† ジャック・デリダ †

ジャック・デリダ『雄羊』

雄羊 (ちくま学芸文庫) 雄羊 (ちくま学芸文庫)
ジャック デリダ (2006/11)
筑摩書房

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ちくま学芸文庫
雄羊
[原書名:B´ELIERS〈Derrida, Jacques〉 ]
ISBN:9784480090201 (4480090207)
206p 15cm(A6)
筑摩書房 (2006-11-10出版)

デリダ,ジャック【著】〈Derrida,Jacques〉・林 好雄【訳】
[文庫 判] NDC分類:135.5 販売価:\1,050(税込) (本体価:\1,000)


2003年、ハイデルベルク大学におけるハンス=ゲオルク・ガダマー記念講演。
1981年、デリダと現代哲学の泰斗ガダマーの最初の出会いは、表面上不首尾に終ったように見えたが、実は本当の対話、もはや途切れることのない対話がそのとき始まったことを示す。
また、もう一人の友であるパウル・ツェランの『息の転回』所収の詩「雄羊」の読解を通じて、詩こそが「真の対話」であり、他者との「出会いの秘密」であることを明らかにする。
詩と哲学の本来の場における、デリダのエクリチュールの真骨頂。
デリダ生前最後の重要著作。
文庫オリジナル。



デリダ,ジャック[デリダ,ジャック][Derrida,Jacques]1930‐2004年。アルジェリア生まれ。エコール・ノルマル卒業。西洋形而上学のロゴス中心主義の脱構築を企てた哲学者

林好雄[ハヤシヨシオ]
1952年生まれ。東京大学仏文科卒業。駿河台大学教授






これは終末論に関する論考ではなく、「世界死」に相当する出来事の以後において尚、喪に服して生き延びることを考える倫理的な論文である。
テーマとして取り上げられているのは、ショアー論ともリンクして、アドルノ「アウシュヴィッツの後に抒情詩を書くことは野蛮である」に唯一、その文学的鋭意と深刻さが認められたドイツのユダヤ系詩人パウル・ツェランである。
ツェランの『息の転回』所収の「雄羊」についての詩論でもある。

デリダは、『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』においても述べていたが、「他者の死とは、世界の終焉である」と解釈している。
これは実は現象学的な発想でもあり、同時に極度に倫理学的な思想でもある。
他者の純粋意識が幕を下ろす点、その点は、彼/彼女の世界観が終焉に達する地点であり、「世界死」である。
世界が、他者の死の以後も継続される、のではなく、他者の死が、常に、そのたびごとに唯一の「世界死」なのだ。

したがって、大切な人を失って以後の世界は、常に、デリダが本書Ⅰ章で用いている表現を用いれば、「世界の終わりのあとの世界」である。

「というのも、そのたびに、そのたびに単独=特異に、そのたびにかけがえなしに、そのたびに無限に、死は、まさしく世界の終わりだからである。」(p20~21)



私は、デリダの「世界死」の概念に、強い、逆説的な希望を与えられる。
世界は、隣人の死と同時に、そのたびごとに、終焉に達するのだ。
世界は死ぬ、隣人の死と同時に、世界とは隣人のことである。

「死はそのたびに、そのたびに算術の挑戦に立ち向かって、ただ一つの同じ世界の絶対的な終わり、それぞれがただ一つの同じ世界として開始するものの絶対的な終わりを印づける。唯一無ニの世界の終わり、人間であろうがなかろうが、しかじかの唯一無ニの生者にとって世界の根源として存在する、あるいはそのようなものとして現われるもの全体の終わりを印づけるのである。
 そのとき、生き延びる者は、ただ独りで残されるのだ。他者の世界を越えて、生き延びる者は、同様にしていわば世界そのものを越えているか、あるいはその手前にいる。世界の外の世界、世界を奪われた世界の中にいるのだ。」(p21)



我々は、常に、「生き延びる」者である。
第二次世界大戦で、我々の祖父が、「生き延び」たのであり、彼が、やはり「生き延び」た祖母と出会い、やがて子を生み、その子が、病苦を患うことなく、「生き延びる」ことをし、やがて我々の母親と出会い、そして、我々が、今、こうして、生き延びているのだ。
世界死という巨大な墓地の上に築かれた、掛け替えのない平原で、我々、二十一世紀を生きている若者は、生きている、生き延びている、世界死を越えて、常に、喪に服しつつ・・・。

デリダのユダヤ性と、ツェランのユダヤ性が、呼応する。
それは端的に、以下の言葉で。

 
「Die Welt ist fort, ich muss dich tragen」
(世界は消え失せている、私はおまえを担わなければならない)
 



世界死=隣人死の以後において、喪に服しつつ、隣人を、担う、携える、そして、生き延びることをせよ。
これはデリダの極北化した「責任論」であり、究極の他者論でもある。
他者という冷たい術語は、正確かつ厳密に述べると、「他者即愛」であり、すなわち「隣人愛」なのである。
同じくユダヤ系のハンナ・アーレントの二十四歳の処女論考『アウグスティヌスの愛の概念』では、「愛」論の果てに、「隣人愛」が登場している。
哲学における、最高命題、至上の、唯一かつ最大の、普遍不屈の真理とは、まさに「」論であるが、この「」はクピディタス(地上的欲望)ではなく、カリタス(聖愛/天上的愛)である。
カリタスとは、イエズスにならえば、すなわち「自己犠牲」である。
ユダヤ性は、尖鋭化して倫理学化すると、レヴィナスも、アレントも、デリダも、共通して、この旧約聖書では強調されていなかった「隣人愛/愛敵=自己犠牲」を強調し始める。
これはまさしく、ポスト・ユダヤ教たるキリスト教に対する、現代的ユダヤ性の肯定であり、再吸収であり、代補である。

デリダは、ツェランの詩の一節、先に引用した、例の「雄羊」の最後の一文である「Die Welt ist fort, ich muss dich tragen」に、ある種の重力的な倫理的側面を読み取る。
重荷=責任(シャルジュ)と彼は述べている。

ドイツの哲学者、ハンス=ゲオルグ・ガダマーのテクストが、デリダの思考を導く。
詩人が詩を書くのではなく、「詩」が詩を書く・・・。
詩のイデアが、世界のエピタフを生み出す、落涙させる・・・。
詩が堕胎される瞬間も、詩が破水する瞬間も、詩が出産されるまさにその時も、その担い手、創造者は、人でなく、「詩」である。

小説について、考えていいだろうか?
ガダマー+デリダにならいて、全ての小説の産婆は、「小説」であると。
デリダは――この多言語を横断する魔術師――「世界は消え失せている(Die Welt ist fort)」の部分を、ドイツ語からフランス語に翻訳しようと試みた。
だが、巧くできない。
デリダは幾つもの訳文の候補を抽出する。

「世界は立ち去った」
「もはや世界はない」
「世界は遠くにある」
「世界は失われた」
「世界は見失われた」
「世界は視界の外にある」
「世界は行ってしまった」
「世界よアデュー(さようなら)」
「世界は死去した」etc...


だが、ツェランの原文は、「読解不可能」なのだ。
これをデリダは概念化し、優れた詩の一つの条件として設定する。

「詩は、その孤独の核心から、その直接的な読解不可能性を通して、つねに語る――自分自身で自分自身について――ことができる。」(p41)



作家以外に、読者がその作品を理解することはない。
それは、作家と読者の絶対的距離であり、穴埋め不可能である。
だが、何故、私はそれでも尚、今、こうして、デリダの邦訳を読むことを志向しているのか、何が彼の魅力なのか、何が、私にデリダを読むことを、させているのか、しかも、原文ではなく、「読解不可能性」に帰属された、訳文で。

「ich muss dich tragen」

(私はおまえを担わなければならない)


「ツェランが何を言おうとしたのか、世界の中で、あるいは彼の人生の中で日付けをつけられたどのような出来事について、彼は証言しているのか、彼は誰に対して詩をささげたり、送ったりしているのか、詩の全体の中で、私、彼、そしておまえとは誰か、さらには彼の書いたそれぞれの詩句の中で、いったい何が違っているのか、そうしたことを私たちが理解し、突きとめることができると仮定してみよう。ところがその場合でも、私たちは、この残余の痕跡を、つまり私たちにとって、私たちに対して、詩を読解可能であると同時に読解不可能なものにしているこの残余の残留=抵抗(restance)を汲み尽くすことはないだろう。そもそもこの「私たち」とは誰なのか。」(p51)



読みの痕跡、読解した以後におけるその残余、廃墟。
そこから何か新しい思考の可能性が開闢されることを願って。








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