† 文芸理論 †

ブルデュー社会学からマッピングする文学〈界〉における「文化貴族」の条件

実践理性―行動の理論について (ブルデュー・ライブラリー)実践理性―行動の理論について (ブルデュー・ライブラリー)
(2007/10)
ピエール・ブルデュー

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このページでは、ブルデューの『実践理性―行動の理論について』の第三章「作品科学のために」、および二つの付論についての記録を残す。

【作品科学の方法論】

まず、ブルデューのいう「作品科学」には二つの研究対象がある。一つは、「作品そのものの構造」(ジャンル、形式、文体、テーマ、構造)の研究であり、もう一つは「文学<界>」(互いに行為者が競合的関係を結ぶ場としての)の研究である。
例として、二人の抽象化された作家を仮設しておこう。
作家Aは一般的な高校生でも読めるような、容易に映像化可能なファンタジー小説を量産しているタイプの書き手である。作家Bは純文学の新人賞を受賞し、同時に評論も寄稿しつつ、どちらかというと硬派で文学理論としても前衛的なタイプの作風で知られている書き手である。
ブルデューの問いは根本的である。すなわち、彼は「なぜ両者がそもそも立場を決定できたのか?」の来歴を問うているのである。個々の作家が、デビューする際にどの文学賞を選ぶか、あるいはどのジャンル、テーマ、文体を選ぶかといった問題は、実は「象徴資本の配分構造」によって決定されているのである。換言すれば、「自分のハビトゥス内に“書き込まれた”知覚、評価カテゴリーが保証する利用可能な種々の可能性」を、どう使うかに応じて文学上の立場は決定されているのである。
作家Aが、自分にはエンターテイメントを書くことが向いている、と考えて応募先を大衆的かつ世俗的な地点に決めるまでには、無論彼が所有している「文化資本」、「経済資本」、「学歴資本」、「社会関係資本」などがパラメータとして無意識に作動している。文学についての文化資本量の高い人間が、果たして高校生が三日後には古本にしてしまうようなジャンルを選択するであろうか? 
ブルデューの作品科学を学ぶ上で根本的に重要な前提となるのは、文学には厳格な「ジャンル」が存在し、このうちどのジャンルを選択するかに応じて行為者が有する資本量を原理的には策定可能であるという社会科学的法則なのである。
よりこの点を具体化すれば、今日の「小説作品」には実に多様な出版物が存在するが、それらをまず「ジャンル」(純文学、大衆小説、ファンタジー小説、ホラー小説、ライトノベル、ゲームのノベライズなど)に区分し、更に「純文学」であれば、選択される「テーマ」(恋愛、政治、芸術、文学理論そのもの、作家自身の私秘性など)によって微分化し、かつ同じ「恋愛小説」であっても、登場人物のソーシャル・クラスが「高校生」なのか、「国家貴族」なのか、それとも「プロレタリア」であるのか、といった属性によって更に微分化していく――こうしたプロセスから可視化されるのは、「小説作品」はその書き手の「ハビトゥス」を開示した“証書”になっているということである。
我々は先述して、登場人物のソーシャル・クラスに注目したが、採用されている「文体」もまた行為者の「文化資本」を測るための指標である。「文体」には作家そのものが宿るという言葉が示している通り、たとえテーマが平均的で月並みでも、技巧的で一部の「文化貴族」にのみ理解可能なほどにコード化された表現を駆使すれば、それは行為者のハビトゥスの高さを示す指標になるのである。このように、一つの「作品」(それが原稿用紙一枚程度のショートストーリーであっても)には、その書き手のハビトゥスを知る手掛かりが幾つもコード化された状態で潜在している。
ブルデューが本書で具体例として提示するのは、1880年代フランスの文壇での諸勢力関係である。この分析はブルデューの作品科学のアプローチを知る上でも極めて重要である。この時代でも現代と同じく、文学<界>は「純粋芸術」と「商業芸術」の対立関係が浮き彫りとなっている。前者は象徴的には支配的であるが、経済的には被支配的である。後者はこの逆であり、ブルヴェール劇、ヴォードヴィル、大衆小説、産業芸術などが含まれている。
商業芸術で特徴的なのは「大衆演劇」という要素であり、大衆小説も突き詰めていえば、「大衆演劇」へとアダプテーション(翻案)可能である点で、演劇的である。逆に純粋芸術の本質的な場は「詩」であり、これは20世紀においてもハイデッガーが『芸術作品の根源』の中で、芸術の根本を「詩作」(思考の場としての)に結び付けた点からも判るように、常に優位性を保つジャンルに他ならない。
ブルデューは商業芸術と純粋芸術の差異を、その「承認」先の観点からも分析している。前者は世俗的名声を求めているので、できるだけ多くの人に読まれ、たとえすぐに飽きられようが高い利益が得られるような読み易く時代に迎合した作品を量産する。他方、純粋芸術の担い手は、文化資本の高い競争相手からの承認を期待しており、利益よりも「古典」の殿堂入りを目指すのである。
この両者の差異は、「知識人(大学教授など)」と、「経営者(大企業の社長)」の持つ資本種の対立関係とも相関している。『ディスタンクシオン』でも有名な表が掲載されているが、基本的に大学教授は文化資本が高く、経営者は経済資本が高い。経営者の経済資本の高さは、文化資本の高さと比例しているわけではなく、表においては「マイナス」記号になっている。これは大学教授にも妥当し、彼の経済資本はやはり相対的に「マイナス」なのである。この比較は無論、経営者と大学教授という比較的判り易いソーシャル・クラスの各資本量の対立図式から原理化されたものであり、例外も無論存在するが、統計とはそもそも「例外」を含有した上での結果なのである。
文学<界>に参加している行為者(すなわち現役作家、現役詩人、現役文芸評論家など)は、<界>内部での公認度(承認)だけでなく、外部での公認度(名声)をめぐって、常にその評価・位置を変化させる動的な主体である。

【小説作品とハビトゥス】

作家志望者であれば「応募先」をどこに特定するかの選別自体に、既にその書き手の実力とその期待値を見越した上での判断に基いた「ハビトゥス」の顕現が顕れている。換言すれば、作家がどのジャンル、テーマを採用するかの<位置>は、彼の社会的出身階層のヒエラルキーと相関している(ブルデューはここに「驚くべき照応関係が認められる」と述べている)。
ライトノベルしか読んだことのないような作家志望者が、高度に文学理論上の「前衛」を意識している『群像』に「応募」することは「ハビトゥス」の原理からして、ほぼありえない(あるとしても彼の文化資本が真に試されるのはデビューしてからである)。
ここで一つ、ブルデューが述べている興味深い統計を引用しておこう。

「ひとつだけ例を挙げれば、大衆小説というのは他のいかなる小説カテゴリーよりも被支配階級出身者や女性作家に委ねられているジャンルなのですが、注目すべきことに、その内部でこのジャンルに対して最も距離を置いた扱い方、半ばパロディ的な扱い方ができるのは、相対的に恵まれた作家たちなのです」(p98)


ここで例示されているのはアポリネールが絶賛したという『ファントマ』という「新聞連載小説」である。「新聞連載小説」というジャンルそれ自体が「大衆小説」であることの証左であり、「新聞」というメディアでの限られた文字数に依存してしまう限り、文学理論上での大いなる貢献は初めから期待されてなどいない。
ブルデューは「大衆小説というのは他のいかなる小説カテゴリーよりも被支配階級出身者や女性作家に委ねられているジャンル」であると述べている。我々はこの断定が日本でも妥当するとは言い切れないが、少なくとも「被支配階級出身者」が世俗的名声を安易に求めて軽率な作品を連発するという現象はどの国においても見出せそうである。彼らが「大衆小説」にしか属せないのは、端的に「学歴資本」に裏付けられた「文化資本」の質が低いからである。文化資本が高くなればなるほど、作家は多言語で執筆するようになり(例えば多和田葉子はドイツ語と日本語の双方に通じ、それぞれの国で作品を交互に発表できるだけの言語資本と、それを活用できるだけの文芸理論資本を兼ね備え、国際的な評価を高めている)、また「一読しただけではよく判らない」と大衆から時に批判されるような「エリート的な囲い込み」を生起させる。

【固有名詞のディスタンクシオン】

また、本章で展開されている極めて興味深いテーマに、「固有名詞」の卓越化した使い方というものがある。そもそも、「固有名詞」とは社会学的には「制度」の有する魔力の具体化された記号である。その代表的なものは、他でもない「履歴書」である。エリート校の「固有名詞」、一流企業の「固有名詞」、そこでの「役職」、持っている資格名――これら全ての「名前」には「権力」が宿っている。「固有名詞」ほどこれが強力かつ永続的に発揮されるものは存在しない。このことから、ブルデューは「固有名詞」を、「本人のアイデンティティを証明する恒常的な証書」として把捉するのである。
「固有名詞」と「小説作品」というテーマで考えた時に、ブルデューが対象にするのはプルーストである。周知のように、プルーストは「土地、土地の名」において、固有名詞が発揮する“美的な雰囲気”が、作品そのものを進行させるほどの魔力を持っていることを告げている。その記号表現自体が貴族的で、時空を超越した重層性を感じさせる固有名詞というものが確かに存在するのである。
こうしたブルデューの考察を受けて、我々は以下のように発展的に考えることが可能ではなかろうか。すなわち、ある小説作品のディスコースにおいて登場する「固有名詞」のディスタンクシオンによって、書き手の文学<界>内での「クラス分け」が可能であるということである。例えば、ある小説作品の中でレオナルド・ダ・ヴィンチを一つの設定として活用する場合、この画家に付属する連帯的な「固有名詞群」を、いかに卓越化して、上品にストーリーへと昇華できるかということが、作品の「質」を策定する。
このように、「固有名詞」とはまぎれもなく行為者自身の(あるいは物そのものの)l’etat cvile(身分証明書)に「支え」であると同時に、そのla substance(実体)でもあるのだ。

【前衛とは何か】

円城塔が芥川賞を受賞した時、このSF文学賞の履歴を持つ作家に対して「前衛作家」として位置付ける文芸評論家が多数見出された。「前衛」とは何であるかといった問題設定については、アントワーヌ・コンパニョンやウィリアム・マルクスらの研究から我々も幾つかの概念を炙り出したが、ブルデューも実は興味深い「前衛論」を展開している点が注目に値する。
ブルデューによれば、前衛とは、文学<界>内の「遺産」に内在している可能態の空間に、テクストとして初めから“書き込まれている”ものであるに過ぎない。これは明らかにバフチン、クリステヴァ、バルト、コンパニョンと続くインターテクスチュアリティを看取した上での見解であろうが、私にはどうもこれがブルデュー社会学の理論的帰結から表明されている気がしてならない。だとすれば、ブルデューは全く「間テクスト性」理論とは別のベクトルから同様の「規則」を弾き出していることになるわけであり、尚更興味深いわけである。
同様の発言は以下にもある。「歴史に対する<自由>の原理が宿っているのは、歴史の中だけである」。これは未来社会における「自由」概念が、実は過去の時代において通用した「自由」概念の表象=代理であるとも解釈できるだろう。この思考を文学<界>に応用すると、以下になる。「新しい前衛は、<起源の純粋さへの回帰>によって、当該ジャンルの基盤そのものを改めて問題にする」。ここから、彼は「文学の歴史」は「前衛による文学制度の刷新の歴史」であることを前提した上で、「起源への純粋化のプロセス」と把捉する。
今、我々は「文学制度の刷新」と表現したが、果たして前衛作家たちは従来の文学制度を「刷新」しているのだろうか? シュンペーター的意味における「創造的<破壊>」という言葉の意味を、ここでより詳しく記述しておかねばならない。

「…前衛の生産者たちは、過去を乗り越えようとする変革行為に至るまで、じつは過去によって規定されています。つまりそうした変革行為は、母胎にもともと宿っているように、その<界>自体に内在する可能態の空間に初めから書き込まれているのです」(p95)


ブルデューが述べているように、「前衛」は「破壊」しているわけではないのである。むしろ逆で、彼らは徹底的に「過去の制度」の産物なのである。どの潮流が死んでいるのかを熟知し、どの潮流が過渡期に達しているかを気配として読解できるだけの「文化資本」こそが、「前衛」作家の卓越化したスタイルを醸成するのである。

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【芸術家の<貴族性>の測定方法】

『実践理性』の内容を越えることになるが、ブルデューは『国家貴族』第四部「権力<界>とその変容」第二章「権力の学校と経済権力」の中で、ある行為者が貴族であるかを示すための諸指数が存在することを述べている。例えば、「国家貴族」の貴族性は「家柄の旧さ」、「deの付いた姓」、「社会関係資本の高さ」(名声)などによって測定できる。
ブルデューはいわば、社会空間において「貴族」であると認知されるための社会的条件を挙げているわけである。社会空間はいうまでもなく各<界>に差異化、階層化しているわけであり、このそれぞれに「貴族」が存在し、「支配の正当化原理」を行使していることは既に見てきた。
こうした文脈から、我々はここで文学<界>における「貴族指数」の算出方法というものを原理的なレベルで素描しておこうと考える。換言すれば、これは「読むに値する小説作品の選び方」に他ならない。「古典的名作」として誰もが認める名作(ゲーテ、シェイクスピア、ダンテ、セルヴァンテスなど)は、彼らの存在自体が「象徴資本」にまで高められているので、ここでは捨象する。我々がここで位置付けたいのは、主として「現代作家」たちの中に存在する「貴族の見つけ方」である。

(1) 学歴資本の卓越性

貴族的な作家である限り、学歴資本は相当に高いものでなければならない。あるいは、「純文学」上の理論について相当深く教育を受けた「履歴」を有する者でなければならない。

(2) 純文学の各文学賞の受賞回数

貴族的な作家は、芥川賞(直木賞はあくまでも大衆文学用の文学賞なので、「純粋芸術」ではない以上除外する)受賞以後、例えば谷崎潤一郎賞、泉鏡花文学賞、紫式部文学賞、伊藤整文学賞、大沸次郎賞、川端康成賞、野間文芸賞などの伝統的な文学賞を少なくとも五つ、あるいは六つは受賞せねばならない。これに現役作家で妥当するのが、多和田葉子、小川洋子、堀江敏幸、松浦寿輝、津島佑子、阿部和重らである。

※ 因みに、自身のサイトで自ら「現代のカフカ」と自称している平野啓一郎のような特殊なデビュー形態(佐藤亜紀氏のエピゴーネン)の二流の物書きも存在するが、彼の受賞歴は突発的な芥川賞以降、わずか二つに過ぎず、ブルデュー的な「貴族指数」の観点からはいうまでもなく除外される。

(3) 評論活動の卓越性

例えば松浦寿輝には『エッフェル塔試論』、『折口信夫論』、『平面論』のような評論活動のほか、ヴィム・ヴェンダース『エモーション・ピクチャーズ』やジャック・デリダ『基底材を猛り狂わせる』などの翻訳も存在する。
また、堀江敏幸にもフィリップ・ソレルス『神秘のモーツァルト』、マルグリット・ユルスナール『何が? 永遠が』、パトリック・モディアノ『八月の日曜日』などのフランス文学中心の翻訳が存在する。
こうした「小説作品」以外の「評論」、「随筆」(すべて文学<界>内部に属する点も重要)という分野での卓越化も、作家の「貴族性」を測定するための重要な指標である。


以上、大きくカテゴライズして少なくとも上記の三つが即座にブルデュー社会学から導出できた。これは素描に過ぎず、更に幾つもの「指標」を付加させることが可能であろう。

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~ Comment ~

生まれながらの才能

 鈴村さんは、ハビトゥスの形成に、どの程度の先天的要因が関係するとお考えですか?
[2014/07/24 12:05]  ササクレ  URL  [ 編集 ]

Re: 生まれながらの才能

ササクレ様へ

コメント欄に気付くのが遅れてしまい申し訳ありません。
「先天的要因」についての語彙、あるいは意味内容をまず共有する必要があります。
「先天的」とは、遺伝的・生物学的な所与の事実性を指すのか、あるいは、社会空間上での両親の経済資本、文化資本、社会関係資本などの各資本種の総体的な位相関係を指すのか。
どちらの観点に依拠するかで、返答がまったく異なります。
このブログの記事ではブルデューの「社会学」的な見地に焦点を当てております。
[2014/07/31 09:30]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]

生まれながらの才能2

 鈴村さん。お返事ありがとうございます。

 遺伝的生物学的な所与の事実性の方でお願いします。

 社会空間上での各種資本の総体的な位相関係は、私の場合、「環境」に分類させていただきます。

 
 最初いろいろ書いたのですが、なぜか不正コメントになってしまうので、文章かなり削りましたw 言葉足らずな部分もあると思いますが、ご容赦いただければと思います。


[2014/08/03 12:50]  ササクレ  URL  [ 編集 ]















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