† 文学 †

Collected Poems of W. B. Yeats(2)TOWARDS BREAK OF DAY 「夜明けに」


The Collected Poems of W.b. Yeats (Wordsworth Poetry Library)The Collected Poems of W.b. Yeats (Wordsworth Poetry Library)
(1994/11)
W. B. Yeats

商品詳細を見る


TOWARDS BREAK OF DAY


Was it the double of my dream
The woman that by me lay
Dreamed, or did we halve a dream
Under the first cold gleam of day?

I thought: 'There is a waterfall
Upon Ben Bulben side
That all my childhood counted dear;
Were I to travel far and wide
I could not find a thing so dear.'
My memories had magnified
So many times childish delight.

I would have touched it like a child
But knew my finger could but have touched
Cold stone and water. I grew wild.
Even accusing Heaven because
It had set down among its laws:
Nothing that we love over-much
Is ponderable to our touch.

I dreamed towards break of day,
The cold blown spray in my nostril.
But she that beside me lay
Had watched in bitterer sleep
The marvellous stag of Arthur,
That lofty white stag, leap
From mountain steep to steep.

W. B. Yeats


「夜明けに」

私のそばで寝ていた女が見た夢は
私の夢と生き写しだったのか 
それとも冷たい曙光の下で
我らは一つの夢を二つに分け合ったのか

私は思った ブルベン山の斜面には
少年時代からずっと敬愛している滝が存在するが
遠く広く旅をしようとも
あれ程貴重なものは見つけられないだろう
記憶の中では子供の頃の歓喜の念が
幾重にもなって膨らんでいた

子供のように滝に触れてみたかったが
指が触れうるのはたかだか冷たい石塊と水であると知っていた 
私は取り乱した
我らが愛し過ぎるものは
触感ではその価値を計れないと
天の法は定めているからだ

私は夜明け前に
冷えた飛沫が鼻孔に吹きつける夢を見た
だが私の横で横たわった女は
苦しい眠りの最中で
アーサー王の驚嘆すべき雄鹿を目にした
かの威厳に満ちた雄鹿が
険しい山の斜面を飛び跳ねる様を




「注釈」

訳しながら気付いたのが、この詩には一つの謎がある。
「私」は女の横で不思議な夢を見ている。それは大自然の崇高な光景の中に自分が佇んでいるものなのだが、原文の“There is a waterfall/Upon Ben Bulben side /That all my childhood counted dear“のwaterfallには「落水、滝」の他に「ウォーターフォール(女性の流れるような髪の毛)という意味も存在する。
これを看取すると、「私」はおそらく眠っている隣の女性の長い束ねていない髪の毛を、夢うつつに見つめながら、少しずつ「ブルベン山」の幻想世界にまで足を踏み込んでいったと想定することもできる。事実、「私」はこの髪の毛=滝に、“So many times childish delight”とまで表現している。これは単なる大自然への崇敬の感覚以上に、delight(歓喜、喜悦、大喜び)が強調されている点からも意味深長な箇所ではないだろうか。
Even accusing Heaven because /It had set down among its laws:/Nothing that we love over-much /Is ponderable to our touch.この箇所は、以下のようにも直訳可能である。「天国はその掟によってこのように定めているからだ/人間が愛し過ぎるものが/触ることによって判るようにはさせない、と」。これは懐疑者トマスと復活したイエスのエピソードを髣髴とさせる場面でもある。「触る」こと、すなわち感官の刺激に依存することでしか判らないようなものは、天が定める人間の「愛するもの」ではない、と。



関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next