† 貴族文化 †

不倫と経済資本の相関性についてーーヴァレリー・アノテル、マリー・ロール・ドゥ・レオタール『フランス上流階級のスタイル事典ーー私たち、ブルジョワ』

 Paul Laurenzi
ポール・ラウレンティ

 恋愛はその行為者の社会的地位とどのような関係にあるのだろうか?
 歴史家アンヌ・マルタン=フィジェの興味深い調査によれば、「不貞」への態度は彼女の夫の社会的地位によって異なっている。換言すれば、夫以外の男性と贅沢な不倫関係を結ぶためには、それだけの経済的ゆとりが前提なのである。このテーマについて、19世紀の作家J・P・ダルティーグの以下のテクストが示唆深い。

「女性が身を任させれば任せるほどに、男性の目には彼女の価値が薄れてゆく。彼女が愛情行為の限りを尽くして愛を上昇気流に乗せようと思えば思うほど、彼女への尊敬の念が男性から薄れてゆく。なぜならば、男性はその女性が冷たくすればするほど、彼女により愛着を感じることがよくあるからだ。あらゆる事柄において稀少性が徳の価値を作り上げるのと同様に、恋愛もその喪失と犠牲によってますます研ぎ澄まされる。プチ・ブルジョワの妻がもう一つ別の役割を演じるのを受け入れ、そうすることで家庭の支出を節約するためには、メンタリティの研究をする必要があったのである」(p265)


 夫婦円満に過ごすためには、往々にして我々には「愛人」が必要である。これは本書の著者のみならず、例えば日本でも幅広い女性層から支持を受けている江國香織の『スイートリトルライズ』などでもテーマにされている。本書での恋愛論で登場する地方のブルジョワ女性ジスレーヌの体験談を紹介する。

「彼女のご主人が出張に出かけるとすぐ、私は一目散に出かけていきます。彼女も子供を自分の母親に預けて、私たちは毎晩出かけるんです。狂ったように、楽しむの。“エキゾチックな”ナイトクラブに踊りに行って、ハントして……何でもしてしまうの。ある夜、素晴らしい体格のイカしたブラジル人シンガーと出会ったわ。その晩、いっしょに過ごしました。情熱的でした。彼は私の隠れた部分を引き出してくれた気がしたわ。三日三晩、離れずにいました。お互い相手にのぼせ上がっていて、私の"休暇許可”が金曜の朝で終了したとき、彼は私を放したがらなかったんです。根負けした私は、私を危険に巻き込まないよう誓わせて、彼に家の電話番号を渡しました。そして私は帰宅しました。少し疲れていたけれど、素晴らしい気分。月曜日、愁いに沈むハンサムボーイが電話をしてきて、もう私なしでは生きられない。今、駅に着いたから、これから迎えに行く、と媚びた声でいわれた時は冷や汗が出ました。そこから動かないようにと彼に言って、私は駅にかけつけ、いっしょにいるのを見られはしないかと怯えながら、彼をパリ行きの列車に乗せたんです。あの男は狂っていたわ。……短いほど、アヴァンチュールは最高よ。最近では、誰に対しても偽名と嘘の電話番号を教えるようにしているわ」(p267)


 この短い告白には、恋愛小説で盛り上がる劇的な場面が凝集している。クラブで出会ったハンサムな男とのアヴァンチュール、離れられなくなった(懐いてしまった)男が駅まで会いに来ているが、不安げにパリへ送り返す……ここには「不安」もあるし、同時に官能の余韻が、そして終わるひとつの愛への郷愁が感じられる。アントニオーニのシリアスな映画のワンシーンを髣髴とさせるようだ。
 この女性ジスレーヌは、以下のようにも告白している。「ちょっと気晴らしが必要なだけ、それにアラン(夫)も気付かないうちに、それを利用しているの。私はいつも熱意をこめて“許して”もらうの。もし私が浮気をしなくなったら、私たち夫婦がセックスをしなくなるのは確かだわ」ーー我々はこの告白に、やはり内心では同意するところがあるのではないだろうか。実際、男性は付き合っている彼女、あるいは結婚した妻以外の女性と非常に深い関係にある時に限って、妻の女性としての魅力を感じているものである。男性は妻、彼女以外の女性と付き合うことによって、いわば二人の女性を相対化する。これと同様のことが、おそらくジスレーヌにも起こっているのではないだろうか。つまり、彼女は夫を愛しているという「土台」があって、そこから尚かつ「冒険」をしているのである。この「冒険」が、パラドキシカルなことだが「土台」に潤いと与えるのだ。ただし、冒険には危険が付き物で、わずかの落ち度が「土台」を揺るがすことになることも知っておかねばならない。ジスレーヌの体験談は、こうした教訓を我々に見事に伝えている点で重要である。

 Paul Laurenzi2
ポール・ラウレンティ

 本書の調査によれば、フランスでは結婚後の女性の七割が「不貞」を働いていたことがあるという。ジスレーヌと共に興味深いドラマ性を帯びて我々に迫ってくるのが、カトリックのボン・シックの女性エレーヌ(四十代)の体験談だ。

「ねえ、あなたの顔色、とても生き生きしてるわよ」
「私もあなたに同じこと、言おうとしてたのよ」
 エレーヌが吹き出します。
「じゃ私は? 私はどうかしら?」
「特別元気そうよ」(皮肉まじりの微笑)。
「私、愛人がいるの」
 エレーヌが淡々と語ります。
「え、何、あなたに愛人ですって?」
 アンヌとマリ・シルヴィは信じられません。エレーヌは三人の中でも最も真面目なカトリック教徒なのですから。
「ご主人、知っているの?」
「ばかね、もちろん知るわけないでしょ」
 アンヌは心から賛同します。
「あなたは正しいわ。死刑台まで否定しなくてはね」
 エレーヌとマリ・シルヴィは、即財に疑いを持って彼女を見つめました。
「あなたもそうとは、まさか言わないでしょうね?」
 アンヌは大笑いで、「私、困ってしまうわ」と。
 物思いに耽っていたマリ・シルヴィが「信じられない」と言いました。
「私一人だけがそうだと思っていたのに」(p270)



 ここで大切なのは、女性にとって「愛人を持つこと」は何歳になっても、いつまでも楽しい「秘密の幸せ」であるという真理である。「危険性」と「秘密」、この二つの要素が、単なる相思相愛に過ぎない夫婦関係により潤いをもたらすことになる。エレーヌがカトリックであることに、我々はさほど驚くべきではないだろう。なにせ、フランスはカトリック国であり、ボン・シックの女性の多くはカトリックの名門女子校の卒業生である。既に述べたように、「夫(付き合って長い彼氏)がいること」は前提なのだ。それが最初の出発点である。そこから「愛人」を作れるかに至るまでには、冒頭で述べられていたように夫婦の「経済資本」の高さが相関するのである。
 私が本書の恋愛論で最も存在論的な「不安」を感じたのは、インテリア業界で働く四十代の女性イネスのケースである。

「二年前、私には愛人がいました。既婚者、ですから確かな相手だったんです。彼は私の好みでした。何よりも、色っぽいデートをするのは楽しいことでした。数ヶ月間、週に二回会っていました。完全なおしのびデートでした。私たち、とても気が合ったのよ。でも、彼なしでは生きられないと感じ始めたときに、やめにした方がいいと思いました。危険になっていたのです。それが、彼の気に障ったのでしょう。私の家に彼は時間にかまわず電話をかけてきて、私に仕返しをしました。幸いにも、電話に出るのはいつも私です。彼と女友達のように話をしました。その後、彼があまりに私をいらいらさせるので、しまいには番号違いですと彼に答えるようになりました。夫が感づくのではないかと心配でした。匿名電話あるいは電話魔に悩まされていることを夫に話し、電話番号を変えました。それが恋物語の終わりです。それにしても、なんて怖かったことでしょう」(p272)


 ひどく抽象的だが、私にはこれがハイデッガーが展開した基礎存在論における現存在の実存様態としての「不安」を象徴したテクストにも感じられる。このケースでは、彼が具体的にどんな復讐をしたのかは語られていないし、彼女にもそれを話すつもりはなかったのだろう。最初は気の合う「愛人」関係に始まり、秘密裡に逢瀬を重ね、そして最終的には関係に亀裂が入って「恐怖」で終わるーーいかにも映画的で“月並みな”印象さえするが、ここに私は何か奥深い人間社会の本質のようなものを感じるのである。我々は聖書や哲学書を読んで「真理」を理解したつもりになっているが、実際のところ、私にはこの平凡であるが明らかに悲哀と刺激と冒険に満ちたエピソードに、そして残り香として漂う独特なメランコリアにこそ、現存在の本質の開示を見出す。
 本書によれば、現代のブルジョワ女性には「チャタレイ・シンドローム」(ロレンスの小説のヒロイン的な物語への憧憬)が、それもどこかで“堕落してみたい”という意志が存在するという。彼女たちは文化資本、経済資本が高いゆえに、むしろそれらが低い肉体労働者の庶民階級(がっしりしてハンサムな若い男)をお気に入りにする傾向がある。
 この章の最後にはフレデリック・ドゥ・Hという37歳のブルジョワ男性が登場する。彼の父親は貴族階級で、母親はブルジョワ階級であるようだ。彼はカサノヴァで、これまでに多くの女性たちを口説き、関係を持ってきた。我々が彼の余裕たっぷりの告白から分析できるのは、ブルジョワ女性はやはり「de」が付いた苗字に弱いという事実である。このプレイボーイはまた、基本的に相手の女性には多大な敬意を払い、“身を屈める”作法を知っている。発言からして、文化資本も経済資本もさほど高いようには思えないのだが、女性に対する礼儀作法を知っているという点と、貴族としての一般的な証明書を名前に刻んでいるということは、一定の女性たちから評価の対象になるようだ。
 いずれにしても、人間が味わうヴァカンスの中で、「愛人」と過ごす時間ほど贅沢なものはないという点でブルジョワ女性たちは共通しているようだ。彼女たちはそれを求め、手に入れ、快楽と悲哀を与えられる。そこには現存在の本質が滲み出ている気がしてならない。





私たち、ブルジョワ―フランス上流階級のスタイル事典 (光文社文庫)私たち、ブルジョワ―フランス上流階級のスタイル事典 (光文社文庫)
(1999/11)
ヴァレリー アノテル、マリー・ロール ドゥ・レオタール 他

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