって代表されるウレットこそ、疑問の余地なしに、最高の権威に違いないと思われた。これこそはウレット自身が感じている真実に違いない。ウレットは自信満々彼女を世の中へ送り出すであろう、勝ち誇って彼女を指し示すであろう、確信を抱いて彼女を擁護するであろう、彼女が満たし得ぬ要求はなく、答えられない疑問はないであろう。
 そうだ、これでいいのだ。ストレザーは自ずと楽しい気分に浸っていた。一つの社会が二十二歳若い娘に代表されるのが最善であるとすれば、メイミーは完璧にその役割を果たしている。まるで慣れてでもいるかのようにその役割を果たしている。姿かたちも言葉遣いもドレスの着こなしも、ぴったりではないか。もしかしてこの先、パリの明るい光、スタジオの照明のような冷たい光を全身に浴びて期待を裏切り、自意識過剰に陥りはすまいかと彼は怖れたけれども、すぐさま、彼女の意識は今のところその大きさにしてはまだ空疎、複雑というよりは単純であって、多くを取り去るよりはできるだけ多くを注ぎ込んであげるのが親切というものだ、と考え直して、満足したのだった。彼女はしっかりした体つきで、背丈もちょうど似つかわしかった。少し色白すぎて血色が悪そうに見えるかもしれないけれども、人前に出て感じのいい打ち解けた輝きを放っているのを見ると、健康なのは確かだった。どこにいても彼女はウレットを代表して賓客を「お迎え」しているような印象を与えたが、どこか彼女の物腰、口調、動作、可愛い青い眼、可愛い完璧な歯並び、そして非常に小さな、小さすぎる鼻には、彼女を見た人に、すぐに人声が賑やかな暑い明るい部屋の窓と窓のあいだ――客たちが「ご挨拶」のために並んでいる列の先端に――立っている彼女を連想させるものがあった。」(下巻、p32〜33)


 やや長い引用になってしまったが、このテクストには上記で我々が見てきた〈ともにある〉視点の最良の部分が結晶化している。ストレザー視点によって捉えられた丹念な人間観察には、ストレザー自身が「類推」して他者がどう感じているのかを描写するという技法が見られる。彼の細やかな心理描写は、自由間接話法によって、一文だけ抜き出せば「一人称」とも感じられるようなダイナミックな動きを実現している。
 これは私の直観であるが、プルーストの想起型の一人称による濃密な「意識の流れ」が、もしも三人称で〈ともにある〉視点になれば――すなわち、「わたし」が「マルセル」という三人称に変われば――ジェイムズの『大使たち』に近接したナラティブの形式を取っていたのではないか、とすら思われるほどである。
 ジェイムズは若い頃にツルゲーネフ、ホーソーン、特にバルザックから文学的影響を受けている。文化資本の並外れて高い名門家庭に生まれ、19歳でハーヴァード大学法学部に入学したものの、一年ばかり文学部の講義に参加した後は退学して自ら研鑽を積み、二十代後半には既に作家として自立していたという履歴も非常に興味深いものである。 
 また、ジェイムズは生来作家気質の人間で、社会経験を持たずに早くから小説を書き始めたため、「実体験の少なさ」を批判されることが稀にあった。しかし、ジェイムズは「経験」について、以下のように非常に興味深いテクストを残している。「(経験とは、)意識の部屋にかけられた極めて繊細な絹糸の巨大な蜘蛛の網であり、空中に漂う微粒子を全てその網で捉えるのだ」。これは、ジェイムズがいかに〈ともにある〉視点人物の心理描写を綿密に、徹底して細密に描写しようと企てていたかを感じさせる貴重な言及ではないだろうか。彼にとって、小説を書く行為において本質的に重要なのは「経験」よりもむしろ、「見えざるものを、見えるものから“推量する”」イマジネーションの力なのである。
 ジェイムズは、プルーストと並んで我々にとって最良の古典的価値を持った存在といえるだろう。





「参考文献」

イメージの修辞学―ことばと形象の交叉イメージの修辞学―ことばと形象の交叉
(2009/11)
西村 清和

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