† 文芸理論 †

現代文学理論の基礎概念ーー小説を書く/読む人のための基礎知識

小説の方法―ポストモダン文学講義小説の方法―ポストモダン文学講義
(2007/04/30)
真銅 正宏

商品詳細を見る


【テクスト】

ニュークリティシズム、及びヌーヴェル・クリティック以降は作家ではなく、「テクスト」(作品)中心のレクチュールが文芸理論において一般的な方法となる。ピエール・マシュレーの『文学生産の理論』では、テクストは「再生産」によって生み出されるものであると規定されている。
そもそも、テクストには本来の「意味」はなく、「社会性が意味を産出する」機能を持っている。テクストとはいわば媒介項(レジス・ドゥブレのいう“メディウム)そのものである。ジェラール・ジュネットはこうした文脈から、テクストの周辺要素であるparatexte(パラテクスト)に注目した。
著者もいうように、「テクスト自体はない。<痕跡>が研究対象となる」。

【パラテクスト】

paratexte(パラテクスト)とは、ジェラール・ジュネットが『スイユ』で編み出した概念であり、「テクストにまとわりつく、テクストの一部として認定できる範囲までの衣装」を意味する。また、それは「根本的に他律的で補助的な言説」である。
「衣装」である以上、パラテクストとは「テクストを取り囲み、延長することで、まさにテクスト自身をprésenterしているもの」である。
この定義から判るように、以下のものがパラテクストに相当する。すなわち、「挿絵、序文、タイトル、宣伝文、著者名、プロフィール、近刊案内文、推薦文など……」。これらは果たして「作品」なのであろうか? もしも作品に含むのであれば、その「境界線」はどこにあるのだろうか? ジュネットは境界線については意図的に「保留」している。デリダ的なキータームでいえば、パラテクストとはまさにparergon(余白、額縁、作品の外部から内部を支えるもの)である。より判り易くジュネットが述べているように、パラテクストは「それによってあるテクストが書物となり、それによってあるテクストが読者、より一般的には大衆に対し、書物として提示される、そのようなものである」。
さて、パラテクストを考える上で不可避的に「作品の内」と、「外」という「境界線」のテーマが浮上したが、この内と外の「敷居」のことを、ジュネットはseuil(スイユ)と表現する。スイユとは、「テクストと、物質的メディアとしての書物との境界」であり、ここでいう「テクスト」はいかなるメディアにも依存していない文字情報として規定されている。

「パラテクストのリスト」

・ 作者名
・ タイトル
・ 献辞
・ エピグラフ
・ 序文
・ 章題
・ 註釈と参考文献
・ あとがき
・ 奥付(発行所、出版社、値段など)
・ 自家解説


例えば、我々がある作家の本を初めて読むことになったとする。彼がノーベル文学賞を受賞していた場合、本のカバーのプロフィールにはその経歴が無論記載されている。こうした作者の情報は、作品そのものに一種の「権威」を与えるための効果であり、まさに我々はこの作者の情報によって書かれた作品の「質」を推し量るのである。パラテクストの中でも、本との最初の出会いにおいて最も「権力」を発揮するのは著者情報であり、このプロフィールはほぼ不可避的に作品以上にステータスとして読まれ、作品そのものを根底から支えるものとなる――ゆえに、プロフィールとは「作品」の一部であり、外でありながら内を支えるものとしての「パラテクスト」に他ならない。

「パラテクストの空間的分類」

péritexte(ペリテクスト) … 書物の内部

「ペリテクストとは、物質的な書物というものの中で、すなわち同じ空間の中で、テクストの周囲に付き纏うものである。例えばタイトル、序文、作者名はもちろん、章題や註釈など」。

épitexte(エピテクスト) … 書物の外部

「エピテクストとは、最初の書物には含まれず、つまり書物の外部に位置するものである。例えばそのテクストをめぐる、別の場所でのインタビューや書評、またこれについて書かれた作者の書簡や自家解説など」。

パラテクスト=ペリ+エピ



「パラテクストの時間的分類」

例えば、「近刊予告情報」は「先行的パラテクスト」である。この時点で、タイトルや識者の書評も公開されたりするので、我々は読む前から既にその本の「パラテクスト」を読んでいることになる(ここで読みの方向が一定の視座に固定化されることに対しては慎重にならねばならない)。
パラテクストは空間的だけでなく、時間的な境位によっても階層化されている。作者が本を刊行した後のインタビューや、第二版序文などは「事後のパラテクスト」である。また、論文で研究対象にする場合などは「遅延的パラテクスト」に相当する。


このように、パラテクストの存在論はテクストの存在論に委ねられている。長い歴史においては、本文が散逸され、ただ書名だけが古い遺跡の一部のように残ったケースも存在する。「一章」しか残っていない古いテクストや、註釈のみ、或いは別の批判者の本の中で言及されているだけ、などパターンは幾つも存在する。例えばグノーシス文献のコプト語写本の場合、ある作品は大半が失われており、残っているのは「幾つかの文字」(数え切れる程度)である。その場合、オリジナルではなく、パラテクストとして存在する作品からオリジナルを復元するというような「解釈」も生起するだろう。
とはいえ、テクストの「外部/内部」という切り口に依存する「パラテクスト」の概念は、より広い視座で「ハビトゥス」という「テクストの背景」から分析されるべきものであるだろう。何故なら、結局テクストそのものを産出する場となっているのは、ハビトゥスだからである。

【作者】

ミシェル・フーコーの『知の考古学』によれば、「言表主体は“空の一つの場所”である」のであり、テクストの中の「僕」が作者自身と等式で結ばれることは原理的に不可能である。ジュリア・クリステヴァは『セメイオティケⅠ』において、「作者は無名存在、不在、空白であり、<構造>だけが存在する」と端的に述べている。これらの定式は、バルトが68年に「作者の死」として世に問うて以来、現代文学の理論的常識になっている。
「作者の死」によって前景化するのは「物語自身」である。バフチンは「読者」との関係を含み込んだシステムとして「作者」を定義していた。これはコレージュ・ド・フランス文学部教授で今日最も重要な文芸理論家であるアントワーヌ・コンパニョンの処女作において図式化された名高い「S(A、T)」という“ひとつながりのシステム”に置換することも可能である。具体化すれば、テクストのシステム(S)とは「作者(A)」と「テクスト(T)」のカップリングによって構造化されており、作者が別々の時代に属している場合、そのテクストの受容もまた差異化するという事実である。これを先鋭化させた作品として、ボルヘスの「メナール」は「作者」概念を把捉する上で最早必読であることはいうまでもない。
また、ノースロップ・フライは「オリジナリティー」そのものを否定している。テクストはクリステヴァやバルトが定式化したように、「引用のシステム」から再生産されているに過ぎないのである。
ウンベルト・エーコの『物語における読者』は、W.イーザーの『行為としての読書』の影響を受けて、「モデル読者」という概念を提示している。これは、作者は万人のために書くことなどそもそも不可能であり、書く限り不可避的に「モデル読者」を想定しているという構造を示唆している。「テクストにはあらかじめ読者像が組み込まれている」わけである。しかし、これは「作者」がそもそも読書過程で様々な本の中から「選別」して、そのテクストのシステムから「再生産」して書く限り、「モデル読者」の存在は理論的には必然的な帰結であるに過ぎない。

【読者】

「作者」の項でも述べた通り、W.イーザーは『行為としての読書』の中で、「読者像はテクストに含まれている」(テクストそのものが読者像を先見的に内包する)と述べている。この「読者像」は、英語でImplied Readerであり、イーザーの使うドイツ語ではder implizite Leser(内包された読者)と表現される。ヤウスによれば、「内包された読者」、「モデル読者」とは、作者と同じ地平において想定されている期待値としての読者である。
ここで、テクスト(T)、読者(R)という二項のみを用いて図式化すると、「作品」とは「Rの解釈項によってTが構成されたもの」であるといえる。つまり、作品は「読者」の「解釈」によって初めて存立するというわけである。

【読書】

ニュークリティシズムのキータームとしてよく用いられたのが、lecteur(レクトゥール/一般読者)とliseur(リズール/精読者)の差異である。
一般読者に対し、ブルデュー社会学でいうところのdistinction(卓越化)したリズールは、文学のシステムそのものを支えている存在である(文化貴族が文学を支配する)。
基本的に「読書」という行為は、文学理論では以下のように規定されている。「複数のレパートリーを用意し、読者はテクストのストラテジーをも読み取って、あるシークエンスを前景化し、他を背景に押しやり、物語に一貫性の形成を求める」――この行為はレジュメ作業時にひとが往々にして取る読書作業であるが、リズールはこの所作において卓越化していることはいうまでもない。

【主人公】

著者は「主人公を仮定して読むという読み方自体の制度性が、一度は問われなければならない」と、おそらくサミュエル・ベケットの『名付けえぬもの』以後の文学の可能性を示唆して述べている。「主人公」が物語に絶対的に必要であるというのは近代の生み出した「制度」であるに過ぎない。
主人公がそのまま作者であると信じられていたジャンルに「私小説」があるが、野家啓一は『物語の哲学』で以下のように述べている。

「わが国の私小説のような一人称告白体の言述においても、作者の<私>と語り手の<私>とは別人であり、それが一致しているかのような錯覚を、いわば文学的効果として利用しているに過ぎない。告白体とは一つの<文学的制度>に他ならないからである」(p61)


著者は現代文学における「主人公」の概念について以下のように規定する。

「要するに、絶対的な他者としての主人公を、外在する作者が描く。そこに、作者側からの能動的で方法的な操作が可能となる。主人公とはあくまで、その作品を完結させる際に、最も大きな役割を果たす、機能的な存在なのである」(p63)


【ストーリー、プロット、モチーフ】

ストーリー、プロットとは共に一般的な表現であって、ロシア・フォルマリスムのテクニカル・タームで表現すれば、それぞれfabula(ファブラ)、sjuzet(シュジェ)である。
まずファブラとは、「出来事の時間的な順序」を追った筋のことであり、これはストーリーに相当する。他方、シュジェとは「ストーリーを並び替えて作者が巧みに配列したもの」である。ファブラだけでは文学的装飾はゼロであるが、「異化」によって作者が現実の筋を工夫して(時間の逆行や回想のノマド的結合など)配列すると、文学的質は向上し、シュジェになる。
モチーフとは、ロシア・フォルマリストのボリス・トマシェフスキーによれば「作品の分解不能の最小部分のテーマ」を意味している。例えば、『罪と罰』の「モチーフ」は一文で表現可能であり、それは「ラスコーリニコフは老婆を殺害した」というものだ。
モチーフの定義を看取すると、ストーリーとは「モチーフの束縛的な連関」であり、プロットとは「自由なモチーフの導入」であると規定される。プロットは巧みな構成力を前提とするので、推理小説のようなジャンルにおいては多く活用されている。他方、ストーリーは私小説や意識の流れのようなジャンルにおいて自然に導入される。これらはあくまで形式上の分類に過ぎないが、「説明」に向いているのはプロットの方であり、「描写」に秀でるのはストーリーだとされる。




関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next