† 文学 †

『きことわ』――朝吹真理子の砂時計のひっくり返し方


きことわきことわ
(2011/01/26)
朝吹 真理子

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 朝吹真理子の芥川賞受賞作『きことわ』を読んだ。受賞当時二十七歳であり、慶応義塾大学で近世歌舞伎を修めている。
「永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない」――この印象的で謎めいた冒頭から始まる物語は、「瞬間と永遠」という非常に奥深いテーマを持った、どこか懐かしさの漂う作品である。永遠子は十五歳の高校一年生、貴子は八歳である。これが第一の時間の地層で、「現在」からちょうど二十五年前に当たる。第二の時間の層(現在)は、永遠子が四十歳、貴子は三十三歳だ。1984年――二人が過ごした夏の記憶を、都市空間の中の「渋滞」という「余白」的な時間の最中で、ふと思い出す。

「しかし幾億年むかしのことも幾光年さきの場所も夢のなかではいつもいまになり、ひかりなどがのろいものにおもえる」(p20)


 復刊されて再評価され始めている松浦寿輝の『平面論』の概念から考えると、「夢」も「過去」も共に意識が作り上げる「イメージ」に過ぎない。朝吹真理子にとって、「現実」も「夢」も「過去」も、その境界線は常にアモルフである。

「雨」
 永遠子は自らのことばにはっとして起き上がった。雨が降っている。現実の音であったのかと、永遠子はいそいで洗濯物をとりこむ。さいわい雨は降りはじめで衣類はどれも濡れてはいなかった。とりこんだ洗濯物をソファにのせて窓をしめようと振り返ると、また同じように外に洗濯物がかかっている。置いたはずのソファの上の洗濯物は消えていた。永遠子はふたたびとりこむ。ソファの上にのせる。窓をしめようと振り返れば、また外にかかっている。とりこむ。今度はさきに足で窓をしめる。洗濯物をソファの上にはのせず、手でつかんだまま、確認のため、そろりと振り返る。つかんでいた洗濯物がこつぜんと失せる。これもまたべつの夢だと気づいてからも、目のひらくのを待つより夢の身体が反射的にうごいてしまっていた」(p21~22)



 私はこのテクストを読んでいる時に、ボルヘスの文体が往々にして「時空超越」を繰り返すことを想起していた。彼は現在、過去、未来を同時に見ることのできる視点を、例えば「八岐の園」で設定しているし、「円環の廃墟」の中では、周知のように夢の中で創造した人間を現実へと押し出す。だが、朝吹真理子ほど何気ない日常が一挙に「夢」へ、あるいは「過去」へと侵入していく文体は正直、ボルヘスでも思いつかなかっただろう。この描写を読んだ時、私は何か「時間」について考える上で電撃のようなものを感じた。朝吹真理子にとって、時間とはおそらく時系列がばらばらになっているか、あるいは一度アウグスティヌス的な直線的時間としてドラマ化したストーリーラインを、意図的に「骨折」させていると思われる。換言すれば、過去であれ夢であれ、全ては現実の意識が齎す「イメージ」の操作によって驚異的に結合・同居させられるのだ。これはいうまでもなく、谷川渥が『表象の迷宮』で規定した、「バロック」的文体に他ならない。あるいは、この時間構成を「皮膚」として考えれば、マニエリスムを代表するあの《四季》を描いた画家とも相関するのではなかろうか。朝吹真理子――この一人のイメージのマニエリスト。
 これも有名な命題の一つだが、荘子はかつて夢の中で蝶になっている自分を見たという。そして、目覚めた時に彼は以下のように考えた。「今の私は、あの蝶が夢見ている虚構なのか、それともあくまでも蝶は私が夢見た虚構に過ぎないのか……」――私が『きことわ』を読んでいて感じていたのは、まさにこの荘子の問いだった。夢、現実、そして過去のイメージ、これらは全て同じようにあやふやで、不定形で、ぼんやりと半透明なスクリーンに映る「像」に過ぎないのではないだろうか、と。
 

「当日、貴子との約束の時間よりずいぶんとはやく葉山についた。秋も闌けたというのにあるいくらいの陽がさしている。海はかわらずひっそりとしていた。おだやかな波はマリンスポーツに適さないからか、盛夏でも遊泳客はすくなかった。海浜に打ち上げられた外国製の空き缶や、波に現れて摩滅したガラスを必死になって拾っては、貴子の父親が中学時代に使っていたという旧式の学習用顕微鏡で拡大し、波をうつしとったようなガラスに走る白い筋を熱心にみていた。晴れたり雨が降ったり、気象によって一瞬ごどにかわる海浜に洗われることで物質は少しずつそのかたちを変えてゆく。ガラスに走る筋を気象の記憶のように思っていた。松林のなかで腰をかけて、ままごとをしたり、まつぼっくりを拾っていた海浜公園を歩くと、葉山の家のひとびとと過ごしたいくつかの記憶がゆるやかにたちのぼっていた」(p33)


 ここに描かれた穏やかな時間の流れる「海浜公園」は、明らかに冒頭に「想起」の契機となった「交通渋滞」とは異なる。オットー・フリードリッヒ・ボルノウは『人間と空間』の中で、人間の「意識」によって同じ空間でも全く異なる現れ方を取ると述べていたが、これは無論「時間」についても妥当する。ここはノスタルジアを感じさせる「記憶の場」であり、海が近いということが読み手である私の魂をどこか安心させたのだった。
 本作は永遠子一人に「視点人物」が統一されているわけではない。貴子とのあいだを、視点は姉妹にそれぞれ憑依していくように移り変わる。それ自体で、文体から湧出する「アモルフ」のメタファーになっているかのように。

「貴子は、身のうちに流れる生物時計と、この家の時刻と、なべて流れているはずの時間が、それぞれの理をもってべつべつに流れていたように思えた」(p45)


「午前の光が居間にしのびこみ、壁ぜんたいが波紋のようにながく光斑を曵いていた。光を浴びた貴子と永遠子の影が壁に伸び、ふたりの影がかさなる。それが永遠子の髪と貴子の髪とがつながっているようにみえた。貴子が壁に指をさした。永遠子の短い髪が、影に目を落とすとどうしてかながいようにみえる。「影もからまってる」とふたりで影を指して笑っていると、電話の回線が過去に繋がっているように思えると和雄が言った」(p124)


 我々が過ごすこの平穏な日々の「瞬間」と、計り知れない時間の外部性としての「永遠」――。この二つが、まるで永遠子と貴子の髪の毛の「絡まり」のように、あるいは時間を越えて反復される永遠子とその娘である百花の髪の梳かし合いとして象徴化されているようにも感じられた。この髪の毛を梳かし合う描写は非常に美しく、瑞々しかった。
 あくまでも設定上のものだが、永遠子の父親は「時計屋」(貴子の父親は外科医)をしている。この「時計屋」という設定も、まさに本作のテーマである「時間」の職業的な表現として読むことができるだろう。

「食器棚から欠けのない皿やグラスをえりわけていると、はめこみのガラスに、永遠子はひとのすがたをみとめた。ガラスで屈折した自分のすがたに違いないのだが、このひとをむかしもたしかにみた、と永遠子は思う。ゆがんだ自分の像がうつっているだけなのだが、ちいさなころも、この食器棚の前を通ると、いまみている自分のすがたとおなじような、年をとった大人のすがたが映りこんでいるように思えた。それは実像をさきどりして映っていたのではなかったか」(p61)


 馴染み深い昔遊んだ家の食器棚のガラスに、今の自分が映っている。過去にも、永遠子はこのガラスを一度見ているわけだ。そこまでなら、おそらく他の作家でも描写できるだろう。だが、朝吹真理子は更に一歩踏み込んで、「ちいさなころも、この食器棚の前を通ると、いまみている自分のすがたとおなじような、年をとった大人のすがたが映りこんでいるように思えた。それは実像をさきどりして映っていたのではなかったか」とまで書き込んでいる。これは換言すれば、「二十五年前」の少女にも、「今」の私が見えていたはずだという、まさに「過去」と「現在」が幻想の力によって交叉配列上に織りなされるイリュージョニズムそのものであろう。そして、この懐かしい、もう少しで取り壊しになる「別荘」という建物には、時間的な地層の堆積がある。この堆積=記憶が、いわば「ガラスの鏡像」を媒介にして描き出されているのだ。
 物語を読んでいくと、永遠子には昔、もし生きていれば貴子と同年齢だったはずの妹がいたことを母親から聞かされるという場面になる。しかし、母親はその妹を生まなかったという。また、貴子が死んだ母親について考える描写には、以下のような印象的なテクストが見受けられる。

「貴子は、自分が母親に会えないのは、母親にみられている夢の人だからではないかと思った。母親が起きているあいだ貴子は眠り、貴子が起きているあいだ母親は貴子の夢をみている。自分は夢にみられた人なのだから、夢をいつまでもみないのではないかと、それこそ夢のようなことを、とぎれとぎれの意識のなかで思っていた。明日に差し障るだろうから目をつむる。それでも目は眠りにつかず眠りと眠りのあいだを漂っていた」(p116)


 この貴子の夢にまつわる意識も、「夢」と「現実」の入れ子状の位相を描いていて極めて印象的だ。たんに哲学的に、あるいは抽象的思考によってそういった現実の仮想性が浮き彫りになるのではなく、作者は「ひらがな」を意図的に多用した、流麗な文体によって丁寧にドラマティックに物語っていく。それが評論的な文体でしか物語を紡ぎえなかったボルヘスとは、また異なる魅力といえるのではないだろうか。
 物語のラストでは、この思い出の空間としての「別荘」が取り壊されて更地になる。作者はこの建てられ、人が住み、離れ、壊され、またそこに新しく建てられ――というプロセスを「自然の移り行き」のサイクル、宇宙的な循環のサイクルに擬えている。ここには仏教思想的な「輪廻」に対する朗らかな肯定を感じもする。『きことわ』を流れる時間は、かといってウロボロスの蛇のように「同じものの反復」に支配されているわけではない。そこには差異があり、郷愁があり、同時に過去と現実、夢の境界線の抹消がある。処女作『流跡』でも見られる「ひらがな」の多用にも、明晰な対象の輪郭を意図的に不透明・不鮮明にして、全てを夢幻的な活動写真に変容させていくような「魔術」を感じる。この作者はもしかすると、「現代」ではなく、もっと別の時代に暮らしているのかもしれない――そう感じられるほどである。
 設定上のことだが、古生物学、先史時代の地球についての知識の他、ボビー・フィッシャーの書いたチェスの入門書、和雄の趣味であるレコードに出てくるマニュエル・ゴッチングの「E2-E4」、「シシリアン・ディフェンス」、それにライヒの「18人の音楽家のための音楽」、「木片のための音楽」、Deutsche Grammophonなどといったスパイスも印象的だった。


 







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