† 現象学  †

「雑踏」についての試論

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雑踏とは、音響的にはノイズである。
大通りの顔の体制は、マルチチュードである。
顔は交通する。
ここでは、夜になると顔は減る。
あるユダヤ人男性と歩道で擦れ違うとせよ。
彼がイエズス・クリストと同じ顔を持たないと誰がいえよう?

誰もいない歩道は常に不可能である。
そこは常に可能的な他者の顔で横溢している。
夜、完璧に死んだ時刻、この歩道からは完全に人が消える。
翌朝、顔の交通が再開される。
「無人である」ことは、都市においては不可能である。
ひとは廃墟にも土足で踏み込むし、街角のベンチの下のわずかな草にまで手を伸ばす。
「無人である」ことが可能なのは、現存在が全て根絶されて以後の世である。
ひとがある地点aに踏み込むという諸可能性を遮断させる世界を到来させねばならないからだ。

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同じ街でも一つとして同じ顔は存在しない。
日常生活が慣性の法則に支配されても、そのどの一日もが完璧なオリジナルである。
反復されるものには、差異が滑り込む。
観覧車は回転するが、一つとして同じ夜景を現前させない。
循環論、とりわけ、同一性原理に帰属するような循環論は棄却される。

(Christian Pignolの絵に拠る)
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