† 建築学 †

アドルフ・ロースの邸宅シリーズにおける「子宮羨望」――田中純『建築のエロティシズム』読解



 19世紀後半から20世紀初頭のウィーンは、新古典主義に見られた各種のリバイバリズムから世紀末に花咲いたアール・ヌーヴォー様式といった一連の動きが、やがて「装飾」そのものに批判的になっていく「近代建築」へとシフトしていく点で極めて重要である。オットー・ヴァーグナーの『近代建築』が刊行されたのは1895年だが、彼は《郵便貯金局》に見られるようにまだ「機能」と「装飾」の双方を重視していた。しかし、アドロフ・ロースの登場によって「装飾」熱は遂に終わりを遂げることになる。その決定的な作品が、当時センセーションを巻き起こした名高い《ミヒャエル広場》(1909-11)である。ここは通称「ロース・ハウス」とも呼ばれ、「無装飾性」を志向した最初期の建築として重要である。
 しかし、ロースは果たして本当に「装飾」を棄却し得たのであろうか? 彼にはヴァーグナーのように、やはりどこかに「装飾」への欲望も反動的に働いていたのではないか――この素朴な問いかけに表象文化論から急迫した良書として、田中純氏の『建築のエロティシズム』を挙げねばならない。彼はこの本の中で、ロースの建築の少なくとも「外面」には、彼も志向していたダンディでミニマル、かつ無表情ですらある性格が顕現しているという。しかし、それはあくまでも「外面」である。問題はロースの「内面」なのだ。

ヴィラ・カルマ 二階シャワールーム
アドルフ・ロース《ヴィラ・カルマ》二階シャワールーム

 興味深いことに、初期ロースには《ヴィラ・カルマ》(1904-6)という極めてエロティックな「性の館」が存在する。ここはウィーン大学教授でロースの友人テオドール・ベーアの屋敷であるが、この人物はどうやら性的に問題のある人物だったようだ。詳しいことははっきり記されていないが、田中氏はこの屋敷に明らかに「装飾」を徹底的に批判したロースにあるまじき別の性格の発露を見出している。そして、それは不可避的に「エロティシズム」という性格を持っていたのである。田中氏の表現によれば、ロースの建築の外面は紳士的で無装飾性を帯びているが、内面は奇妙にも「子宮的な空間」で、なおかつ「迷宮的」であるという。特にこの傾向が著しいのがロースの邸宅シリーズにおいてで、それも建物の外面の写真からでは判らないような、実際に中に侵入した者だけが感じられる独特な「女性性」が漂っているというのだ。装飾を批判し、ウィトルウィウスがオーダーにジェンダーを与えた枠組みをここで用いれば、いわば「男性性」を重視していたロースにしては実に奇妙な分裂という他ない。田中氏はまさにこの「外面=男性性」と「内面=女性性」の分裂に注目している。

ミュラー邸 婦人室
アドルフ・ロース《ミュラー邸》婦人室

 男女の図式をここで換言すると、「見られる建築」としてロースは男性性を主張しているといえる。しかし、「住まわれる建築」において彼は巧妙に女性化しているのだ。この密かな「女性化」――外と内の差異・分裂こそ、ロースが表象文化論にとって極めてラディカルな証左にもなっている。ロースの「分裂」が問題になっているのは、彼が「被覆の原理」について考察していたからだ。ロースは「建築写真嫌い」として有名であるが、その理由はまさに建築の「被覆=外面」としての写真が、建築それ自体のイメージを捏造し、覆い隠してしまうことを危険視したためである。しかし、田中氏の分析によれば、ロースの建築では「外」と「内」は奇妙にも親密に混ざり合っているというのである。
 田中氏はここで、エイドリアン・フォーティーの『言葉と建築』でも基本的骨格として浮き彫りになっている「言語」と「建築」のアナロジーを思考の対象にしている。その証左が、彼のソシュールとロースのテクストの並列的な読解である。田中氏によれば、ソシュールは『一般言語学講義』において、以下の点で極めてロース的な考え方を展開していた。

「言語学的な対象は、文字言語と音声言語を組み合わせたものによって定義されるわけではない。後者がそれだけで対象をなす。しかし、文字言語は音声言語にあまりにも親密に混ざり合っている。それはこれのイメージとして、ついには主役を奪う。そのため、発声記号そのものよりは、その表象の方へ、同等かつそれ以上の重要度が与えられるにいたる。あたかも、ある人を知るのに、その人の素顔を見るより写真を見る方が良いと思い込むようなものである」(*1)


 田中氏のこのソシュールとの結合は極めて見事なので、もう一度ロースの思考を振り返っておこう。彼は装飾を批判し、無機質で無装飾な建築こそが重要であると主張した。しかし、ロースの邸宅シリーズの内面構造はむしろ子宮的であり、構造的に複雑化された女性の「身体」そのものを感じさせる。ここには「分裂」がある。この分裂の図式と同様の問題がソシュールの分析した「音声言語」と「文字言語」からも見出せると、田中氏は述べているのである。ここでいう「音声言語」、すなわち「声」は人間存在そのものの内面的な「声」を直接的に表示するものとして解釈されている。これに対して「文字言語」はその「声」の「装飾」であるに過ぎない。そして、ロースは「装飾」を批判している。しかし、ソシュールはパロールが遂にはエクリチュールの支配下に置かれるというラングの原理そのものについて言及していたのである。すなわち、ロース的な「分裂」――換言すれば「初期近代建築そのものの分裂症」とは、言語学的なパロールとエクリチュールの「乖離」、「入れ子の反転」にこそ核心があるといえるのである。
 とても重要な箇所なので、繰り返しておかねばならない。ロースにおける建築の「外面・内面」の分裂は、パロールとエクリチュールの一致しえない構造そのものの「アナロジー」として把捉することが可能なのである。この点で、ロースの邸宅の内面が「女性的子宮」を感じさせるという田中氏の見解は非常に印象的である。何故なら、「声」にこそ宿るとされた「魂」のラテン語は周知のようにanimaであるが、これは「女性名詞」でもある。我々は何か想念を抱き、それを「文字」にする。しかし、その「文字」は想念に忠実ではなく、プラトンが述べたようにむしろ「影」の如きものに過ぎない。この「影」が、西洋思想史においては「書かれたものの優越」を生み出すのである。ここには元々「外」にあったものが「内」となり、「内」が今度は前景化するという、現象学的な「衣服」、「裸体」のテマティスムとも相関する思考が働いている。
 このような「文字」(外部)と「声」(内部)を、「男性性」(外面)と「女性性」(内面)に対応させる図式は、やはり着衣と裸体の問題について考究したジョルジョ・アガンベンの『裸性』とも通底している。これだから、表象文化論は常に刺激的だと言いたくなるような世界だといえるのではないだろうか。田中氏は以下のようにまとめている。

「こうした点で、空間を見る(認識する)こととそれを生きること、書くことと話すこととの差異の顕在化と極大化は、ロースにとって、建築と言語の両分野それぞれの方法として徹底化された、首尾一貫した原理だったといえるだろう」(*2)


 では、何故ロースは密かに「女性性」を吸収していたのだろうか? 田中氏によれば、彼は実は子宮羨望を持っており、建築家としても常に建築の外面から内部へ、その内部の中でも最も深いところへ、その先の更に深奥の果てへ……という飽くなき「内部への欲望」に取り憑かれていたとしている。

「ロースはけして眼には見えない究極の〈内部〉という〈住まい〉への欲望に憑かれていた。そこは少女ルー(ニーチェが片想いしていたルー・アンドレアス・ザロメ嬢を指す)がユングフラウ山の内部に空想したボタンの隠し場所、無数の赤子を孕んだ子宮である。ロースを突き動かしていたのはいわば、女性のペニス羨望と対をなす、男性の子宮羨望のようなものだったのかもしれない。…不可視の内部とは彼にとって、子宮が赤子を宿すように未知の他者によっていつか満たされること待つ、かけがえがなく、外面化しえない、秘密の空間なのである」(*3)


 表象について考察する者は、常にその「奥」にある本質と対峙することになる。裸体を研究する人間にとって、実は最も刺激的な場所とは「衣服」なのだ。衣服の研究者にとって「裸体」が神聖な素材であるのと同様に。田中氏も表象文化論の一つの定式として、「外部を伴わない内部は存在しない」と述べている。谷川渥に学んだ前衛的な作家諏訪哲史ならば、「世界の果てとは僕の背中である」というだろう。ここにも同様の思考――すなわち「最も遠いもの」の本質が「最も近いもの」によって開示されるという「思考のフレーム」が共通して見出せる。





建築のエロティシズム―世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命 (平凡社新書)建築のエロティシズム―世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命 (平凡社新書)
(2011/10/17)
田中 純

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「註」

*1)田中純『建築のエロティシズム』p127
*2)p132
*3)p134


 









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