† ロココ論 †

ロココ時代のファッション


ファッションの歴史―西洋中世から19世紀までファッションの歴史―西洋中世から19世紀まで
(2006/10)
ブランシュ ペイン

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華麗な革命―ロココと新古典の衣裳展

(一)化粧空間としての「ロココ」

 ロココには非常に強い魅力が宿っている。18世紀のドイツ美学のテーマであった美的範疇論でいえば、この時代には「優美」と女性的な軽妙洒脱が感じられる。それは甘く、優しく、繊細で上品、しかも色鮮やかである。しかし、そんなロココに対してボードレールはこんなことを書いていた。

「私は昔ながらの閨房(女性の居間、夫婦の寝室)、萎れた薔薇で一杯だ
時代遅れの衣裳が乱雑に横たわり
かこち顔なるパステル画や色褪せたブーシェの絵が
ひとり、栓の抜けた香水瓶の香をかいでいる」(多田道太郎訳)



 ボードレールのこの異様にメランコリックな感覚が、ゴンクール兄弟の『18世紀の女性』(1862)で描かれている美化されたロココとは好対照である。ボードレールにとって、ロココとは「死に憑き纏われたメランコリア」に他ならなかった。私が「優美」の極地ともいうべきロココに惹かれるのは、その立役者の一人であったマリー・アントワネットの悲愴な最期によっても象徴化されている気がする。いわば、この文化には本質的に「崩壊への意志」が内在しており、優雅でありながらもどこかメランコリアの種子を内部に潜ましているのだ。
 だが、「ロココのメランコリア」という逆説的なテーマを考察することはなかなか一筋縄ではいかないだろう。何故なら、ブーシェやナティエ、ロムニーなどが描いた貴婦人たちの優雅な肖像画を眺める限り、そこに「影」は見出せないからだ。むしろロココ絵画の特異点であるシャルダンにこそ、我々は「メランコリア」の気配を感じられるのかもしれない。けれども、ロココ文化を一般的にいわれるように「優雅でメルヘンチックで少女文化的」なものとして把捉するという安直な文脈からは、乖離せねばならない。だとすれば、どのような捉え方が求められるのだろうか? ボードレールの感想は、少なくとも私にその考察の機会を与えたのだった。
 以下、ロココ文化についての基本的な論文である、ジュネーブ大学教授ジャン・スタロビンスキーのロココ論「ロココの世界」からレジュメを作る目的で、基本的な要素を学習しておこう。
 ロココの時代区分とは、厳密にいえば「摂政時代(1715-23)から1789年のフランス革命までの期間、すなわちヴァトーからフラゴナール、モンテスキューからボーマルシェまでの全時代における美学的本質」(スタロビンスキー)として規定されている。ただし、17世紀バロック後期には既にロココの萌芽が芽生えていたし、1750年頃から早くもロココ批判も起こり始める。とはいえ、ロココは典雅な宮廷文化として18世紀に興隆した。「ロココの芸術家たちは、自らの遊戯を完璧に自覚した遊戯者であった」と、スタロビンスキーは述べている。
 では、ロココとは根源的にどのような美学的本質を有するのだろうか? スタロビンスキーはそれをイリュージョンに見出している。ただし、このイリュージョンはマニエリスム-バロックにおけるillusionismとは異質である。ロココ装飾においては、クピドも動物も薔薇も同じようにサイズがミニチュア化され、ふわふわと飛び回る(ピクトレスク様式)。また、ロココ時代はちょうど啓蒙主義(ディドロとダランベールの『百科全書』はこの時代の代表作)の時代であり、人々はできるだけ「幸福」を持続させるように努め、「メランコリア」は追放しようと考えていた。この感覚をより判り易く表現すると、ちょうどそれは「舞踏会を明日に控えたおしゃべり好きな御令嬢」の「閨房」としてイメージできるのではなかろうか。彼女は気持ちを浮かれさせてくれる、官能的な優しさと繊細さと優美さに溢れた芸術を愛している。彼女の部屋にはいかめしいところが微塵もなく、化粧道具は整えられて、洋服も舞踏会用のものが幾つも準備されている。スタロビンスキーは、まさにこういう「乙女チックな世界」にこそロココの本性を見出している。彼はカトルメール・ド・カンシーの有名な「女性の部屋(閨房)」についてのテクストをロココの本質を語る上で引用している。

「居室の配置において、寝室と化粧室に隣り合う小部屋で、とくに女性の使用するもの。閨房(女性の部屋)に固有の性格は、柔らかさ、贅沢さ、ギャラントリーである。普通そこには柔らかな日差しを配する。…室内装飾に凝っていることが、閨房の主たる長所である。そこに入れるものは、鏡、よりすぐりの織物、優雅な花瓶、貴重な家具など、技巧の豊かさよりも趣味の軽やかさを旨とするもろもろの事物である」(『華麗な革命ーロココと新古典の衣裳』p16)


 まさに、カンシーのこの「女性の部屋」の定義こそが、ロココ文化の核心である。それは本質的に女性が好み易い傾向を持つ文化の「イデア」であり、その様式的昇華である。この時代になって、新しい家具であるカナペ、ソファ、デラサント、デュシャスなども登場する。ヴァンロー、ラムゼイらの画家は、肖像画を描くにあたってイリュージョニスティックに女性たちを美しく「虚構化」する。
 ロココ時代の文学として、スタロビンスキーは重要なアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』以外に、クレビヨン・フィスの作品を挙げている。彼の作品には浮気女や伊達男が登場するが、とりわけ「化粧」の描写が見事であると評されている。また、後にブーシェを批判することになるディドロも、実は面白いことに若い頃『おしゃべりな宝石』という御婦人を読者層に想定したような表題の小説を書いている。ディドロはブーシェに対して、「彼の優雅さ、甘ったるさ、空想的なギャラントリー、コケットリー、趣味、安易さ、変化、輝き、化粧っぽい肌の色、みだらさは、伊達男、好色女、若者、社交界人士、あるいは本当の趣味にも真実にも正しい観念にも芸術の厳しさにも縁なき衆生のこころを捉えるに違いない」と皮肉っているが、実はこれは初期ディドロの小説に対する「自注」でもある。そしてこのディドロのテクストは、そのまま「ロココ文学」の特徴の列挙でもあろう。
 実はロココ文化は1830年代という比較的早い段階で、既にノスタルジーと美化の対象になっていた。1911年にホフマンスタールが『薔薇の騎士』を刊行するが、これは神話化されたロココを20世紀において再現前させた「ネオ・ロココ文学」の先駆である。
 ディドロの介添えや、古代ローマ遺跡の発掘によるギリシア・ローマ文化の「シンプルさ」への再評価もあって、時代は「新古典主義」を迎える。フランス革命によって宮廷文化のシンボルであるロココが終焉に達したというよりも、既に革命以前から古典主義的なものへの要請は見られたのである。これに思想面で拍車をかけたのが、ルソーであった。新古典主義は、ルソーの思想と結合してロココ文化を一掃していくことになる。若きダヴィッドやグルーズに見られるような「崇高」、「悲愴」といった重厚な古典主義的感覚が重視され、1770年頃には公衆も既に新古典主義的なムードに包まれ始めていたといわれる。
 ロココは女性的で優美な様式で、続く新古典主義はいかめしく男性的で堅い、という捉え方も可能であろう。ひとつ興味深いルソーのエピソードが紹介されている。先ほど、我々はスタロビンスキーが「女性の化粧部屋」にロココ文化の本質を見出していると述べたが、そこにいる女性はどんな格好をしているのだろうか? 無論、「部屋着(デザビエ)」か「化粧着(ネグリジェ)」である。『トレヴー辞典』には、デザビエとネグリジェについて以下のように記載されていたようだ。「デザビエとは、婦人が自宅で着用する色もので、儀礼的な訪問に出かけるときに着用する黒のドレスと対照される。…ときには極上の盛装よりも刺激的な気取ったネグリジェもある」。ルソーは『告白』七巻の中で、デュパン夫人がネグリジェ姿で現れたのを目の当たりにして、正直に以下のように告げている。「彼女はそのお化粧の場(閨房)で私を迎えた。腕もあらわで、髪はばらばらで、ネグリジェも乱れていた。この応対ぶりはまことに新しかった。憐れな私の頭は持ちこたえられず、取り乱し、迷った。つまりデュパン夫人に惚れたのである」。……このように、続く新古典主義時代の思想家にとっても、ロココ的な女性的文化の持つ魅力には抗い難いものがあったということである。
 以上、スタロビンスキーのロココ論からも判るように、ロココの本質は「女性の部屋での着替え」にある。換言すれば、ロココとは女性たちの「ファッション」を知ることで可視化される様式なのである。実際、ロココの画家たちをこの時代に帰属させている共通の要素は、皆着飾った女性たちの雅な姿を描いているという点で一致する。ロココは、徹頭徹尾「ファッション」なのであり、絵画も結局は当時の「衣服」の表象なのである。
 また、同じく『華麗な革命ーロココと新古典の衣裳』に収録されているフランスの建築史家フィリップ・デュボイの論考によれば、ロココが栄えた18世紀は、資本主義が興隆し始めた時代と重なってもいる。「リュックス(贅沢)の理論」が普及し、あらゆるモードの洒脱さ、壮麗さが競われるようになる。「〈恋、贅沢、資本主義〉、これこそポンパドゥール侯爵夫人の時代であり、“この時代を見事に代表する彼女の趣味がルイ15世の世紀の文化を全面的に支配する”」とは、フリードリヒ・ハイエクにも影響を与えたW.ゾンバルトの言葉である。
 このように、ロココ時代は21世紀初頭の現代日本にも文化面で通底する様式であり、未だにその需要は計り知れないほど大きい。


(二)ロココのファッション

 
 ロココから新古典主義までは間違いなくフランスの歴史の中でも最も激動的であった時代の美術様式である。この時代、つまり18世紀から19世紀初頭まではルイ14世の死、ポンパドゥール夫人の宮廷入り、マリー・アントワネットを死なせたフランス革命、ナポレオンの登場と失墜、王政復古と、一つ一つが巨大なインパクトを持った出来事の連続である。
 ワシントン大学家政学部教授で服飾史の専門家であるブランシュ・ペイン女史の『ファッションの歴史』の「18世紀:女性の服装」によれば、この世紀には少なくとも六つの基本的なモードが以下のように変遷した。以下に、18世紀の「ドレス」の基本構造として重要な四つの要素も含めて、女史の研究成果をそのまま掲載する。

「18世紀のレディース・ファッションの流れ」(『ファッションの歴史』p324-5)

(1)1690年から続いていたバッスル・スタイル。
(2)フープが見直されて、再び現れた釣鐘形またはドーム形スカート。イングランドでは1710年以前、フランスでは1720年以前に再登場。
(3)楕円形になったフープ入りスカート。つまり、スカートを膨らませる枠が左右に幅広く、前後が扁平になった。このスタイルは1740年から1770年まで長期間もてはやされ、宮廷衣裳のスカートの横幅は極端なまでに広がった。フランスでは革命前までこのスタイルが続いたが、例外的に後ろに突き出したスカートも再び現れた。イングランドの宮廷では、横幅のやたらに広いこのスタイルが19世紀になってもしばらく続いた。
(4)「乳搾りの娘」または「ポロネーズ」と呼ばれたスカート。これは、オーバースカートのポケット穴にオーバースカートの裾を通して引き上げるか、または、はじめから膨らみを計算して裁断し、紐、リボン、ループ、ボタンなどでスカートを引き上げて、ポロネーズと呼ばれる大きな膨らみ「プーフ」を三つ形作った。16世紀後期に、この種のスカートの変形が多数現れ、17世紀に広く一般化した。アメリカ独立戦争時代に流行したスタイルとよく似ている。
(5)1780年代に復活したバッスル。
(6)古典主義芸術から着想を得て、1790年代に登場した筒型の衣裳。

「18世紀のドレスの基本構造」(同書、p326)

(1)最も一般的だったオーバードレスとアンダースカートの組み合わせ。
(2)別裁ちのボディスとスカートをウエストで縫い合わせた、今日のドレスの概念にかなり近いもの。ウエストの背中側だけを接いで、残りは縫い合わせず、ボディスの前を長くして、スカートの上にかぶせるようにしたものもあった。
(3)一般に「サック」と呼ばれた、ゆったりした衣裳。ウエストを絞らず、前後とも肩から裾まで切り替えなくゆったりと垂れているのが特徴。
(4)ジャケットとスカートの組み合わせ。その例として以下のものがある。フランスの画家ランクレの作品《踊るカマルゴ》に描かれている衣裳。ウエストコートと同様に、三角帽(トリコルヌ)、ストック、ジャボ、手袋など、男性服から借用した女性用乗馬服。1770年代に着用されたカラコなど。



 ソルボンヌ大学で美学を学んだ日本を代表する服飾研究家の一人である深井晃子女史によれば、ロココは贅沢で華麗な「絹」に、新古典主義は古代ローマ風のシンプルな「木綿」に象徴される。
 この時代のモードの変遷を、彼女は以下のように分節して解釈している。

(1)レジャンス

 既に多くの研究者が一致しているように、ロココはルイ15世摂政時代(1715-23)末期から本格的に始まるとされている。この時期はゆったりした「ローブ・ヴォラント」が流行し、ドレスは「ネグリジェ(くつろいだ)」の感覚を表している。
 レジャンスの象徴的な存在である画家ヴァトーの名を冠して、「ヴァトー・プリーツ」とも呼ばれる。ヴァトーこそは、今日もロココの研究者からこの文化の中心的画家として認められる存在である。

(2)ルイ15世時代

 ポンパドゥール夫人が宮廷入りする。スタンダールによれば、この時期は「影にいたるまで一切が薔薇色の絵」と呼ばれたほど華麗な衣裳が興隆し、ロココ女性服の典型として後世に認知されることになる「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」が出現する。ポンパドゥール夫人が大のお気に入りだった宮廷画家ブーシェが、この時期の貴婦人たちを多く描いている。

(3)ルイ16世時代

 1774年には、ルイ16世妃マリー・アントワネットがファッション・リーダーとして活躍する。彼女の衣裳を担当したローズ・ベルタンの存在も重要である。パニエは前よりも更に大きくなり、「ローブ・ア・ラ・ポロネーズ」などが人気を誇った。
 紳士服では、「アイ・ア・ラ・フランセーズ」が完成する。これは「アビ」+「ジレ」+「キュロット」+「絹靴下、レースのジャボン、クラバット」として基本形が構成されている。
 アントワネットの時代のファッションは、「手仕事」で贅沢を丁寧に作り出す極致と評価される。17世紀から流行していたアンディエンヌ(インド更紗)がヨーロッパ各地にプリント工場を生んだ。また、1770年代からそれまでの「花柄」中心の衣裳に代わり、「縦縞」がモードになる。革命家ロベルピエールも縦縞の入った衣裳に身を包んでいた。70年代は、アングロマニー(イギリス趣味)も流行し始め、それまでの豪華絢爛なファッションが見直されて「自然さ」、「単純さ」、「インフォーマル」が評価される。このアングロマニーは70年代の「ローブ・ア・ラングレーズ」に結実し、このモードがやがて単体のワンピース形式のドレス(ラウンド・ガウン)へと発展する。この頃のマリー・アントワネットのスタイルは「シュミーズ・ア・ラ・レーヌ」(王妃風シュミーズ)と呼ばれた。
 このように、実はロココ様式は「フランス革命」をターニングポイントとして突然新古典主義様式へ転換したのではないのである。革命以前から、宮廷文化そのものがロココに内省的になり始めており、イギリスのモードを輸入することでシンプル化していく傾向へと向かっていたことは記憶しておかねばならない。



 18世紀の服飾産業の基本的な構造として重要な要素が少なくとも四つある。一つは、ドレスメーカーである「クチュリエール」。テイラーである「タイユール」。そしてエロフ夫人を代表とする服飾品の小物商「マルシャン・デ・モード」。更にロース・ベルタンや帝政時代のルイ・イポリット・ルロワに代表されるような「服飾デザイナー」の存在である。こうしたひとつながりの機構がロココのファッションを生産するシステムの要素であった。また、今日のヘアデザイナーの元祖であるマリー・アントワネットお抱えのコワフュール(髪結い師)、レオナール・オティエの存在も欠かせない。
 ヨーロッパ最初のファッション誌は、フランスの『ジュルナル・デュ・グ』(1768)と、イギリスの『レディス・マガジン』(1770)に代表される。
 ロココには実はもう一つの顔があった。この時代は基本的に「優美」で柔らかい洗練された装飾が重視されていたが、東洋趣味の影響により「醜」、「畸形」といった要素も注目されたという。これらは特に中国と日本の図柄、技法からの引用であり、シノワズリー、ジャポネズリと呼ばれる。アントワネットも日本漆器のコレクターとして有名であった。本格的にヨーロッパが日本文化からの影響を受けるジャポニズム以前に、既に18世紀の西洋服飾史において我々は日本からの影響を垣間みることができるのである。


(三)新古典主義

 ロココが新古典主義へとシフトした要素には幾つかあって、必ずしも一つではない。まず、ロココ文化そのものがイギリス趣味(アングロマニー)の影響を受けてシンプル化の兆候を強めていたという前提が存在している。更に、古代ローマの遺跡ヘラクラネウムが発見され、ヴィンケルマンの『古代ギリシア模倣論』が知識人に大きな影響を与えたことによって、古代ギリシア・ローマ的な美意識(単純性、幾何学的形態)が重視され始めた。すなわち、アングロマニーと古代礼賛の潮流を受けて、ロココは自発的に新古典主義へと向かったのであって、フランス革命はあくまでもファッションを「イデオロギー」として用いたに過ぎない。革命以前に既にモードは簡潔性の魅力を自覚し始めていたということは強調しておかねばならない。1789年は、あくまでもモードの移行期である。とはいえ、革命以後は貴族のシンボルだった「キュロット」と「白い絹靴下」は履かれず、サン・キュロットは「長ズボン」を着用していた。
 第一帝政に入ると、白い「モスリン・ドレス」が流行し、これが最初の新古典らしいファッションとなる。1804年には長年ヨーロッパ女性たちの身体を拘束してきた「パニエとコール」が遂に放棄される。そして、新古典主義の女性たちはもっと柔らかいコルセットを付け始める。
 ナポレオンは実権を握ると、革命期に重視された「シンプルさ」を次第に忘れていき、やがて宮廷化していく。1815年に彼は失墜し、ここに王政復古が始まる。




(四)ロココと絵画

ロココのレディース・ファッションを絵画から見てみよう。
以下に掲載した代表的な画家は、上から下へ時代順になっている。

アントワーヌ・ヴァトー《ジェルサンの看板》
アントワーヌ・ヴァトー《ジェルサンの看板》

拡大
(ディテール)

ジャン=フランソワ・ド・トロワ《愛の宣言》
ジャン=フランソワ・ド・トロワ《愛の宣言》

名ティエ《ルイーズ・デ・フランス夫人》
ジャン=マール・ナティエ《ルイーズ・デ・フランス夫人》

Isabella de Bourbon-Parme  ジャン=マール・ナティエ
ジャン=マール・ナティエ《マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ》

Marie-Josephe of Saxony, Dauphine de Saxe by Jean-Marc Nattier
ジャン=マール・ナティエ《マリー=ジョゼフ・カロリーヌ・ド・サクス》

なてぃえ《ジョセフ・ニコラス夫人》
ジャン=マール・ナティエ《ジョセフ・ニコラス夫人》

ウィリアム・ホガース《フランス王女アデライド》
ウィリアム・ホガース《フランス王女アデライド》

ブーシェ《ベルジェール夫人の肖像》
ブーシェ《ベルジェール夫人の肖像》

ブーシェ《ポンパドゥール夫人》
ブーシェ《ポンパドゥール夫人》

ブーシェ ポンパ2
ブーシェ《ポンパドゥール夫人》

ブーシェ 《ポンパ》
ブーシェ《ポンパドゥール夫人》

ブーシェ ポンパ
ブーシェ《ポンパドゥール夫人》

ルブラン《アントワネット》
ルイーズ=エリザベト・ヴィジェ=ルブラン《アントワネット》

ルブラン アントワネット
ルイーズ=エリザベト・ヴィジェ=ルブラン《アントワネット》

ルブラン アントワネット 2
ルイーズ=エリザベト・ヴィジェ=ルブラン《アントワネット》

ルブラン《ペレゴー夫人》
ルイーズ=エリザベト・ヴィジェ=ルブラン《ペレゴー夫人》

レノルズ《ラヴィニア・スペンサー》
ジョシュア・レノルズ《ラヴィニア・スペンサー》

ロムニー《若い女性の肖像》
ジョージ・ロムニー《若い女性の肖像》

ロムニー《ハミルトン夫人》
ジョージ・ロムニー《エマ・ハミルトン夫人》

《エマ・ハミルトン夫人》ロムニー
ジョージ・ロムニー《エマ・ハミルトン夫人》

ダヴィッド《マダム・レカミエ》
ダヴィッド《マダム・レカミエ》
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