† 美学 †

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージの前で: 美術史の目的への問い』第一章「単なる実践の限界内における美術史」について


イメージの前で: 美術史の目的への問い (叢書・ウニベルシタス)イメージの前で: 美術史の目的への問い (叢書・ウニベルシタス)
(2012/02/29)
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン

商品詳細を見る


第一章「単なる実践の限界内における美術史」について

 ユベルマンはフラ・アンジェリコの《受胎告知》について、「オリジナルのテクストを探すまでもない、キリスト教的西洋の共通知識である物語」と表現している。この絵のマリアと天使の「あいだ」には何が存在しているのだろうか? そこには「白い面」があるだけである。それはvisuel(視覚的なもの)としての「白い面」であり、マリアがイエスを身籠ることになる瞬間における、天使とマリアの背景である。この「白い面」には、一体どんな霊的な出来事が働いていたのだろうか?
 まず、このような「問い」の設定自体が極めて特異である。ユベルマンの問いとは、「この白の視覚的な出来事とは何であるか?」というものだ。「白い面」は何かのsymptôme(徴候)なのだろうか。少なくとも一つ言えることは、神のロゴスがマリアの胎内に具現化(受肉)する「物質としての宿り」が、「光のように強烈な白」で表現されているということである。では、何故そもそもユベルマンは一見誰もが見落とすような、さり気ないこうした背景の「白い面」に注目しているのだろうか?

Fra_Angelico_049.jpg
フラ・アンジェリコ《受胎告知》

 美術史の従来の方法論的な基礎は、鑑賞をvisible(見えるもの)とlisible(読めるもの)に限定するというものである。これが「芸術の終焉」の根本原因であり、この二つの概念の「交換の歴史」として美術史は構成されてきた。「芸術は終焉を迎えており、全てが〈見えるもの〉である」。「見ることが可能なものは、全て見られてしまった」ーーそれは閉じられたシステムである。ユベルマンは閉鎖的な従来の美術史概念に、invisible(見えないもの)という観点を導入する。

「つまり、〈見えるもの〉や〈読めるもの〉がフラ・アンジェリコの強みでなかったとしたら、それはまさに〈見えないもの〉や〈語りえぬもの〉を彼が得意としていたからである。彼の受胎告知図において、天使と聖処女の間には何も存在しないとすれば、それは何もないが、〈語りえぬもの〉や〈形象化不可能な神の声〉を証言していたからであり、その声に、聖処女と同様にアンジェリコは完全に従属しなければならなかったのである……」(p22)


 ユベルマンのこの視点は非常に刺激的だ。絵画の中で〈見えるもの〉を「読む」のではなく、〈見えないもの〉、〈語り得ないもの〉を「読む」こと。
 ユベルマンは、ヘーゲルが『美学講義』や『精神現象学』で提起した「芸術の死」の概念を非常に重く受け止めている。美術史では、この概念の後にマレーヴィチ《白地の上の白い正方形》、ロトチェンコ《最後の絵画》、デュシャン《レディ・メイド》、アメリカの「バッド・ペインティング」や「ポストモダン芸術」が生まれてきたと解釈されている。絵画を「イデア」に原型を持つ自己運動としての「見えるもの」に帰属させたのは、ヴァザーリであった。彼は美術史を「イデアの自己運動」と規定していたのである。
 美術史は体系的に構成されてきた。ユベルマンは「カント・シンドローム」から脱却せねばならず、「非−知」の思考へ向かわねばならないと考えている。その上で、対象になったアンジェリコの「白い面」は、「語り得ぬもの」であり、「形象化不可能な神の声」の証言であると規定される。彼の見方として際立っているのは、「絵には存在していない画面外から、作品全体の観念的彼岸にいたる〈見えないもの〉の領域に身を置くこと」である。
 ユベルマンはいわば、新しい「美術の見方」を提唱しているのだ。描かれたものによる説明過程ではなく、「イメージによって捉えられる弁証法的段階」こそが、絵画を読み解く上で重要になってくる。すなわち、絵の中を説明する必要は最早ないのである。換言すれば、21世紀の新しい絵画に対するアプローチとは、「イメージに対する自分の知を失うに任せる弁証法的段階」に入ることである。
 このような考えにより、彼はただ「白い面」が存在しているという素朴な事実性について考察する。この真っ白な神聖なる場に、ユベルマンは以下のような「声」を与えて神秘的なイメージを賦与している。そこには彼自身の個人的な体験もイメージ組成において寄与しているのかもしれない。「わたしは汝が住まう場ーー僧房そのものーーであり、わたしは汝を包む場である。こうして汝は、受胎告知の神秘を想像する以上に、その神秘に立ち会うのだ」。
 だが、我々は彼に以下のような批判を展開することも可能であろう。ユベルマンは確かに「語り得ぬもの」や「見えないもの」から絵画を読み解こうとしているわけだが、「白い面」は「見えるもの」であるに過ぎない。そして、実はユベルマンがこうした一見見落としたがちな「白い面」を語ろうとする動機にあるのは、聖トマス・アクィナスやアルベルトゥス・マグヌスを引用しながらscientia Dei(神の智慧)について語る行為ーーすなわち一枚の絵画を読解する上で、「神学」の文脈を用いることーーに由来しているからではないのだろうか。実際、彼は恭しくルカによる福音一章三十一節を引用しているーー「見よ、汝は母胎に身籠り、男の子を生み、その子をイエスという名で呼ぶだろう」。つまり、ユベルマンにとって「対象」は何でも良いのであり、本質としての「キリスト教信仰」を、ごく些細な絵画的ディテールから「呼び覚ます」ことこそが本意だったのである。その場合、ユベルマンは本当に「見えないもの」に向かっているといえるのだろうか? この視座は、単に絵画鑑賞の方法の一つに「神学」というテリトリーを再導入しているに過ぎないのではないだろうか。
 ユベルマンは明らかに「受肉」を、アンジェリコの「白い面」から敷衍して思考しようとしている。では、バーネット・ニューマンのような抽象絵画の場合、「形象の外」は一体何になるのだろうか? ユベルマンが注目している具体的な「物体」(天使、マリア)は具象的であるが、ニューマンの絵画は一面が抽象化されている。その「形象の外」には、何があるのだろうか?
 もう一度、ここでユベルマンの趣旨を引用しておこう。

「美術史は〈見えるもの〉の専制に身を委ねている限り、イメージの視覚的効力を理解し損ねるだろう。美術史は歴史であり、過去を理解しようと努めているのだから、次のような長きにわたる逆転をーー少なくともキリスト教芸術に関してはーー考慮しなければならない。つまり、要求以前に欲望が存在し、スクリーン以前に開放が存在し、位置づけ以前にイメージの場が存在したのである。可視的な芸術作品以前に、可視的世界の「開放」に対する要請が存在し、この開放は、形態ばかりでなく、視覚的で、行為化され、書かれ、あるいは歌われた狂乱もまた差し出していたのだ。図像学的な鍵ばかりでなく、神秘の徴候や痕跡もまた示していたのだ。さて、キリスト教芸術が欲望、つまり未来であった時点と、芸術が過去形で語られることを前提とした知の決定的勝利の間で、いったい何が起こったのだろうか」(p81)


 この章の段階では、まだ彼のいう「イメージ」の概念が明確化されていない。リフレインのように「見えるもの」から「見えないもの」へ視座を転換すべきだという主張が反復されるが、ユベルマンが個人的な体験をイメージと合わせてアンジェリコの絵に託しているというわけでもない。むしろ、彼は神学的な文脈を導入して、アンジェリコを正統的に解釈し直しているに過ぎないのではないだろうか。


関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next