FC2ブログ

† 現象学  †

フッサール現象学における「心霊現象」のテマティックについて

<亡霊性(Phantasma)とは何か?>

フッサールは、『イデーンⅠ』の第五十節(p216まで)で、一つの結論に既に達している。
それは、私が『ブリタニカ草稿』や『危機書』を、半ばゲリラ的に読解しようとしていた時に感じていたことを、結局は実証することになっていた。
それは、要するに、この世界には、純粋意識のみが絶対的に存在しているということだ。

私は世界を意識する。
だが、世界が消え去っても、(フッサールは「世界の無化」という)、この私の意識は尚も残存する。
たとえ、火事で家が無くなっても、私の意識の中では、前の家の光景が、断片的にせよ確実に存在している。
フッサールは、驚愕すべき大胆さによって、実在論全てを、つまり、全世界を( )に入れる。

私はこれまで、大カッコの「世界」を、実在論的な、全自然的世界として表現していた。
そして、純粋意識によって把握された世界の方を、(世界)と小カッコで表現してきた。
だが、これは不正確であった。
正しくは、世界を、( )に入れると、純粋意識が残存する、という一連の規定である。
つまり、( )の中に入っているのは、実在する全世界である。
存在しているペンとか、樹木とか、自動車とか、ある街とか、ある国家、ある砂漠、ある湖などは、全て実在的である。
だが、フッサールは、そういった全世界を構成する全事物を、( )の中に入れて、考えないようにする。(判断中止=エポケー)
そして彼は、それでも尚、残存するものとして、「純粋意識」を持ち出す。
世界が消えても、意識は残り、その意識の中に世界はある、だから、まず世界よりも先に、大いなる何者かの意識があったに違いない、といように考えることもできよう。

幽霊は存在する。
現象学的エポケーを遂行した後の世界には。
幽霊は、実在論的には存在しない、非存在であり、超越物であり、極度に主観性に依存する。
だが、フッサールに拠れば、そもそも、客観的に世界を意識することなど、人間には(神でない限り)不可能である。
私たちは主観的に、「我、思考する」(コギト)から、出発せざるをえない。
そして、フッサールは、経験連関が、それを否定せず、他者の意識においても、同様のことが確かに見出され得る場合には、非存在は空虚なXでは、最早ないと断言する。
幽霊は実在論的には存在しないが、現象学的還元(つまり、世界の( )入れ)を遂行した後では、ある個人にとっては、それが意識されている以上、存在すると規定されるということである。
幽霊が存在するためには、ある個人が、経験連関の中にその非存在を対象として、幻影的に見るということが継続されねばならないだろう。
更に、それを否定されず、矯正もされず、何らかの保証人さえ、必要とせねばならないだろう。
「私にも幽霊が見えるわ。貴方とは違う形なんだけれど」などといった、他我と自我との諸主観共存的な環境世界という基盤は、必要である。
幽霊サークル(幽霊を見ることができる人間たちの小さな小社会)の可能性。

【これまでのまとめ】

1、「実在」とは、ここにあるこのものである。それは、隣人にも確かに見えているし、およそあらゆる人が存在していると認める、客観的な事物である。

2、「純粋意識」とは、実在と、全く別のものである。実在しているのに、意識だけは別のものを見ている可能性もある。例えば、リンゴという実在を、「人間の顔」として意識している場合もある。このように、実在と意識を、フッサール現象学では、明確に区別する。そして、それぞれの世界があるとする。

3、「現象学的エポケー(現象学的還元)」とは、「実在」する全事物を、完全に遮断してしまう操作のことである。つまり、「リンゴが机にある」という視覚において、「リンゴがある」を遮断する。そして、私たちのこの意識が、むしろそのリンゴをどう見ているのか、その作用にこそ着目する。だから、全事物の「実在」は、( )の中に入れられる。このことを、現象学的還元ないし、現象学的判断中止(エポケー)という。

4、「内在的知覚」とは、私たちが、実在している対象をどう見るか、どう知覚しているか、である。つまり、私たちの中では、どう感じられたか、である。

「内在的知覚は、どれもみな、必然的に、知覚される当の対象の現実存在を保証する」(p196)

フッサールは、私たちが知覚したものは、現実存在するという。つまり、対象が絶対に実在する必要性はないのだ。大切なことは、私たちがどう感じたか、である。本当はないものを、私たちがあると知覚したり、それを見たり、聞いたりすれば、その空虚なXは、現実存在する。

5、「虚構的直観」とは、私たちが非存在、空虚なXを知覚することである。これは空想、妄想ではない、とフッサールは強調する点に注意したい。フッサールの論理は、以下である。「虚構する意識は、虚構されているわけではない」。つまり、たとえある人が空を飛ぶウサギを知覚していて、それがおよそ他者には知覚されずとも、その人が空飛ぶウサギを虚構する意識そのものは、虚構されてはいないのだ。虚構作用、つまり、コギトの意識はどこまでも残存し続けるのだ。こうした空飛ぶウサギは、現象学的還元を遂行した世界でのみ、存在可能である。

特に私は、フッサールの5の考え方に強い関心を抱いている。
これは事実上、古今東西のあらゆる幽霊説に終止符を打った画期的な理論であろう。





関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next