† 文芸理論 †

小説の「映画化」にあたって何故問題が起きるのか? ――西村清和『イメージの修辞学』読解

Esquire China January 2013
Esquire China January 2013

『イメージの修辞学』第二部「小説の映画化」第四章「物語と描写」についてのレジュメ。
ヴァージニア・ウルフは小説が映画化されることに対して憤慨を示していた。彼女にとって、文学はエリートのものであり、映画は無教育な大衆のための低俗な娯楽に過ぎなかった。
そもそも、narration(物語行為)は以下の二つの要素を持っている。

(1) histoire(物語内容) … ストーリー
(2) discours、récit(物語言説) … テクスト(表面、文体)


映画化というのは、実はhistoire(物語内容)を映像化するという作業であり、ディスコースまで再現することはできない。例えば『フィネガンズ・ウェイク』のディスコースを想定すれば良い。
ピーター・キヴィによれば、小説の方法論には「離れ小島」と呼ばれるものがある。これはdescription(描写)とも呼ばれる。

(3) description(描写) … 物語の展開にとって重要な情報を担う部分、例えば登場人物や、物語が展開する場所などを読者に念入りに紹介するような部分である。


描写は絵画的な記述であり、ストーリーの筋からすると補助的言説である。
ボワローは『詩法』(1674)の中で、「君は物語においては、生き生きとしテンポよくなければならないし、描写においては豊穣で壮麗でなければならない」と述べ、長々とした不必要な描写を禁じている。描写についてのこうした態度は19世紀のラルースの辞書における定義にも見出される。
しかし、18世紀から19世紀の変わり目に登場した「近代小説」においては、実証科学的な「視の制度」が慣習化したことによって、「描写」が標準化されるに至る。これはバルザックのような写実主義者の描写に顕著である。
また、ヘンリー・ジェイムズはバルザックの生き生きした描写をthe action(筋)の展開の一形態と認め、ストーリーそのものと本質的に結び付いた部分として評価していた。しかし、ジェラール・ジュネットは「描写」をやはり伝統的修辞学に沿って、ancilla narrationis(叙述の端女)とみなしている。
もし小説の中で描写に秀で、写実的な側面に特化した部分があれば、映像化するのに適しているといえるだろう。ストーリーの中でも、描写ほど容易に映像へと映せる箇所はない。

【小説を映画化する上での問題点】

例えば、人物描写を映画化して実際の俳優としてそこに表した時、原作を重視する読者からすると何か外見への“違和感”を抱くことは避けられない。小説ではテクストが与えられるだけで、いわば具体的にイメージせずに読むこともできるからである。
著者が述べるように、映画化への批判は、原作で得た最初のイメージが、スクリーン上の直接的で生の知覚映像と異なっている「ズレ」がもたらす失望感によるところが大きい。しかし、著者はこうした従来の批判に眼を向け、「小説を読むこと、ことばの観念を理解することは必ずしもイメージ形成作用ではなく、またときに付随する心的イメージがそれ独自のやり方で理解に寄与するとしても、それは単語が指示する対象の全ての意味素性がイメージされることで絵画のように細部が充足した知覚画像と同等のものを構成するわけではない」(p150-151)と述べている。これは一章の結論でもあり、極めて重要なポイントである。
やや脱線して私自身のことを話すと、私は少年時代に母親から以下のようなことを度々聞かされたのだった。「物語を読むとき、わたしはいつも場面を具体的に想像しながら読んでいる」と。私は彼女がそのような読み方をしていたので、幼い頃から「イメージ形成力」こそが「読書」であると素朴に考えて、例えばヘッセの『青春は麗し』を中学時代に図書室で読んでいた時も、できるだけ一つのページに豊かなイメージを与えながら読んでいたものである。しかし、これは実は相当に苦痛を伴う読書行為であり、今の私がこのような素朴な読み方をしていないことはいうまでもない。もしあの頃と同じ読書のスタイルだと、私はおそらく一冊の本を読み終わるまでに莫大な時間と精神力を必要とするだろう。聖書を読む行為は、あまりのイメージの鮮烈さに卒倒を伴うものになっていただろう。今でも母親があのような読み方をしているとは到底考えられないが、上記で著者が述べている「ことばの観念を理解することは必ずしもイメージ形成作用ではない」という結論は、私をおおいに納得させるものである。むしろ、「読む」ことが「イメージ」を伴わねばならないとすれば、ベケットの『名付けえぬもの』や、ボルヘスの短編「ピエール・メナール」はどうなるのだろうか? イメージ喚起力を文学の特徴に設定すると、イメージを伴わない作品を「文学」というシステムの外部へと追放することになるが、現代文学はこれを許さない。言葉そのものが、イメージを喚起させるためだけに存在しているのではないからである。

【小説と映画の本質的差異】

まず第一の差異として重要なのは、小説における表現、描写は言葉の選択的な名指しの「一義性」に負っており、映画が提示するような知覚映像の「多義性(両義性)」の中では持ちこたえられないということである。具体化すると、例えば「紳士が街路をゆっくり歩いている」という一文を映画化した場合、必然的に我々は書かれてすらいない「街路」の「描写」を目にすることになるだろう。小説のディスコースでは、あえて街路の描写を別の場面で効果的に導入するなどの方法論が存在するが、映画の場合、「街路を歩く」という描写を撮影するだけでも、「自動車」、「歩行者」、「店舗」などの他の多義的な要素を入れなければならない。このように、小説は「ことば」のシステムにおいて選択的な一義性を持って構成されているが、映画では不可避的に知覚映像が多義的となるということである。
そして第二の決定的な差異は、映画的描写では細部の知覚が充足していたとしても、小説のようにその意味が固定されていないという事実である。「彼女は十八歳のうら若い清楚な娘で…」で始まる小説の描写から、映画化において十八歳の若い娘を選んだとしても、観客が彼女に「清楚な」印象を覚えるとは限らない。「映画に望みうるのは、観客がそれに近いことを感じてくれることだけである」。もしも「映画の貧困」をいうのであれば、それはまさにここにこそあると著者は見ている。小説では読者の経験値に応じて同じ人物描写でも多様な解釈、印象を誘発させられるが、映画では露骨に、そのまま「映像」が飛び込んでくる。ゆっくり文字がイメージさせるのに対し、映画は画面が切り換わると途端に一挙に視覚情報が与えられる。
どちらを高尚な芸術であるというつもりはないが、ウルフが映画化に対して強い憤慨を示していたことも頷ける。そもそもウルフはストーリーではなく、「意識の流れ」によって書かれた独特なディスコースにおいて地歩を示していた作家であるので、これを仮に映画化した場合、ちぐはぐなヴォイス・オーバーで賄うしか方法がないと考えたのだろう。換言すれば、映画化できない小説とはディスコースにおいて卓越化した作品を指すのである。ストーリーの筋において意匠を凝らし、描写は淡々としているような探偵小説的な作品は、逆にディスコースに特別な要素が存在しないので、映画化に向いている。
ここから前景化してくるのは、映画の中で「名作」として評価されている作品の「原作」が、果たして同様に文学的な評価を得ているのかということである。リンダ・ハッチオンが統計化していたように、今日多くの優秀な映画作品の実に八割が「原作」を持っている。例えば私が好きなヴィスコンティの『ヴェニスに死す』はトーマス・マンが原作者だが、彼の原作は主人公アシェンバッハの「心理描写」と「思索」において卓越化しているのであって、ヴィスコンティはこれを意図的に捨象してしまっている。映画化においてはストーリーだけがピックアップされ、真に文学的な部分はカットされてしまう。ハッチオンがいうように、これには文学と映画のそれぞれの良さがあるともいえようが、だとすれば映画は、キアロスタミの作品のように原作に依存せずにそれ自身で自立すべきであろう。ブルデューは「映画館」を大衆的なものとして位置付け、「美術館」のように文化的階層性が顕著に見出せない場とみなしている。
まとめると、映画メディアは「描写の物語」である。それは小説のように「言葉」に基いて制作されるのではなく、「ドラマ(情況)」が優位にある。

小説」 … 「ことば(ディスコース)」

小説では、意味の一義的な伝達が可能(作者の判断で描写を限定できる)。より正確にいえば、「意味分節化」による物語の読み取りが比較的容易である。

映画」 … 「知覚映像」

映画では、意味は多義的で情況に支えられている。「意味分節化」という点では、小説のように意図的に描写の密度に濃淡を加えたりすることができず、曖昧で言語的には貧しい。






「参考文献」

イメージの修辞学―ことばと形象の交叉イメージの修辞学―ことばと形象の交叉
(2009/11)
西村 清和

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