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† 表象文化論 †

「裸」とは根源的に何なのか?--着衣の本質を考究した表象文化論の基本文献、ジョルジョ・アガンベン『裸性』

Jindřich  Štyrský

インドリッヒ・シュティルスキー


美学系の研究者の間で注目されているジョルジョ・アガンベンの『裸性』の表題作を読了したので、そのレジュメを元にして私自身が考察したことも踏まえて記録を残しておきたい。「裸性」は、カトリックの私にとっても極めて刺激的なテーマであり、アガンベンは神学とファッション、更にはポルノグラフィを媒介にしつつ根源的な「裸」とは何かの考察へと踏み込んでいる。雰囲気から既に御察しのとおり、非常にスリリングで刺激的な考察である。
アガンベンのテクニカル・タームは実は聖アウグスティヌスの霊肉二元論を踏襲する形式(Caro enim concupiscit adversus Spiritum「霊と肉とが対立しあっている」/ガラテヤ5.17)になっており、本作で定式化されているのが「本性」を「裸」に、「恩寵」を「衣服」に一致させた図式である。これをアガンベンは「神学的装置」と呼称して、以下のような三つの「裸の時代」を素描している。

【「エデンの園」時代の裸体たち】

この原初の時代において重要なのは、アダムとイヴが神から「恩寵」を着せられている(恩寵に包まれている)という考え方である。「恩寵」は本性ではなく、神が着せる特別な「衣服」である。
純粋に視覚的に見れば、この時代の二人は裸体である。すなわち衣服を纏っていない。しかし、二人は「恩寵」を着ている。この着衣の形式について、アガンベンは「頬を赤らめることなく裸でいられた時代」だとして、「幼年期」を暗示させている。いわば、着衣する必要性すら感じなかったのであるから、「衣服を着る」という観念自体が成立していない。
アダムとイヴの裸体への憧憬から、グノーシス文献の『トマスによる福音書』のような書物では、裸体を神聖なものと捉える信仰が芽生えている。彼らは「子供のように」振舞うことに聖性を見出していた。
このエデン時代の二人について、おそらく神学的にも最もラディカルな意見を表明したのがかの聖アウグスティヌスである。彼は二人を「意志によって性器を完全に制御できる状態」にあったと解釈する。換言すれば、この時点ではまだ聖アウグスティヌスのよく用いた概念であるlibido(欲情/性器の制御の不可能性)は浮上していない。
聖アウグスティヌスは『神の国』の中で、二人の肉体は「動物的なもの」として創造されたのであり、「精神的なもの」としては創造されていないと解釈している。しかし、この「動物的な本性」を持ったアダムとイヴの肉体は、「一枚の衣服の如き恩寵」によって覆われていて、病苦もlibidoも知らなかったと規定されている。
これに対して、聖アウグスティヌスに批判されたペラギウスの教説は、裸体というテーマで考える上で非常に示唆的である。ペラギウスによれば、nullam dicit Dei gratiam nisi naturam nostram cum libero arbitrio(恩寵とは人間本性に他ならない)。これは聖アウグスティヌスが考えていた、「恩寵を着ている状態としての堕罪以前のアダムとイヴ」という考え方と対立する。これは顛倒された図式であり、ペラギウスは人間本性そのものが「恩寵」であると考えていた。聖アウグスティヌスのように、人間本来の本能的な衝動を抑えるために、理性的な「恩寵」を「着る」という“性悪説”に基く発想ではなかったのである。
アガンベンは「典礼聖歌」を担当するのがなぜ「子供たち」であるのかについても興味深い言説を残している。クインティリアヌスの解釈によれば、candida(純白)とは端的に「声」の象徴であった。教会において、彼ら聖歌を歌う無垢な子供たちの存在こそ、エデンの園時代のアダムとイヴの再現前なのである。

【「堕罪直後」の裸体たち】

peccatum originale(原罪)を、アガンベンは「恩寵の喪失」と規定している。既に述べたように、彼は聖アウグスティヌス以来の伝統に基いてエデン時代をひとつの着衣形式として捉えている。「恩寵」をアダムとイヴが着衣していたわけだ。しかし、堕罪によってこの「恩寵の喪失」が生起し、二人は瞬間的に猛烈な「恥」を抱くのである。羞恥心を感じた部位は、イチジクの葉で隠される。これは既に「着衣」の形式であり、「恩寵=衣服」以後の、人間的で俗物的な「衣服」の様態が現出している。
アガンベンの思考の文法に沿って考察すると、堕罪の瞬間における「恥」の巨大さが端的に表れた部位である「性器」が、「イチヂクの葉=衣服」によって覆われる。これは「恩寵の着衣」に次ぐ、人類自身による着衣形式の起源である。
『ゾハール』によれば、原罪によって「光の衣服」が剥ぎ取られ、「イチヂクの葉」で二人はその“代わりに”覆ったとされている。主が「獣の皮の衣」を二人に贈与するのはこの後である。
「イチヂクの葉」は「恩寵=衣服」を代理しているのだろうか? だが、代理しているにしては、この葉はあまりにも小さ過ぎる。実際、この葉だけでは二人の性器がかろうじて隠される程度である。恩寵としての「光の衣服」を代理するには、あまりにも脆くみすぼらしい“衣服”であるといわざるを得ない。
アガンベンは、「善悪の認識の木」が二人に教えた唯一の内容は、彼らが「裸体」であるという情報であったとだけ記している。つまり、この木の実を食べた瞬間、二人は刺すような痛みにも近い羞恥を感じたのだ(そして同時に、ここに“善悪の起源”が存在する)。端的に彼らが感じたのは、おそらくお互いの肉体的差異であり、イヴの胸の膨らみ、丸み、アダムの筋骨、性器であったろう。こうした無垢な兄妹にも近い存在であったアダムとイヴが、初めて世界に自分と似ている身体を備えていたはずの存在に、「差異」を見出すということ――これは端的に、巨大な「不安」である。

コルネリス・ファン・ハールレム   《人類の失墜》(1562-1638)
コルネリス・ファン・ハールレム 《人類の失墜》

私が興味を覚えるのは、「原罪」という出来事が起きた、その「瞬間」の二人の「顔」である。この時の二人は、やはり世界に自分に似た同性がまだ一人もいないことによる「孤独」(シオラン的にいえば「孤絶」)を感じていたのであろうか。或いは、自分の身体にはない相手の器官や特徴に「興味」を覚えたのであろうか? もしも二人が「興味」を覚え、libidoを抑制するためにイチヂクの葉で性器を覆ったとするならば、ここには既にエロティシズムの神学的起源とも呼ぶべき出来事が顕現しているといえるだろう。彼らは罪悪感から性器を覆ったのではなく、むしろ「隠す」行為にすら「興味」を覚えたのではなかったか? これまで「隠す」ことをしていなかった無垢な存在が、十分にお互いの性差が判然となる状態にまで達していたことを認知し、突然「隠さねばならない」と考えること――ここには既に独特なエロスが宿っている。

ヘンドリック・ホルツィウス  《人類の堕落》
ヘンドリック・ホルツィウス 《人類の堕落》

神学者エリック・ペーターゾンの『衣服の神学』によれば、二人の「裸体」は「原罪」によって初めて発見された。二人が互いの肉体を目で本質的に「知った」といえるのは、まさに原罪に基づいている。
レオンの聖イシドルス教会にある聖遺物箱にある浮き彫り彫刻は、堕罪の「瞬間」を考察する上でアガンベンが見つけ出した貴重な資料である。この絵によれば、イヴはなんと裸であり続けようと全力で神に抵抗し、もがいたという。アダムが既に獣の皮の服を神に着せられている傍で、イヴだけは必死で、子供のように死に者狂いで「毛皮」を着衣させられることに抵抗している。これは何を意味するのだろうか?
語源学的に、pelliccia(毛皮)はpeccaminosa(罪深い)を含意していると解釈されている。「罪深い」レッテルを貼られることに必死で抵抗しているこのイヴの姿は悲劇的であり、到底彼女が「誘惑者」であったという印象を感じさせないものである。だとすれば、やはり「原罪」の瞬間の場における「顔」は、ウゴリーノ伯の悲嘆をも越えた「悲愴」の眼差しであったと考えるべきではないだろうか。イヴという誘惑者が、アダムを誘って楽園の外部へと招いたというような、聖書自身が時おり反復する負のジェンダーディバイス(「女に近付くな」という箴言の類)は、こうした起源の女の全力の抵抗によって完全に正統的な解釈へと転回させられるはずだろう。
したがって、イヴは「蛇」に唆されたのであって、自身が誘惑者を演じたわけではないだろう。二つの無垢な裸体は、まるでどこかの王国から逃げ出してきた小さな少年少女のように、「蛇」に遭遇してしまったのである。少なくとも原罪期の二人は、まるで18世紀の美的範疇論のあの六角形(美―優美―悲愴―崇高―滑稽―醜)のように、感覚的な「原理」の上を素朴に移動したのだと考えられる。換言すれば、複雑で奇怪な、聖アウグスティヌスのいうlibidoが裸体たちを支配し始める時代と、アダムとイブの時代は明らかに差異化されているのである。

【「堕罪以後」の裸体たち】

「原罪」以後、すなわちアダムとイヴの交合によって生まれ、ゆっくりと神話的時代の「意味」を忘却していった子孫たちの裸体を支配したのは、他でもないlibidoである。Libidoこそは聖アウグスティヌスの原罪論の核心となるテクニカル・タームであり、性器の制御の不可能性と、原罪以後の「本性」の腐敗を意味している。
既に創世記には「ソドムとゴモラ」という二つの邪悪な都市についての異様な描写が早い段階で登場している。この二つの都市を横行していたのは「堕落」(男色、女色、近親相姦、獣姦なども含めて)であるが、我々がこの都市の成立する根拠に、原罪直後に二人が「恩寵」の代理として纏った「イチヂクの葉」による性器を「隠す行為」の痕跡を見出すことは可能であろうか? ソドムとゴモラを、「性器を隠す」というテーマで再編成すると、この都市では「隠す」ことに「悦び」を感じると同時に、それを「開示する/誇示する」ことにも「悦び」を見出していた堕落した人類の姿が浮かび上がってくるのである。

ヘンドリック・ホルツィウス Apollo (Phoebus)  and Leucothea
ヘンドリック・ホルツィウス《アポロンとレウコテア》

元々、衣服は身体の特定部位を護り、覆い、隠すものであると考えることができる。楽園のイノセントな時代ですら、人類は「恩寵」を着衣していたのであるから、「着衣する」ことこそは人間の「本性」といえるだろう。(住居の起源も、ジョセフ・リクワートの『アダムの家』において考察されたように、“自然から護る小屋”であり、この小屋は人間の体とも宇宙論的、神話的に接続した概念として提示されている)。
しかし、この「覆う/剥ぐ」という戯れに悦びを見出し始めた時、換言すれば着衣していた衣服を剥ぎ取り、中からそれまで可視化できなかった「生の裸」が現前することに「美」を見出す瞬間(あるいは身体の一部が垣間見える瞬間)、そこには「隠す」ことによって生まれた「開示への意志」としてのエロティシズムが芽生えている――ソドムとゴモラの感官における都市成立の背景となる物語は高度にクリプト化されているが、ある程度までは想像的に補完することが可能なのである。

ジャン・バプティスト・ルニョー 《三美神》1797-98
ジャン・バプティスト・ルニョー 《三美神》

悪名高いヴィーナスの猥らで野性的な姿勢  Linfame Vénus couchée. Posture lubriques daprès nature
ジャン=ジャック・ルクー《悪名高いヴィーナスの猥らで野性的な姿勢》

バークの規定した「美(優美)」をここで導入すれば、私にはどうにもソドムとゴモラの成立基盤となる感覚様態に、「美」が相関していた気がしてならないのである。バークのいう「美」は「恐怖」を核心にした「崇高」とは異なり、なめらかで優しく、繊細で情緒的であり、曲線的で柔らかく、総じて「女性的」な属性を帯びている。これは女性の裸体を眼にした男性が感じる感覚の素朴な表明であるともみなせる。アダムの息子たちの中から、姉妹の裸体を目にしてこのような感覚を抱いた男性が出現してきてもおかしくない。むしろ、原罪以後の人類の堕落は、裸体を「美」とみなす人間の出現と等根源的ではないのだろうか。

ハールレム  《修道士と修道女》
コルネリス・ファン・ハールレム《修道士と修道女》

我らもまた母になる、なぜなら…   Et nous aussi nous serons meres ; car..
ジャン=ジャック・ルクー《我らもまた母になる、なぜなら…》

アガンベンはこの時代以後を、in deterius commutata(より悪しく変質した)欲望の時代であると規定している。「生殖器を制御することができない裸は、罪のあとの本性の腐敗を、すなわち、生殖を通して人間性が伝えられていくということを示す、暗号なのである」(アガンベン、p116)

※アヴィセンナは、「観想」について「イメージから衣服を剥ぎ取る」と述べている。これは「祈り」を衣服、裸体というテーマで定義したテクストとしても読めるのではないだろうか。すなわち、「祈り」は思考の雑念を剥ぎ取り、我々をエデン時代の「無垢」(裸体)へと連れ去るのである。

【エリック・ペーターゾン『衣服の神学』解釈】

アガンベンから「近代において裸に関する考察を行った数少ない神学者のひとり」と高く評価されているこの神学者のテクストを幾つか読んでみよう。

「罪が起きて初めて裸が現れる。罪が起きる前は、衣服の欠如が存在したが、これはまだ裸ではなかった。裸は衣服の欠如を前提とするが、それと一致するわけではない。裸を知覚することは、聖書が<目の開け>と定義している精神的な営みと結び付いている。裸には誰もが気付くが、その一方、衣服の欠如が人目を引くことはない。けれど、罪のあとの裸は、人間存在の内部でひとつの変化が起きた場合にのみ、観察されることが可能になる。堕落をとおして生じるこの変化は、アダムとエヴァの本質を全面的な関わりを持たざるをえない。したがって、たんなる道徳的な変化についてではなく、人間の存在様態に関する形而上学的な変質についてこそ、焦点が当てられなければならない」(p99-100)

「衣服が、覆われるべき肉体を前提としているのと同じように、恩寵は、栄光とともに完成されるべき本性を前提としている。天国において、神の意志による恩寵が、あたかも一枚の衣服のごとくに人間に授与されるのは、まさにこのためである。人間は衣服を欠いたまま創造された、このことが意味しているのは、人間が所有している本性は神のそれとは異なるということである。しかし、人間がこのように衣服を持たないまま創造されたのは、栄光という神の意志による服を着せられるためである」(p102)


この二つのテクストを読んでいて理解できるのは、二項対立関係を持たない「裸体」は実は裸体ではないということに他ならない。裸体であるためには、「脱衣」を可能にさせる「衣服」という相関物が必要になってくるのであり、「裸体」であることは「着衣形式」に依存しているのである。実際、裸体で暮らす人間にとっての裸体とは、最早「内臓」でしかないであろう。我々の文化が衣服の文化だからこそ、これ程までに「裸体」が未だに人びとのlibidoを掻き立てているのである。換言すれば、「衣服」なくして「裸体」は成立できないのである。

【ベンヤミン『親和力』読解】

ベンヤミンは同じテーマにおいて深い考察を試み、「ヴェールのない<裸>の状態では、本質的に美しいものは退いている」という考えを提示していた。また、ヴェールは必然として覆われるものであり、不必要に覆われるものではない。

「まさに以下に述べるものこそ、美における仮象に他ならない。つまり、物をそれ自体のうちに不必要に覆うのではなく、我々にとっての必然として物を覆うもの、これが美における仮象である。このような覆いは、ある特別な瞬間には、神的に必然性を備える。同様に、時宜を得ずして覆いを取り除かれると、かの目立たぬものが雲散霧消し、それに伴い暴露が秘密を消し去ってしまうということは、神的に定められている」(ベンヤミン、p136)


また、ゲーテによれば、「美はそれ自体を明るみに出すことはけしてできない」。「美」は常に何らかの「ヴェール」に覆われていなければ、それは「美」ではない。
こうした言及を踏まえて、アガンベンは先の図式を再度踏襲する。すなわち、「ヴェール=衣服=仮象」、「ヴェールに覆われた美=裸=本質」である。

【裸とは根源的に何であるか?】

一連の考察を経て、アガンベンは「裸」を、「いかなる肉体も身につけられない<衣服>」であると規定している。この定義は少し考えれば判ることだが、アキレスと亀のパラドクスの如く「裸の無限後退」(裸であることの不可能性)にまで我々の思考を導く。
裸は着衣に依存して初めて現前するものだが、いったん裸体が我々の前に露わになれば、それは最早「裸」ではない。それは「裸性」という新たなモード=着衣形式なのである。ゆえに、永久に我々は真の裸体にまでは到達し得ない。このような思考にはキリスト教的な霊肉二元論を「裸/衣服」に置換しただけという批判も生起することだろう。
アガンベンの本論「裸性」は、私が読解した限り「裸/衣服」というディコトミー関係のあいだでの戯れであって、本質的な「裸性」には到達していない。アガンベンに欠如しているのは、私には身体それ自体の「変容」であると思われる。

Serpent  tempting Eve
クレメンテ・スジーニ《医師たちのヴィーナス》

例えば、彼はユベルマンも『ヴィーナスを開く』で対象にしていたクレメンテ・スジーニの《医師たちのヴィーナス》をポルノ写真と同列上で論じているが、何故これ程恰好の材料を用意しておきながら、「内臓」にまで達しないのであろうか? もしも「裸」が衣服であるとすれば、「内臓」とは何なのだろうか? それこそが真の「裸性」なのであろうか?
周知の通り、日本の美学者である谷川渥は『肉体の迷宮』の、ある驚嘆すべき章の中で、ドゥルーズの『襞』を看取しつつ、軽くではあるが異様な発言をしている。ベルニーニの《真理》像における衣服の無数の「襞」とは外的な襞であるが、この襞は《真理》という女性の内的な「襞」が顕現した様態であるというのである。内的な「襞」とは、女性器における襞構造を暗々裏に示しており、この隠された裸の肉が、逆説的ではあるが現前している外部に“表出”しているのである。

Gaut ier  _t08
ジャック・ファビアン・ゴーティエ・ダゴディ

バッコスの猥らな姿  Posture lubrique de Bacchus
ジャン=ジャック・ルクー《バッコスの猥らな姿》

この考えは、いうまでもなくパラケルススの名高い「特徴表示説」と相関している。パラケルススによれば、人間の内面心理は余すところなく外部の「顔」へと表出している。いかなる隠し事も、瑣末な身振りや会話のアクセントとなって表示される。したがって、「内部とは外部である」――このテーマ系は、明らかに「衣服(外部)―裸体(内部)」と接続しており、本質的には同じ問題を扱っているといって良いだろう。
アガンベンの「裸性」概念に戻ろう。彼は、裸はどこまで脱いでも現前しない何かであると述べている(「それを通して現れるものは何もない」)。「裸とは、裸を明るみに出すことはできないことが明らかになる瞬間においての、包むものである、と定義できるかもしれない」(p143)。
(かもしれない)と推量で述べられており、正確に定義づけされていない。つまり、アガンベンは正確に「裸」とは何であるかを「留保」している。何故なら、このような概念を留保して、真理へと急迫できないことこそが、まさに「裸性」に他ならないからである。概念の運動として、アガンベンは衣服を何枚も何枚も脱衣させていくが、最後まで彼が「裸」を目にすることはない。彼の前には無数の裸体が横たわるが、それらは端的に彼にとって「裸」ではなく、「裸」という様態の「着衣」形式に過ぎないからである。

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フェルナンド・ビセンテ

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フェルナンド・ビセンテ

こういった思考の中断は、そもそも裸体を「衣服」との相関で図式化していたことに全て起因している。裸を「皮膚」に交換し、この皮膚そのものの「変容」について(人間以外のものへの生成変化)思考するだけの地平が、霊肉二元論モデルでは閉鎖されてしまうのである。

【崇高論との接点】

アガンベンは、「裸」を「美からヴェールが取り除かれた時に残るもの」とも規定している。そして、これを「崇高なるもの」と位置付けている。「美」からヴェールを取り除いたのは、神話的なコンテキストに置換すれば端的に戦争の神マルスである。マルス=崇高、ヴィーナス=美という、我々がナンシーの崇高論「崇高への捧げもの」(ミシェル・ドゥギー他『崇高とは何か』所収)を読解した後に考察した図式をここで再度慣用すれば、「裸体としてのヴィーナス」は、「崇高」である。

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ピエロ・デ・コジモ《ウェヌスとマルス》

御存知の通り、ヘシオドスの伝えるところによれば、ヴィーナスはウラノスの切断されたペニスが海に飛来し、その時にできた「血と泡」から誕生した。彼女の出自は、それ自体で何らかの怖ろしく“禍々しいもの”に来歴を持っているのである。この“禍々しいもの”を性格にしていたのが、ヴィーナスの愛人である軍神マルスであった。したがって、「裸のヴィーナス」が「マルス」的な性格に遡行するというのは、神話的な背景からしてもおおいにあり得る話なのである。アガンベンも実際、「美(ヴィーナス)からヴェールが取り除かれた時に残るもの(裸にされたヴィーナス自身)」を、「崇高なるもの」と表現している。
ヴィーナスの衣を脱ぎ取ると、中からマルスに愛でられた生身の「崇高」が露顕する――これが「裸性」と「崇高論」との接点であり、アガンベンが本論の最終部で辿り着く思考である。

【<裸>を身に纏う、とはいかなる事態か?】

アガンベンは本論で幾つかの写真を思考の材料として提示する。
ヘルムート・ニュートンが『VOGUE』に掲載した写真から、彼は「<裸>を身に纏う」問題へと迫っていく。ファッション誌における「裸」は、概念的には「衣服」の延長であるに過ぎない。これはヌーディズムというイデオロギー化した(イデオロギー以上に衣服的なものが何処にあろう?)装置における、ヴァネッサ・ビークロフトの一連のパフォーマンス、及び本書p143のUwe Ommerのヌード写真においても妥当する。

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ウーヴェ・オマー

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ウーヴェ・オマー

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ウーヴェ・オマー

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ヴァネッサ・ビークロフト

【ポルノグラフィは真に裸を表象しているか?】

やや奇矯ですらあるが、アガンベンは裸についての神学的考察を行った後に、唐突に日本のポルノにおけるSM写真を掲載する。そこでは素人の女性が笑顔で笑っている写真が左側にあり、右側には彼女の舌が割り箸で挟まれ、顔を背後にいる男に持ち上げられている「痛ましい」写真が隣り合わせになっている。だが、いうまでもなくポルノを撮影する側に視座をずらせば、彼女はあらかじめ企画としてこのようなポルノに出演しているのであるから、いうまでもなく「演技」であり、「虚構」であるに過ぎない。
アガンベンはポルノ写真を掲載した後、サルトルのサディズムについての言説を引用しつつ、再び今度はクレメンテ・スジーニの《医師たちのヴィーナス》を掲載している。
ここで、本論で掲載され思考対象にもなっている写真資料の「順序」について詳しく見てみよう。

・ P96ヴァネッサ・ビークロフトがベルリン新国立美術館で行った「百人の裸」パフォーマンス
・ P98アダムとイヴの絵
・ P103レオンの聖イシドルス教会の12世紀に描かれた浮き彫り彫刻「着衣を拒むエヴァ」
・ P104毛皮を着せられたアダムとエヴァ
・ P109ヴァネッサ・ビークロフトの「マリオネット化した裸体たち」
・ P125「密室遊戯」と題されたSMポルノの写真二枚(日本)
・ P126クレメンテ・スジーニ《医師たちのヴィーナス》
・ P128ヘルムート・ニュートン《They are coming》(『VOGUE』)
・ P139ベンヤミンの知人女性たち「ゲルト・ヴィッシング、オルガ・パーレム(あるいはエーファ・ヘルマン?)」
・ P143 TASCHENによる『DO IT YOURSELF』(UWE OMMER)


明らかにp125だけ“浮いている”が、その次のページでクレメンテ・スジーニの、「内臓を露出した女の蝋人形」が掲載されていることから、我々にはアガンベンが暗々裏に何を本当は掲載したかったのかが透けて見えるのではないだろうか? 
アガンベンは、明らかにファッションだけでなくポルノをも射程範囲に入れて、「ヴェールなき裸性こそまさに、美にその最も恐るべき魅力を供給する」と述べている。この衝撃的な一文は、これまでの彼の厳密な思考の軌跡を全て「破壊」するほどの稲妻の力を宿している。

【<裸性>の終りに<顔>がやって来る】

アガンベンが面白いのは、裸体考察の最後に「顔」という特有の場にまで達するその思考の運動である。これは日常生活において我々が経験する裸体体験の逆である。我々は基本的に、まず相手の「顔」を知り、彼ないし彼女の「裸体」を知る。しかし、アガンベンはまず「裸体」を論じ、その果てに「顔」を置く。これはポルノ的な構造(顔にはモザイクで局部は無修正、あるいは顔は無修正で局部はモザイク)そのものであり、彼が「写真」から考察を深めている本論の由縁でもあるのだろう。
プラトンの美論として重要な『カルミデス』に登場する美少年カルミデスは、美しい顔だけでなく、それにも勝る「美しい肉体」を持っている。しかし、対話者の一人はカルミデスについて、「この児がその気になって着物を脱げば、この児には<顔がない>ようにあなたは思われるでしょう」と洩らしている。「美」に急迫しているはずの美少年には、実はaprosopos(顔がない)。
美は、最後まで己を包むものとして提示し、退隠し続ける痕跡なのであろうか。




裸性 (イタリア現代思想)裸性 (イタリア現代思想)
(2012/05/27)
ジョルジョ・アガンベン

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