† 建築学 †

小澤京子『都市の解剖学―建築/身体の剥離・斬首・腐爛』――ルドゥーにみる18世紀の「視と知のあり方」

都市の解剖学―建築/身体の剥離・斬首・腐爛都市の解剖学―建築/身体の剥離・斬首・腐爛
(2011/10)
小澤 京子、田中 純 他

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小澤京子、田中純『都市の解剖学』の第三章「適合性と怪物性――クロード・ニコラ・ルドゥーの両極的性質」についての記録を残しておく。
因みに、私にとって小澤京子は特別な研究者であり、この本を読んで受けた衝撃には非常に大きなものがあった。その残響は現在も響いている。前回このブログで掲載したのはルクー論だったが、本章は磯崎新も特に高く評価しているルドゥーについて論じられている。
私が本章を読解したレジュメを基にして、このページでは新たに、できるだけ分かり易く再構成しておく。
ルドゥーはエミール・カウフマンから近代建築の予告者と評され、最近新たに著作集が刊行され始めているアドルフ・ロースの《ロース・ハウス》にも「装飾の欠如」という点で大きな影響を与えた、フランス革命期を代表する建築家である。

Claude Nicolas Ledoux
クロード・ニコラ・ルドゥー

小澤氏はこの「装飾の欠如」について、それは“裸”というよりも「表情を持たない仮面」だと表現している。ルドゥー自身は「装飾」にも建物としての一定の役割を認めており、彼自身の装飾性への評価はアンビヴァレントである。
ルドゥーの作品には、「バロック的なもの」(過剰な装飾性)と、「新古典的なもの」(幾何学的純粋性)という二つの分裂した志向性があるというのだ。ルドゥーはこの「混成的畸形」であり、本章ではこの二つの方向性を持った建築物群が、フィジオノミー(physiognomy/顔貌)という概念によって解体されている。

【physiognomy/顔貌とは何か?】

physiognomyは「外観」、「顔貌」を意味している。
建築におけるフィジオノミーというテーマで重要になってくるのは、「観相学」である。17世紀のアカデミーを代表する画家シャルル・ル・ブランはバルトルシャイティスの『アベラシオン』でも大きく取り上げられていたが、観相学に大きな貢献を果たした。彼はアリストテレス的な美の概念に基いて、「外観は内部にある魂の働きを反映する」という考え方を持っていた。換言すれば、「エクスプレシオン(表情、表出)に、個々の真の性格が画定される」というものであり、これを判り易くいえば、人間の外面には、全て彼ないし彼女の内面が具現化(形態化)しているというものである。
18世紀スイスの神学者ヨハン・カスパール・ラファーターは、人間の「顔」を「神の手による筆跡」とまで表現している。ルドゥーはどうであったのかといえば、彼もまた観相学に、特に表情の「怒り」、「憤死の顔」に強い関心を持っていた。ルドゥーの活躍した18世紀から19世紀という時代は、「観相学と文字の解読とのアナロジー」の時代であり、いわば人間の表情を「テクスト」として読解する視座が確立したとされる。この場合、表情とは「書き付けられた刻印」であり、caractère(カラクテール/表意文字)として解読の対象になる特有の場となる。
※カラクテールと類縁にある術語として登場するのが、convenances(礼儀作法、性格)である。

【18世紀の「視と知のあり方」の二大特徴】

小澤氏によれば、「近代」の出発点となる18世紀の重要な特徴には、以下の二つの学問が寄与したところが大きい。

(1) 解剖学

「内部」を引きずり出して、隠されたものを可視化する。

(2) 観相学

事物の外観、表層から「内部(内面)」を読み取る、推察する。


フィジオノミーにおいて、「表情」とはパース記号論における「記号表現」であり、これに対する「解釈項」を提示する学が「観相学」であると規定することができる。例えばゴダールの『はなればなれに』の夜の地下鉄の乗客の「顔」を観察する場面が示唆しているように、同じ表情でも「解釈項」が原理的には無限に存在することが可能である。その場合でも、表情は「テクスト」として読解されているのであり、これを小澤氏は「カラクテール」(表意文字)と表現しているわけである。
カラクテールは、いわば顔に「内部」が湧出する神秘の場であり、18世紀を特徴付ける「解剖学」と「観相学」は、共にこの「内部」の読み取りの方へと方向付けられている。解剖学は内部を露顕させるのであり、観相学は隠れた内部を表面から読み取るのである。このように、18世紀とはまさに「内部」、「内面」、「性格」を読解する「カラクテール」の時代であるということができる。
ここで、建築物について考えてみると、街路を並ぶ沢山の建物は基本的に外部性として我々に迫ってくる。住んでいる人を仮に「内面」だとすると、当然住居者の趣味、嗜好性が「外部」(すなわち建築物の表面=皮膚)にも顕現していなければならない。それはガーデニングの流儀や、玄関前の清掃状態、煉瓦かコンクリートか――などといった幾つかの「建物の顔」の特徴から観相学的に読み取れるだろう。
ここから、一つ極めて重要なテーマが生まれる。建物が「カラクテール」(性格)によって特徴付けられているのだとすると、その「形態」はそもそも初めから住む上での「適合性」に依存しているという点である。例えばグロピウス的な集合住宅の場合、合理的な住み易さを演出するために一切の装飾性は省略され、機能的な住居空間が目指されるだろう。これは、「機能性」という「カラクテール」(性格)を「具現化」(顔化)した形式に他ならない。
他方、現代都市の何処にでも見出せるラヴホテルには、幾つかロココ的室内を演出した場が存在する。これは無論、恋人たちの「気分」を盛り上げるために意図的にメルヘンチックな世界観という「カラクテール」を空間に代入しているのであって、これもやはり観相学における「外面から内面を読み取る」というベクトルの「逆照射」の図式である。
重要な定式は、建築の外面を「皮膚」(あるいは表情)と等式で結んだ場合、その見えない「性格」に当たる部分が、建築におけるそれぞれの使い道、使用目的、すなわち各「適合性」に相当するということである。パース的にいえば、初めに「解釈項」を一定にした上で、「記号表現」をそこから逆算的に炙り出す操作がこれに当たる――おそらくこれは、グロピウスやローエらに始まる機能主義建築を語る文脈でよく見出された「適合性」とか、「機能性」といったカラクテールを全てテクスト化された「解釈項」として再把握し、そこから解釈に適合したそれぞれの「表意文字」=「顔貌」を創り出すという操作を含意しているだろう。
もっと簡略化していえば、実にこういうことではないだろうか。あるロボットは、「家事をする」という機能に基いて合理的にデザイン、設計された「顔」(身体)を持っている。換言すれば、この「顔」を見ただけで、「家事をする」ロボットであるということが読解できるのである。原理的にいえば、ここで図式化されているのは以上のことではないだろうか。
しかし、小澤氏はル・カミュ・ド・メジエールの1780年の興味深いテクストを読解した上で、以下のようなことを述べている。事物を全て「固有の」、固定化した一つの性格に束縛してしまうことは、建築のような固定物ならまだ可能であるが、一秒後には表情を変える人間の「顔」の場合、ほぼ不可能である。この事実を加味すると、本質的に流動性を孕んだ人間の表情の変化に対して、一定期間同一の表情を維持し続けてそこに存在し続ける建造物の顔は、同列上で論じると何らかの“違和”に不可避的に達するということである。人間の顔は一秒後には「他者化」している場合もあるからだ。
以上の考察をまとめると、18世紀とは「カラクテール」(内部、内面、性格)によって「形態」が決定されるべきという“適合性”の論理が芽生え、それに自覚的になり始めた建築家が出現した時代であるといえるだろう。アンシャン・レジーム、啓蒙思想、新古典主義――こうした時代の特徴(近代の萌芽)のキーコンセプトに「カラクテール」が位置しているという視座は極めて重要である。

【ルドゥーの場合】

ルドゥーは1804年に自身の建築論であり奇書とも称される『芸術・風俗・法制の下に考察された建築』(1804)を刊行している。彼自身、建築においては「眼に語りかけるような建築」を志向していた。これは先の観相学のテーマでいえば、カラクテールにおける「解釈項」が豊かな視覚的な建築案を目指していたという事実である。換言すれば、「表象の戯れ・眼の遊戯性」を意図するというバロック的な選択に他ならない。
以下に、本章で思考対象となっている幾つかの建築案を取り上げる。

(1)《オイケマ》

《オイケマ》とは、「結婚の神ヒュメーン(ギリシア)」のための神殿であり、実質的には娼館である。この建物は快楽のために設計され、平面図も「男根」の形をしているなど、極めて特異である。ルドゥーは「秘儀祭司」の活躍を夢想していたようだ。(彼には同系統の建築案として他に《快楽の館》がある)。
本作は平面図にすると、建物の全体的な形が男根であることが分かる。これを小澤氏は「メトニミー」(近接関係内での移行、全体を部分で代理する操作)と規定している。おそらくこの方法は、「司書」を表象するのに「書物」で組み立てられた人間を描いたマニエリスムの代表的画家の操作とも相関しているだろう。それはいってしまえば「遊び心」である。

oikema Claude Nicolas Ledoux
《オイケマ》(設計案)

或いは、これは修辞学と建築学の接点であるともいえるのではないだろうか。メトニミー自身は文学の方法論として可能であり、建築設計案も元来「テクスト」として読めるわけであるから、古今東西の多用な修辞学的方法を設計案に取り入れ、それを「顔貌化」(建築化)することは可能なのかもしれない。
メトニミーを用いた建築案を書いた「作家」として重要なのは、D.A.F.ド・サドの《遊蕩の館》であり、これはペニス、ヴァギナを象っているとされている。因みに、《オイケマ》の設計案は勃起したペニスであるにも関わらず、「設計案」止まりであるため「建って」おらず、しかも建築形態としても横に寝かされているのでペニスとして「勃って」すらいない――小澤氏が「二重に勃たない」と表現している通り、本作はジャン=クロード・レーベンシュテインがいう「水平的勃起」(抽象的勃起)を具現した建築案である。

(2)《樽職人の仕事場》

これは樽職人が仕事をするための場所として設計されているのだが、層状化した樽の断面によって構成されている。これもやはり「樽職人」の住む家は「樽」で構成されているという、「遊び心」の効いたメトニミーである。

(3)《パリの徴税市門》

観相学的に建築の表面を「表情」として読んだ場合、この建築案にはどこか「不安にさせるような」側面があると小澤氏は述べている。これは一見したところ、外観からでは一体何の建物であるのかが判断できない。市の公共施設であれば、機能性を重視して装飾的な要素を可能な限り捨象する方法も、近代建築の祖であるルドゥーであれば採用できたはずである。
しかし、この建物はバロック的な「過剰な装飾性」と新古典主義的な「幾何学的純粋性」が見事に「混交」された形態になっている。このことから小澤氏はフーコーの『異常者たち』から敷衍して、本案を「異種混交=畸形」的な、あるいはprodoits monstrueux(怪物/畸形的)な建築案であると規定する。
この本来の「徴税市門」としての役割から著しく逸脱した特徴は、《ショーの製塩工場》でのグロッタ模様やファサードの神殿建築に見られる円柱にも見出せる。ルドゥーの師であるブロンデルも、本案が公共施設としての「適合性=性格」にそぐわない事実を批判していた。建築の観相学は「機能不全」(建物の外観からでは最早その<機能性=適合性=内面>を読み取ることができない)に陥ったと、小澤氏は解釈している。

(4)《田舎の家》

ルドゥーは本案において、「装飾」を「悪徳」と同一視するという、アドルフ・ロースの『装飾と犯罪』での名高い定式(近代的な機能主義建築の理念)の萌芽となる見解を示している。

(5)《エクスの監獄》

この建築案を観相学的に読解した場合、小澤氏は「無表情であり、沈黙」していると表現している。ここにはルドゥーの「装飾の欠如」が窺えるが、実はこれは先述したとおり「表情を持たない仮面」というフィジオノミーの一つの様態である。

【同時代の建築家ルクーとの比較】

小澤氏はルドゥーの奥深さ、ルクーの軽薄さを強調するために、後者の《牛小屋》という建築案を比較している。ルドゥーはアルチンボルド的なメトニミーの手法を用いたが、ルクーは「事物を即物的に模倣」しているに過ぎず、美的センスとしてやや軽率であるとして、本章ではルクーよりもルドゥーが高く評価されている。
特に小澤氏が「分かり易いファリック・シンボル」としてルクーの「偏執的な」マイナス面を指摘しているのが、《神に捧げられた場所》である。これは一度観るとけして忘れられないような、どこかロココ的装飾性を持った太いペニスの形をした建築物である。小澤氏はこれを「分かり易い」と述べているし、確かに私も読者の一人としてそう感じたわけであるが、「分かり易さ」でいうのであれば、ルドゥーのペニスを象った設計案も同様である。メトニミー自体がトロンプ・ルイユ的なバロック的遊戯精神の発露である以上、ルドゥーもルクーも性的な遊び心の点では同じ次元にあったといえるだろう。
むしろ、正直にもっと述べれば、本章で最もルドゥーの目指したl’architecture parlante(語る建築)、ないし「眼に語りかけるような建築」であった建築案こそが、小澤氏がやや批判的に評する1777年の《神に捧げられた場所》であるといえるだろう。この作者はルドゥーではなく、ルクーなのである。実際私は、ルクーの描いたこのペニス=建築物を眼にした時、異様なエロスを感じた。それは私が男性読者であるからかもしれないが、この絵のペニスはグロテスクな男根を描いているのではなく、ロココ時代の上品で優美なデコレーションケーキのような甘い感覚に満たされており、なおかつ“ラヴホテル的な軽快さと猥らさ”を併せ持っている気がするのである。しかし建築案には《神に捧げられた場所》という仰々しい神聖な名が与えられており、この「神殿」のエロティックな力をいよいよ高めているといえるだろう。
ある人を愛する場合、ボルヘスは彼女がその相手に対して「ひどく憎んでいる」ような態度を取ることについて語っている。同様のことが、小澤氏とルクーにもえるのではないだろうか。確かに学問的な正当性と評価、20世紀建築に与えた先駆的功績という点ではルドゥーの方に圧倒的な分があるだろう。しかし、「表象」として純粋に見た場合(それもエロティックな喚起力を有する建築案として)、ルクーはほとんど天賦の才を備えていたといえるのではないだろうか。直観的に思うのだが、私はルクーの建築案の方が「面白い」と感じる男性は若年層で意外に多いと推測している。
批判的に扱われながらも、ルクーの建築案がルドゥー論にも掲載されている以上、この《神に捧げられた場所》は著者側からの“解釈を新たに待っている状態”を意味しているのかもしれない。

【啓蒙主義時代における「性的情念」のスタイル】

小澤氏は、サドのリベルタン(ポルノ)文学、フーリエのユートピア思想、ルドゥーの《オイケマ》に見られるようなファルス的な設計案に、この時代のフランスの「情動性」に共通する特徴を見出している。
サドはフランス革命期に投獄されているわけだが、ルドゥーはバスティーユ襲撃時に五十三歳であり、フーリエは十七歳だった。三者は共に「フランス革命」という美術史が「近代」へと切り替わる激動の節目を生きていた。政治的な次元での巨大な嵐が芸術に転化した場合、「性的情念」として奔流するという構図はこの時代の際立って魅力的な特徴の一つであるといえるだろう。
そもそも、本論でテクニカル・タームとなったフィジオノミー、カラクテールの観点からすると、ルドゥーの建築案では外面と内面の不一致が生起している。観相学でいえば、“微笑”を向けている少年であるにも関わらず、実際は激しい“情念”に憑かれている場合がまさにそうであろう。顔の表情(内面=建築の皮膚)と、彼の性格(カラクテール=建物の“用途性”)が一致していないわけである。外面は学校であるが、実際は大型デパートであったり、内部はプールサイドだが外面は平均的なビルであったりと、こうした「不一致」は端的に奇怪な建築群に見出される特徴であるといえるだろう。
小澤氏によれば、ルドゥーがこのような「フィジオノミーの戯れ」に耽ったのは、フランス革命による「身分制秩序崩壊の反映」でもあるという。換言すれば、「近代建築の父祖ルドゥー」には、実は革命の影響を強く受けた、サド、フーリエと同列上の特異な「感覚」の発出者としての側面も濃厚だという事実である。このルドゥーの情念は、「モンストルな装飾として」表出しているわけである。

【要旨】

「ルドゥーの建築案における双方向性」

・ バロック的 … 過剰で怪物的な装飾性
・ 新古典的 … 幾何学的な純粋性→近代建築の機能主義へ通じる


小澤氏は、これまでのルドゥー観に対してバロック的な視座による分析を試みていると考えられる。


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