† 文学 †

中村文則と入澤康夫における「世界の果て」の表現について


最後の命 (講談社文庫)最後の命 (講談社文庫)
(2010/07/15)
中村 文則

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 中村文則の『最後の命』は芥川賞受賞後に書かれた最初の長編で、著者が29歳か30歳の頃に刊行されている。形式は一人称の内的独白であり、テーマを美的範疇論にあえて還元していえば、「醜(グロテスク)」と「悲愴」において特化している。その場合、「崇高」をいかに描くかが質的なレベルで重要になってくるが、本書にはこの要素がない。私が読み終わって感じた不満足感の正体は、おそらくこの「崇高の不在」にあると思われる。本書で言及されている人物として、サルトル、チェーホフ、ソニー・クラーク、バド・パウエル、コルトレーン、タルコフスキーの『ノスタルジア』などが存在するが、これらは全て設定上の記号であって、内容的な強制力は持っていない。印象的なテクストがあったので、幾つか引用してみよう。

「ベッドから起き上がり、エリコが開けたままにしていたドアを閉め、手を洗い、椅子に座って机に向かった。それまでの動作に、私はなぜか意識的にゆっくり時間をかけていた。サルトルの論文『L'existentialisme est un humanisme』を、日本語に翻訳しようとしていた。仕事でもなく、どこかの出版社に持ち込むつもりもないこの作業を、私はもう一月続けていた。フランス語が得意ですらなく、熱中しているわけでもなかったが、この作業を黙々と続けていた」(p10)


 舞台はS街という架空の街である。女が部屋で死んでいる状況に、主人公は「気持ちが鎮まる」のを感じる。あるいは、「相応しい場所に収まっている」感覚。雰囲気としては、カフカの『審判』を中村的に再構成したスタイルも感じられる。重苦しい場面として、ホームレスたちによる輪姦(過去の挿話)が描かれるが、これは「グロテスク」に相当する。何か作者の中で大きな抑圧が働いているような文体で、直視し難い場面をあくまでも綿密に描こうとしている。この現場を見てしまった体験は主人公のトラウマになるが、時を隔てて同じ場所(工場跡地だった)に訪れると、そこはすっかり様変わりしている。

「開けてきた風景に、私は驚いた。工場の跡地が、ないのだった。そこは、真新しい道路になっていた。道路は私達の秘密基地のある林の丘を迂回するように、遠くへ延びていた。冴木は、この風景を見ただろうかと考えた。当時の自分たちが予想した通り、この跡地が、整理されているのだった。ここには、もうあの残骸の形跡はなかった。暴力の跡も、憎しみも苦痛もなかった。やっちりの事件はこの土地から冷酷に消え、それぞれの人間の中に、深く残ることになったのだと思った」(p179)


 中村文則の幾つかの小説を、「空間」に注目して読解することもできるだろう。少年期に親友と二人で作った「秘密基地」は、いわば子供の頃の「聖域」である。それは青木淳の「原っぱ」や、ケヴィン・リンチの「廃棄の場」の概念と相関する。いわば工場跡地に彼らは自分の「居場所」を見出していたわけだ。本来ならば、そこは学校や家庭からの逃げ場・遊び場となるはずであった。けれども、少年たちがその場所で凄惨な出来事を目の当たりにしてしまったことで、聖域の「意味」が変質する。いわばそこは穢れの場であり、おぞましい戦慄を伴う悪夢の場に変わってしまったのだ。
 大人になってもう一度そこを訪れた主人公の前には、意外な光景が広がっている。「真新しい道路」――つまり、かつての「工場跡地」は、S街という都市の発展とともに吞み込まれ、掻き消されたわけだ。そこは「道路」でありながら、彼の「個人的記憶」を痕跡化させた場である。換言すれば、そこは「道路」であると同時に、時間的な地層の厚みとして「秘密基地」を刻印している(空間のパリンプセスト)。ここにおいて、「道路」に象徴される「都市」は、負の記憶もろとも場を作り替える、巨大な「浄化機構」としての意味を帯びて我々の前に現前する。
 しかし、本書はテーマとして「暴力」、「セックス」といった直接的で生々しい描写が目立っている。人間描写も、どこか「作られた」作為的なものを残している。先述した箇所で見受けられるような、建物の描写にネガティブな心理を転化するとか(その場合、本書の個性からして「廃墟」という場が重要になってくる)、もう少し生々しい場面を奥行きのある「襞」の文体によって婉曲的に表現する方法もあったはずだろう。


世界の果て世界の果て
(2009/05)
中村 文則

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 表題作「世界の果て」も、おそらく著者が28歳から29歳の頃に『文學界』に掲載された作品である。主人公は画家志望の男で、極貧生活を送っている。ある日、突然部屋で犬が死んでいたので、死体を捨てに行くところから物語は始まる。文体は簡潔で、一段落の長さは個人的に評価できる。一文ごとに見るとどれも基本的に短く、おそらく異言語には翻訳し易いだろう。深夜の街を徘徊する主人公の軌跡それ自体が、「夜の空間」の質そのものを開示している。

「狭い六畳の部屋では、その犬は目立ちすぎていた。テーブルの下ではなく、部屋の中央で無造作に、身を投げ出すように横たわっている。土色の毛並みの、耳の垂れた、やたらと大きな犬だ。毛のない白い腹は、その柔らかさを主張するように剥き出しになり、うっすらと、血のような赤味がさしている。知識がないために、種類まではわからない。ピンク色の歯茎が、泡となった涎で濡れていた。絨毯を汚しているかもしれない、と僕は思った。そうなればタオルで拭かなければならないし、絨毯ごと取り替えるなら、家具を全てどかさなければならない。目は、僕を見ているようだった。死体であるのに、その視線には力があった。黒い瞳の奥に、澱んだ茶色の渦が見える。しばらくその瞳を見続けたが、瞬きを必要とする僕の視線は、犬のそれよりも力がなかった」(p126〜7)


 このメランコリックでありつつ、作品全体の雰囲気においては常に統一的な洗練さを誇る文体は、私にはアントニオ・ロペス=ガルシアのあの乾き切った室内画を思い起こさせる。たとえ主人公にとっては見慣れた場所であっても、「物」たちは丁寧に描写されている。彼が深夜の街路を、得体の知れない不安と共に彷徨う経験――そこには、現代の都市空間の一端が湧出していると考えて良いだろう。台詞は依然、カフカ的に「異化」されている。「犬の死体を捨てる」というのは実は形式に過ぎず、実質的に作者は彼に夜の街路を「徘徊」させている。その場合、我々は作者が「夜の空間」について描写することを目的にしていたと解釈することもできるだろう。「徘徊」の結果、彼はいつの間にかホームレスになる。ここにおいて、主人公には初めから明確な目的などなかったということが判るのであり、「犬の死体」の意味が完全に空虚な記号と化す。
 世界の中心はどこにあるのだろうか? それは無限に広がりを見せる虚無的な児童公園で見た、鴉の大群が空に描く「暗黒」である。

「私は、その奥にあるものに、微かに触れた気がした。生命をブツブツと弾くように消し、無造作に生みながらさらに殺し、あらゆる意味や価値を霧のように吞み込んで砕く、この世界の中心にあるような、巨大で、圧倒的な暗黒のように思えた。身体に力を入れ、足を動かした。私は、何もかも捨てたいと思った。恐怖と昂揚が入り混ざる感情の渦の中で、そう考えていた。自分の生活も、絵に対する想いも、その密かなプライドも、もういらなかった。私は一つの純粋な存在となって、あの亀裂の中に、入りたいと思った。この残酷さと鋭さに見合うだけの、全てのものを捨てようと思った。記憶も、この世界とのあらゆる関わりも、何もいらなかった。私は一つの存在として、一つのもののように、この巨大な亀裂の中に入っていくのだと思った」(p160)


 詩的な場面である。「世界の果て」という作品における、その表現の持つ意味はここにおいて開示されている。鴉の作り出す直線、その巨大な亀裂――いわばそこはこの虚無的な世界と、「虚無そのもの」(存在)との「裂け目」である。あるまだ若い作家が、不安に憑かれた男の姿を借りて、彼が目にした鴉の大群が作る「暗黒」の深淵を「世界の中心」と表現してしまうこと。愛のある光景でも、祈りでも、優しさや温もりでもなく、絶対零度の孤独の最中で、一文無しの状態の男が公園で空ろに捉えた鴉の奇妙な舞に「存在」との「通路」を見出すということ――この突出した視点こそ、私が中村文則にハイデッガーや入澤康夫との接点を見出す由縁である。
 周知の通り、戦後日本を代表する詩人でありフランス文学者の入澤康夫は、萩原朔太郎賞に輝いたその『遐い宴楽』(2002)の中で、先に引用した中村の「世界の中心」、あるいは「空」の体制を以下のように表現している。

そして
だれひとり与りしらぬ
「次なる巨神」の
五本の爪が
明けやらぬ南東の空を いま
力任せいひつかく

血塗れの天空を
斜めに断ち割つて流れる白い帯が
端から徐々に反り返り 巻上つて行くときに
悪霊どもは
村中の牝豚の胎内で一斉に目覚める
新しい嵐の季節の ああ これはまた
なんといふ気配 なんといふ熱ばみ

差当つて 風はもう小半日も止んでゐる
強い西日に染められた旗といふ旗
日除けといふ日除けは萎え
いまし 沈黙の天使の一群が
上空を
よろめきながら翔け過ぎて行く

何かが来る!
何かが来る!
そしてすべてこれらの事どもが
あの入口の無い塔の内部で
あらかじめ準備され 醗酵して 生じたのだ
といふ噂

(その噂の真偽も 明朝までには判然とするだらう)

(もしも明日が あるとしたなら……)



「不気味なもの」の詩的力能という点で、私は入澤に勝る詩人を未だ知らない。ここで重要なのは、中村が描いた「鴉」どもが、広漠たる虚ろな空の「暗黒」として、「存在」を開示している点である。この「空」をあと数秒凝視した世界を描き出したのが、いわば入澤であり、詩人にとってそれはまず、「血塗れの天空を斜めに断ち割つて流れる白い帯」という符牒を伴って表現される。しかも、その「白い帯」は、「端から徐々に反り返り巻上つて行く」のであり、この瞬間、下方に広がる「村」(都市)に存在する全ての「牝豚」の「胎内」で、「悪霊どもが一斉に目覚める」という。直後に、「沈黙の天使の一群」が「村」上空を大慌ててで通り過ぎ、その後、天使たちをまるで「追う」かのように、詩人は「何かが来る」のを認める。「何か」の正体は不明であるが、予兆として獣類の子宮の内部で悪霊が覚醒している。いうなれば、この「何か」とは、「悪霊ども」以上の存在であり、天使の大群が震えつつ、「よろめきながら翔け過ぎて行く」ほどの禍々しい存在である。
 中村はまるで入澤の描いた「何か」を予感するかのように、「世界の中心」としての「巨大で、圧倒的な暗黒」に入りたいという素直な欲望(いわば秘儀的なイニシエーションへの意志)を吐露している。「私は一つの純粋な存在となって、あの亀裂の中に、入りたいと思った。この残酷さと鋭さに見合うだけの、全てのものを捨てようと思った。記憶も、この世界とのあらゆる関わりも、何もいらなかった。私は一つの存在として、一つのもののように、この巨大な亀裂の中に入っていくのだと思った」――これこそ、『最後の命』では私が見出せなかった「崇高」に他ならない。
「崇高」は、バークが述べたようにその本質を「恐怖」、「戦き」に持っている。落雷、稲妻、大洪水、竜巻、地割れ……これら自然の作り出す「災厄」は、「崇高」に他ならない。ここに、中村と入澤の感性から獲得した詩的要素を踏まえて再解釈しておこう。「崇高」とは、「あらゆる意味や価値を霧のように吞み込んで砕く、この世界の中心にあるような、巨大で、圧倒的な暗黒」(中村)であり、「牝豚の胎内」で「悪霊ども」が目覚める日に、大慌てで空を逃げて行く天使の群れを追う「何か」である(入澤)。18世紀のドイツ美学が定式化した美的範疇論を再び持ち出すと、文学は「醜」、「悲愴」といった要素だけで自立するわけではなく、「崇高」を伴うことによって初めて「世界」を構築するということである。ハイデッガーは『哲学への寄与論稿――エアアイグニスについて』の中で、「存在」の本質を「底無しの深淵」であると規定した。そして、この哲学者はその思索を深化させる過程で、不可避的に入澤康夫と同じく「次なる巨神」(ハイデッガーは「最後の神」と呼ぶ)を存在論的体系の内部に吸収するのである。否、むしろその体系から跳躍する操作子として、「最後の神」が「底無しの深淵」から顔を出したのだった。
 やや中村文則の作品から脱線したが、「世界の果て」という短編は四つの節から構成されている。このうち、(3)はいつ人を殺害しても不思議ではない少年の陰鬱な心象を中心に描かれる。最早引用することはないが、この少年の孤独感は宗教学的に把捉できるものであり、その場合やはり一種の「超越的世界との同一化」が志向されていると考えられる。こういった性に目覚めた最初期の学生時代の複雑な心象世界は、我々も共感できるものであるが、中村が他からは明らかに異質な点は、おそらくこの作家特有の「底無しの深淵にあえて下降していく」その稀有な感覚様態にあると思われる。(1)と(2)は犬の死体を捨てに行く「僕」、(3)は少年の「ぼく」、そして(4)はまた別の男性であり、人生のレールから逃げ続けること自体に「生」を見出している、現代の極度に麻痺化し分裂症に陥った資本主義社会の裏面のような人物である。いずれにしても、彼らは「世界の最後」を希求している点で、本作には終末論的な感覚が漲っている。だが、単に暗黒を極北まで極めようとするだけでなく、中村文則には不思議なリリシズムと「崇高」なものへの静かな熱狂が感じられる。
 生きることに疲れ果て、明日にもナイフを握りかねないような人間にこそ、この本は読まれるべきである。そのような恐ろしくも美しいダイナマイトのような感覚を、この書き手は秘めているに相違ない。





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